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スノーマンの涙

肩のあたりがやけに冷えると思った。
「暖房……切れたのか……?」
 小さくつぶやくと、内海尚之はすっとベッドの上に身体を起こした。普段から寝覚めの良さには自信がある。そんな内海に対して、長年の恋人である整形外科医の吉永辰也は、頑丈そうな見かけによらず、低血圧で死ぬほど寝起きが悪い。本人曰く、当直帯に本当に寝てしまうと、自分を叩き起こした看護師と患者の首を絞めてしまいかねないので、できるだけ正気を保ったまま、せいぜいうたた寝程度に抑えるようにしているというほどだ。
”僕だったら、そんな生活、三日もできないな……”
 内海は逆に睡眠不足に弱い体質だ。論文書きや読書に夢中になりすぎて、夜を明かしてしまったこともないとは言わないが、その後の気分は最悪だ。頭が重く、時にはひどい頭痛に襲われることもある。さすがにそこは医師であるから、自分の状態はきちんと把握できている。体質にあった鎮痛剤を飲んで、素知らぬ顔で仕事はしているが、自分の体力のなさと自己管理の甘さに、どっぷり自己嫌悪に陥るという寸法だ。
「ああ……寒いはずだ」
 するりと狭いベッドから降り、内海は当直室のブラインドを開いた。
 外は一面の銀世界だった。低く降りた冬の雲と夜のうちに降り積もった白い雪。東京の雪は、雪国のもののようにふんわりとした質感はないが、やはり太陽の光を反射する白さは同じだ。そのまぶしさに、色素の薄い瞳を瞬きながら、内海はすっと視線を落とし、ブラインドを静かに閉じた。
「雪の……朝か」
 昨夜、寝る前に飲んだ温かいミルクティーが、まだ胸のあたりにわだかまっている。彼は胸に引っかかったまま、どうしても飲み込むことのできないひとつの感情をもてあましながら、大きくため息をついたのだった。

「おはようございます」
 当直あけの朝は、当直室でさっとシャワーを浴び、きちんと着替えてから、内海は朝食をとることにしている。性格的に、寝起きのまま人前に出ることが好きでないのだ。明けだからと目こぼししてもらえるのはわかっているが、こればかりは持って生まれた性分というものだ。
「おはようございます」
 朝の早い春谷が、読んでいた新聞から視線をあげて、にこりと笑う。
「昨夜はいかがでしたか?」
「おかげさまで、寝入りばなを叩き起こされるのだけは免れました。ステルベンもありませんでしたから、まずまず安泰ですね」
 すでに運ばれていた朝食の箸を割りながら、内海は答えた。
「……急に雪になりましたね」
「長くは続かないようですが。しかし、さすがに東京ですね」
 春谷が苦笑している。
「はい?」
「いや、うっすら積もる程度の雪で、もう交通機関は麻痺気味だそうですよ」
 音を下げてあるテレビのニュースは、延々と交通情報を流し続けている。
 整形外科医の春谷貴倫は、確か北海道の出身だ。生まれも育ちも東京郊外という内海は、曖昧に笑うしかない。
「まぁ……雪なんて、年に一回積もるか積もらないかですからね。車も道路も、そういう装備をしていませんし……」
「お、内海、今日はゆっくりだな」
「え」
 唐突に、がらがらとサッシの開く音がして、やたら滑舌のいい男の声が聞こえた。
「よ、吉永……君、いったい……」
 医局のカンファレンス室には、ベランダがついている。そこから、内海の恋人は現れたのである。
「いやぁ、やっぱり寒いわ」
 白衣の肩をすぼめて、吉永辰也は白い息を吐きながら、室内に戻ってくる。
「外、零度くらいじゃねぇの?」
「それほどじゃないと思いますよ。十度近くあるでしょう」
「へぇ、そうかぁ。やっぱ、九州人の体内温度計は高めに設定されてんな」
 春谷が穏やかに応じるのに、吉永は感心したように頷いている。素直と正直が、この男の美点の一つである。
「見慣れねぇせいか、俺、何だか、雪見ると妙にうきうきするんだよなぁ」
 にこにこと上機嫌で言い、吉永は後ろ手に隠していたものをひょいとテーブルにのせた。
「おやおや……」
 春谷が新聞をたたみながら、笑う。
「かわいいだろ?」
 吉永がテーブルに置いたのは、小さな雪だるまだった。この少年のような笑顔の男は、寒い中白衣一枚でベランダに出て、うっすら積もっていた雪を集めて、雪だるまをこしらえていたのだ。
「うは……もう溶けかかってる」
「水分の多い雪ですからね。固まりにしやすい雪は溶けやすいんですよ」
 雪国出身の春谷が解説してくれる。
「ほら……もう積もっている雪も溶け始めている」
「あーあ、あっという間だよなぁ……つまんねぇの」
 吉永は棚から皿を一枚持ち出してくると、泣き始めている小さな雪だるまをそっと乗せた。
「前にさ、みんなでスキーに行ったの、楽しかったよなぁ。また行きてぇな」
「……転んでばかりだったくせに」
 内海がぼそりと言った。窓際のコーヒーメーカーから熱いコーヒーをついで、吉永の前に置く。
「今度こそ骨折するぞ」
「あ、ひでぇ。俺の運動神経、甘く見てるな」
「寄る年波には勝てんぞ」
 ばっさりと切って捨てる内海に、春谷がくすくす笑いながら、立ち上がった。
「じゃあ、お先に。病棟を回ってきます」
「あ、昨日のオペ患、よろしくな」
「わかりました」
 春谷が出て行き、朝のカンファレンス室は静かになった。内海は箸をとって、卵焼きに野菜の煮物というシンプルな朝食をとりはじめた。
「……なぁ」
 コーヒーを飲みながら、つんつんと雪だるまをつついて、吉永が言った。
「あんた……雪、嫌いなのか?」
「……」
 内海は無言で視線をあげた。吉永が軽く首を振る。
「いや、何かそんな気がしただけ。今朝は何だか無口だからさ」
 吉永という男は、おおざっぱに見えて、その実、ひとの心の機微にはかなり敏感だ。生来の勘の良さなのだろう。彼はひとの心の向かっている方向をいつも正しく見極める。
「……僕が嫌いなのは、雪じゃない」
 朝食を半分ほど片づけて、内海はぬるくなったお茶を飲む。
「……僕は……雪だるまが嫌いなんだ」

