3.空洞(丸に梅鉢・楽曲コラム)
良いコミュニケーション、といえば、どんなものを思い浮かべるだろうか。
その例に「キャッチボール」という言葉が使われることがある。
私はコミュニケーションを「キャッチボール」と例えるのが好きでは無い。
投げるボールが一つという前提のような気がするからだ。
誰だって、いろんな色・重さのボールを持っている。
「投げやすいボール」を持っている人が、自然とたくさん投げることになる。
投げること、受けること、がコミュニケーションの本質ではない。
他者がそのボールを投げるまでの過程と、そのボールの多様性に「どれだけ繊細に気づくか」がコミュニケーションの要だ。
そのため、私のコミュニケーションは、相手のボールがどこにどう潜んでいるのか、観察することから始まる。
観察したあと、思いもよらないボールが出てくることが一番、興味をそそられる瞬間だ。
さて、話を戻そう。
良いコミュニケーションというものが、キャッチボールではないなら、なんなのか。
「打てば響く」という慣用句がある。
コミュニケーションにおいて、反応が早いことを褒める言葉だ。
私はこのように、コミュニケーションは「響く」「響かせる」というものだと捉えている。
自分という人間から音を出す。
その反響を聴く。
反響から広さを見る。
壁に触れることもあるかもしれない。
それにより相手の広さや質感を知る。
それを「良いコミュニケーション」だと思っている。
つまり、私にとってのコミュニケーションは「未知の空洞」を知る行為だ。
他者がどんな形の「空洞」かを、私が音を発することで知る。
その響きを心地よいと思うとき、「この人と話がしたい」と思う。
逆も然りで、私もまた「空洞」である。
相手が、私の響きを心地よいと思うからこそ、話をするのだ。
この「空洞型」のコミュニケーションをとる人は少ない。
だいたいが「キャッチボール型」だ。
私の中にある多くのボールは、良くも悪くも変わっているのだ。
相手にとって、投げ方のわからないボールを投げてしまう可能性が高いのだ。
投げて、相手がそれを落としてしまったら、たちまち場の空気が萎れる。
可能な限りそのリスクを下げたい。
そのため、「キャッチボール型」のコミュニケーションでは、自分の中にある投げやすいボールをいくつか保管しておいて、それだけを投げるようにしている。
「空洞型」のコミュニケーションは、投げる・落とすの不安はない。
音の発し方に害がなければ、どこまでも潜り合える。
これらの歌詞は、そういう私のコミュニケーションの取り方が、色濃く反映されている。
私と他者はどちらも「未知の空洞」。
「未知の空洞」たちの響きが、溶け合う。
それは少し、恐ろしさを感じるような、霊的体験のようにも思える。
他者が死んでしまえば、キャッチボールは出来なくなる。
しかし、自分という空洞に響いた音は、「振動」と認知されないほどのかすかな揺れになったとしても、空気として残り続ける。
「生死関係なく在り続ける他者の響き」
それを「空洞」として、この曲に託したい。
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