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さすらいの診療放射線技師 1

こんばんは。春原いずみです。
以前「昼稼業方面のことも書いていきたい」と言っておりましたが、年も明けましたので、ゆるゆると不定期で始めたいと思います。
思い出した順に書いていきますので、時代があっちいったりこっち行ったりしますが、あまり深く考えずに、暇つぶしに読んでいただければ。
ではでは、始めます。今回は「忘れられない年越し」です。

年末年始に働かなくなって、もうずいぶん経ちます。病院勤務時代は職場でただ1人の独身者だったため(笑)年末年始は必ず働いており、年明け1発目のポケベル呼出の帰りに初詣するのが習慣でした。
しかし、当直勤務はしたことがないので、病院で年越しをしたことは、実はただ1回だけです。その1回の話をしましょう。

それは今から?10年前、私が新卒で就職した…初めての大晦日でした。
当時、私は東北のある都市で勤務していました。初めての一人暮らし。大晦日はポケベル待機で、元日の午前9時にベルが開けて、実家に帰る予定でした。当時はまだ東北新幹線が開業しておらず、某都市から実家までは、特急も急行も通っていなかったため(笑)鈍行で5時間(!)かけて帰っていました。
帰省荷物を作り、ぼんやりテレビを見ていた午後9時、ポケベルが鳴りました。その頃のポケベルはディスプレイなどなく、本当に鳴るだけ(笑)。病院からの呼出であることはわかっても、外来で呼ばれたのか、病棟で呼ばれたのかわからないので、病院に電話するしかありません。
電話すると医事課の当直が出て「Nさん(春原の本名)、暇だったら、つまみあるし、遊びにおいでよって、Y先生が言ってるよ」とのこと。Y先生は整形外科医で、当日の当直医でした。感情の起伏の激しい先生だったのですが、なぜか私はとても気に入っていただいて、可愛がってもらっていました。「わかりました-」。どうせ1人の年越しです。私は家にあったみかんやポテチを自転車に積んで、夜の病院に出かけました。
病院に着くと、外来の当直室で、医事当直、外来ナース、それにY先生がテレビで紅白を見ながら、賑やかに盛り上がっていました。さすがにお酒は飲めませんが(笑)お茶を飲みつつ、みんなでわいわいとテレビに突っ込み入れたり、院長の悪口言ったり(笑)。そんな午後11時近く、外線が鳴りました。
「はい、○○病院です」医事当直が電話を取って、すっと真顔になります。「先生、救急です」
テレビを消して、私たちは電話を替わったナースを見ます。
「…心肺停止、瞳孔散大ですか…」
ちらりとナースがY先生を見ました。先生は軽く頷きました。
「いいよ。救急隊さんも困ってるんだろ。できるだけのことはしよう」

救急搬入は、それから10分後でした。
搬送されてきたのは、40代の女性。救急隊の報告通り、心肺停止、瞳孔散大。見た瞬間に、その場にいた全員がため息をついてしまう状態でした。しかし、病院に搬送されてきた以上、蘇生はしなければなりません。救急隊に替わって、Y先生が心臓マッサージを開始し、モニター、ルート確保が行われます。
「N、ポータブル持ってきて。胸部撮ってくれる?」
「はい」
私はレントゲン室に走り、自動現像機のスイッチを入れてから(当時はまだCRは普及しておらず、アナログでした)、自分の机に置いてあった白衣を羽織ると、大角のカセッテを持って2階に駆け上がりました。ポータブルのX線撮影装置は2階病棟に置いてあったからです。自重100㎏を越える装置を押してエレベーターに乗り、1階の外来に下ります。
「ポータブル来ました!」
外来の救急処置室に戻ると、カウンターショックをかけているところでした。
「離れて!」(よくドラマで言いますが、これは本当です)
カウンターショックに反応はありません。
「N、1枚撮って」
「はい」
患者さんの背中の下にカセッテを入れるために、片手で患者さんを抱き上げます。
冷たい。冷たくて…重い。
それは私が心肺停止の患者さんに触れる初めての経験でした。
救急隊の情報に寄れば、すでに患者さんの心臓が止まってから、30分以上が経過しています。肌のぬくもりもなくなり始めています。
撮影が終わり、私はポータブルを廊下に出してから、写真を現像するために、レントゲン室に走りました。
出来上がった写真を持って、再び救急処置室に戻ると
「ボスミン心注!」
Y先生の声。廊下で抱き合って泣いている高校生くらいの子供たち。立ち尽くすお父さん。

蘇生は45分に及びました。
「…やめよう」
Y先生の掠れた声。
「点滴抜去。…きれいにしてあげて」

患者さんは拡大心筋症でした。
レントゲン写真に写った心臓は、肺を圧迫するほどの大きさになっていました。
「N、つき合わせてごめんな」
疲れ切った表情のY先生が、私の頭にぽんと手を置いて言いました。
「実家帰るんだろ? 気をつけて帰れよ」
「はい…」
時計はすでに午前1時を過ぎていました。
私たちは蘇生術を行いながら、年を越えてしまったのでした。

診療放射線技師という職業柄、死に直接関わることはあまりありません。
というか、関わらないと思っていました。その時まで。
しかし、あの冷たさ…重さ。そして、家族の涙。
それは私が初めて身に迫って感じた「ひとの死」でした。
わけもなく、私は1人帰ったアパートで泣いて、実家に帰る列車の中でも泣いていて…家族を驚かせてしまいました。

あの年越しからすでに四半世紀を超え、私は救急処置室やCT室、病室でいくつもの死に関わってきました。
そして、その度に思うのです。
なんて、儚いのだろうと。
だからこそ、思います。
なんて…愛しいのだろうと。
この手に触れるあたたかさは、なんて愛おしいのだろうと。