言葉とは知性かもしれない
noteに書くことは正しいかも間違っているかもわからない、ただ自分で感じたこととか思ったことを書くということをしているだけです。
素敵だと思う人はよく本を読んでいますね。
かといって読まない人も好きです。どちらも好きです。
ただ、この人の発する言葉は心の奥底に響いて忘れずにいたいなって思う。そのような人の過去や人生はどのようなものであったのだろう。生まれてから今までに見たもの、触れたもの、もらった言葉、優しさ、景色、匂い、感情、すべてが気になって仕方ないものです。
私は幼少期に誰しもが持っている感情表現の美しさが好きです。綺麗なものを見て、綺麗だねと言って、休んでる子にも見せてあげたいねって言って、次の日にはこんな綺麗なものがあったんだよって教えてあげる。今度は一緒に見れたらいいね。見れたら、一緒に見れて良かったね。
その美しい流れが幼少期にある。無垢で屈託のないまっすぐなその感情は保育現場にいくと心から感じることができる。たまに泣きそうになることもある。とてもとても尊くて、美しくて、優しい。
だから笑ったり、泣いたりすることを簡単に済ませてはいけない。なんで笑ってるのか、なんで泣いてるのか、その深い部分をほおっておくこともある。だってみんな生きるのに必死だから、辛いことも忘れて、笑っていた方が楽しいから。そうじゃないとこれから先、もっともっと大変なこともあるから。
でもそれを無視せずに向き合えた人はどれくらいいるだろう。向き合ってくれる人に出会えた人はどれくらいだろう。その時きっと心は満たされて、その人のこと時間が経っても忘れないだろう。いや、忘れてしまうかもしれない。何年か何十年かしたら忘れてしまう。忘れるようにできているから。忘れるかもしれないけど、その人の持つ感性のほんの一部になれていることは間違いなく言える。
その人の知性や言葉や感性の形成は環境や経験の中にある。だから人と関わることを疎かにしてはいけない。人に与える言葉や態度を疎かにしてはいけない。形式を守ることにとらわれて大事なことを見失いでいたい。社会のルールや基盤を守ることは当然だけど、自分の中にある信念をどうか見失わないでいたい。
いろいろ思うことはあるけど、完璧なんて難しいと大人になって気づいた。みんな不完全な中でどうにか良いものにしようともがいている。でもそのもがきがあるかないかで人生の濃さが変わってくる。もがいて苦しんで失敗してを繰り返して、最後に答えが見つかった時、初めて人は自信を持って自分の道を歩ける気がする。早く見つけることができたら良いことなんだけど、見つけるにはやっぱり経験するしかないんだよね。
今日は少し長くなってしまったな。こんな長い文を読んでくれた人がいるならとてもありがたいです。ありがとう。
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