 雪は晴れ間を挟んで、夜までの間に断続的に降り続けた。
「凍らなかったのが幸いだな」
 溶けかけた雪でぬかるんでいる道路を、慎重に運転しながら、内海が言った。
「スタッドレスタイヤなんか装備していないからな。道が凍るようだったら、車を置いて行かなきゃならないところだ」
「だから、車通勤って面倒なんだよなぁ」
 助手席で長々と身体を伸ばして、のほほんと言う吉永を、じろりと内海がにらみつける。
「その他人の車通勤の恩恵に浴しているのは誰だ」
「他人じゃねぇもん」
 間髪入れずに返されては、二の句が継げない。内海はぶっつりと黙り込む。
「……なぁ」
 内海の自宅のある住宅街に入って、車の速度が落ちた。
「あんた……雪だるまが嫌いって……言ってたよな」
 吉永がぽつりと言った。
「それってさ……子供の頃のことが原因……なのか?」
 内海には、子供の頃から患っていた持病があった。習慣性肩関節脱臼。すでに吉永の手によって完治しているものであったが、幼い頃から、それはかなり深刻な状態で、子供らしい身体を使った遊びなどほとんど内海には経験がないはずだった。
「まぁ、そうかな」
 ガレージのシャッターをリモコンで開けて、内海は慎重に車をバックで納める。
「厳密に言えば、たぶん君が考えていることとは違うような気もするが、僕の身体の状態が原因であったことは確かだ」
 エンジンを切ると、急に車内は静かになった。
「……こんな寒いところでする話じゃない。中に入ろう」

