利己と利他と利己

自分はカレーが食べたいけど、友だちはラーメンを食べたい。
友だちには好きなものを食べてほしいから、どちらかというとラーメンを食べに行きたい。

こういうのが多いんですよぼく。

…と、ここまで読んでくれた方のなかには、ぼくのことを「他人を優先できる優しい人だ」と評してくれる褒め上手さんがいるかもしれません。しかしそれは間違いです。

この場合、自分のなかの「カレー食べたい欲」と「友だちに喜んでもらいたい欲」が競い合って後者が勝利したというだけの話なので、ラーメンを食べるのは自分のための選択です。自分の欲望を優先させた結果、ラーメンを選ぶのです。

さて。
いきなりの決めつけですが、世の中のすべての人はエゴイストではないか、というのがぼくの考えです。厳密なエゴイズムとは少し違うのでしょうけど、言いたいことは伝わってくれるんじゃないかと思います。利己も利他も、全部まとめて自分の欲望で、ぼくたちはそのための選択と行動を繰り返しています。


考えを補足するために、ちょっと例をあげてみます。

自動車を運転しているとき、横断歩道に歩行者がいます。
運転免許を持っている人はわかると思いますが、自動車は横断歩道を渡ろうとしている歩行者の通行を妨げてはならないので、一時停止して渡ってもらう必要があります。しかしながら、それを知らない歩行者は自分が道を譲りたいがために自動車に先に行くよう促し、譲らない歩行者を見かねたドライバーはそのまま進行、道路交通法違反をおかしてしまいます。

自分が焦って渡らなくてはいけない。他人に道を譲れるようないい人になりたい。理由はいろいろあるのでしょうが、結果として自分自身の望みのために道を譲っているわけで、一見すると(当人もそう思っているかもしれませんが)利他的な行動でありながら、ドライバーには迷惑をかけている、という事例です。

こういったものは、世の中に非常に多いような気がします。俗な言葉を使うと、「自己満足」というやつですね。その世界では、本当に相手が望んでいることを叶えられているわけではありません。

冒頭のカレーとラーメンの話に戻りますが、もしかしたら友だちは「ラーメンが食べたいけど、それよりも、美味しそうにカレーを食べるあなたが見たい」と思ってくれているかもしれません。その場合、実際の利他的な行動はカレーを食べに行くことです。

さて、お互いが譲り合いの精神(という名のエゴイズム)を持っていた場合、何も決めることができません。どちらかが譲って、譲られてあげるしかありません。奢り奢られだってそうです。奢ってもらってばかりで申し訳ない気持ちになるのは嫌なんだけど、先輩の顔を立てるために今回もご馳走になります、という後輩の心境です。この場合、もしかしたら後輩の方が苦しみを味わっているのかもしれません。簡単に判断できるものではありません。


この辺りの感情を定量的にできて、かつ相手と比較できればいいんですけどね。できたとしても、自分の幸せを数値化しようとしたときの関数には相手の幸せの値を入れなければならない、とかいうめんどくさいことになってきます。

式にするとこんな感じでしょうか。見づらいし正確でもないので、面倒な人は飛ばしてください。

a0 = a1*x + a2*b0*x
b0 = b1*x + b2*a0*x

x:なんらかの事象
a0:Aさんの総合的な幸せ
a1:Aさん単体の幸せ
a2:Bさんの幸せにかかる係数
bも同じ

最大多数の最大幸福の考え方をベースにすると、この式ではa0+b0を最大化するためのxを求めねばなりません。数字にしてもなかなかめんどくさそうですね。もしかしたら計算式の中にcさんも登場するかもしれません。身も蓋もないことを言いますが、こんなの話し合ったって最適化できないわけです。

じゃあこんなシチュで一体どうすればいいかというと、それでも相談することです。解は見つからないまでも、最適化された真の値との差分を減らしていくことはできますからね。カレーとラーメンから選ぶよりも、カレーうどんの方がお互いにとってよいのかもしれません。それは訊いてみないとわからないことです。

逆に、相手の計算式に入っている係数の見積りを大きく誤ると、お互いに不幸せな結果となってしまいます。断固道譲り歩行者の爆誕です。


まとめです。
・「相手のため」すら自分のため
・譲り合いは譲られてこそ善
・相手を想えばこそ話し合うべき

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