 ホーロー引きのミルクパン。煮立たない程度にミルクをわかし、そこに香り高い茶葉を落とし込む。ふわっと立つ暖かな香り。砂糖をここで入れてしまうのが、内海流だ。甘いものはあまり好きではないのだが、このミルクティーだけは別だ。こっくりとした甘さが欲しくて、少しだけコンデンスミルクを仕込んでしまうこともある。
「……いつのことかは忘れてしまった。樹がまだ幼稚園だった頃だから、僕は小学校の高学年くらいのときだったろう」
 できあがったミルクティーをカップにつぎ分け、内海は床のラグに行儀悪く座っている吉永に差し出した。
「……サンキュ」
 同じカップを持ってソファに座り、内海は静かな声で話を続けた。
「こんな……雪の朝だった。何でもめたかももう覚えていない。きっと、嫌になるくらい繰り返した、僕の身体に対する親の注意……無理をするな……そんなものだったと思う。僕はランドセルをつかむと、登校のために玄関を出た」
 今も忘れていない。あの朝の美しさ。目を射るような白い輝き。こぼれんばかりの光の奔流。
「……玄関先に、小さな雪だるまが並んでいた。にこにこしながら、樹が僕を見上げていた」
 樹は内海の弟だ。穏やかで優しい……今は二児の父となった青年だ。
「僕と親が言い争いになると、樹はいつも僕を慰めようとしてくれた。そのときも……きっとそうだったんだろうと思う。樹は小さな手を真っ赤にして、いくつもの雪だるまを作って……僕を見送るように、玄関に並べてくれたんだ」
 吉永は頷いた。あの樹ならやりそうなことだ。樹は優しい。ときに自分を犠牲にしてしまうほど、彼は優しい青年だ。
「僕は……そんな樹の……幼い思いやりが妙にうっとうしかった。いや……違う。小さな子供である樹にまで同情の念を起こさせてしまう自分自身がうっとうしくてたまらなかったんだ。僕は……理不尽な怒りにかられて……樹が作ってくれた雪だるまを……すべて壊してしまったんだ」
 今でも胸に突き刺さる、あのときの樹の表情。彼の目の中にあったのは、怒りではなかった。彼の幼い目の中にあったのは……間違いなく哀しみだった。そして、彼は言ったのだ。小さな声で。
『ごめんね……おにいちゃま……』と。
「僕は自分の行動を後悔したことはほとんどないが、あの……小さな思い出だけは、後悔している。どうして……僕はあんなことしてしまったんだろう。優しい弟を傷つけてしまったんだろう……と」
 あの日以来、樹は二度と雪だるまを作ろうとしなかった。どんなにたくさん雪が積もって、近所の子供たちに誘われても、二度と。
「いいんじゃねえの」
 吉永がミルクティーをすすりながら、低い声で言った。
「あんたと樹はさ、少し綺麗すぎる兄弟関係だから……ひとつくらい痛い思い出があった方がいいと思うよ」
「でも……っ」
「ひとを思ってやったことが、よけいひとを傷つけてしまうこともある。幼くして樹はそれを知ったから、あれほど優しい男になった。それでいいんじゃねぇの? あんただって、ひとを傷つける痛みを知った。それでいいんだよ、きっと」
「……」
 猫舌に、少しミルクティーは熱い。内海は無言のまま立ち上がると、キッチンに戻った。氷を取り出そうと冷凍庫を開ける。
「……っ」
 冷蔵庫の前で立ちつくしてしまった内海の後ろ姿に、吉永が声をかけてくる。
「おーい、どした? 氷、できてなかったのか?」
「い、いや……」
 内海は小さく口ごもると、冷凍庫の中にちょこんと置かれていたものを、そっと両手で取り出していた。手近にあった皿の上に、それを置き、吉永に振り返る。
「吉永……」
「あ? 何か入ってたのか?」
 察しのいい恋人は、すぐに身軽に立ち上がって、内海のそばに立った。
「……何だ、これ……」
 皿の上にあったのは、小さな小さな雪だるまだったのだ。

『娘が初めて作った雪だるまです。どうしても、尚之くんにあげたいというので、持ってきました。驚かせてごめんね。  樹 』

 夜になって、ようやく東京の雪雲は晴れたようだった。月明かりに照らされた桜の下に、ちょこんと小さな雪だるまが立っている。
「……雪だるまの涙……」
 ぽつりと吉永が言った。
「え?」
 温かいミルクティーを飲みながら、内海は静かに振り返る。
「何だ、それは」
「いや……子供の頃に読んだ絵本のタイトル……だったかなぁ」
 庭に向いた籐の椅子に座っている内海の足下に座って、吉永は顔を上げた。
「雪だるまが溶けていくときにさ、涙を流すっての。その涙は……みんなの悲しかったり、寂しかったりする気持ちをみんな持っていってくれる涙だっての……それで、雪だるまが涙を流して空に帰って行くと、春になる……って話」
「雪が溶けると……春になるか。昔聞いたなぞなぞだな」
「でも、真理だよな」
 雪が溶けると春になる。
 内海の心の中にあった小さな小さな雪だるまも、月明かりの中で溶け始めていた。
「早く……春になるといいな。雪も好きだけど……やっぱり、桜の木に咲くのは雪じゃなくて、本当の花がいい」
「ああ……そうだな」
 早く春になれ。
 みんなの心が温かくなる……花の咲く春になれ。