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カウントダウンキス

 オテル・オリヴィエのエントランスは、いつになく華やいだ雰囲気になっていた。いつもはロビーカフェになっているところの席をすべて取っ払い、大きなテーブルがいくつか置かれて、白いクロスが掛けられていた。そこに次々と運び込まれ、並べられていくのは、見事なフレンチのオードブルだった。盛りつけも美しいカナッペの数々、ピザのように見える色とりどりの海鮮や肉のタルト、何種類もの芸術的な出来のテリーヌ。デザートもたくさん並べられていて、フルーツやチーズのタルト、ファーブルトン、ガトーショコラなどが甘い香りを漂わせている。
「すげぇ……」
 今日はドレスコードがあると言われて、森住は指定された通り、スーツを着ていた。と言っても、森住の場合、通勤もスーツを着ているわけで、そのまま来ればいいとも言われていたのだが、やはりドレスコードなどと言われると構えてしまう。というわけで、いつもよりややドレッシーなオーダースーツにした。いつもならジャケットにスラックスのツーピーススーツなのだが、今日はベストも付いたスリーピースだ。
「素敵なスーツですね」
 隣でそっとささやいてきたのは、もちろん貴志である。今日の彼は、しっとりとしたシルクのブラックジャケットに、艶やかなシルクのシャツ。深いグリーンのスカーフをアスコットタイにしているのが、瞳の色と合っていて、彼の美しい容姿をますます引き立てている。スラックスはオーソドックスなプレーンボトムスで、彼の長い足をすっきり見せている。
「あんたの方がよっぽど高価なもの着てるじゃないか……」
「スーツは値段じゃないですよ」
 貴志はさらりと言った。
「あなたなら、何を着ても似合います」
「……やめろ」
 貴志という男は、ある意味恋人にすると最高なのかも知れない。何せ、言葉を惜しむことがない。彼は褒め言葉をシャワーのように降り注いでくれる。問題は、それがあまりに露骨で、時に恥ずかしくなってしまうことだ。この美しい、非の打ち所がない男が、とろけそうな笑みを浮かべて賛美する相手が。
〝俺だぜ、おい〟
「しかし、すげぇな」
 というわけで、森住はするりと話を変えた。
「あれ全部、『ポタジェ』の?」
「ええ。『松中』からは、日本酒の提供がありますよ」
 貴志が言うのと同時に、飲み物が運ばれてきた。銀のクーラーに差し込まれたシャンパンが次々にテーブルに並べられ、また、まるでワインやシャンパンのように洒落たラベルで、色とりどりの瓶の日本酒もワゴンに乗せられて、運ばれてきた。
「俺、カウントダウンパーティなんて、初めてだよ」
 かなり広いロビーには、正装した男女が笑いさざめいていた。この人数からすると、明らかに泊まり客だけではないだろう。それほど、このオテル・オリヴィエのカウントダウンパーティは有名らしい。
「お待たせいたしました」
 マイクを握っているのは、森住も見たことのある支配人だった。撫でつけた銀髪が美しいロマンスグレイである。
「本日は、我がオテル・オリヴィエへようこそ。一年の締めくくりと続く一年の始まりを、皆さまと共に華やかに迎えたいと思います」
 ギャルソンたちが、手際よくシャンパンや日本酒を抜栓し、グラスに注いでいく。客たちはシャンパンと日本酒を好みで選んで受け取った。森住にも、貴志がシャンパンを持ってきてくれる。
「私の好きなルイロデレール・クリスタルです」
 淡い金色に輝くシャンパン。すらりとスマートなフルートグラスの中に、ふわふわと細かい泡が立ち上り、シャンデリアの明かりをきららかに反射している。
「いい香りだ」
 華やかな葡萄の香り。そして、肩を寄せてくる貴志の首筋から漂う微かな花の香り。
「……あんたの方がいい香りだよ」
 森住はぼそりと言った。
「はい?」
 今日の彼は、恐らくトワレもつけているのだろう。いつも以上に華やかな花の香りが漂っている。しかし、少しもしつこくなく、傍にいるとふんわりと包み込まれるような柔らかな香りだ。
「もう一度、言ってくれますか?」
「……何だよ」
 ふんとそっぽを向き、手のグラスを見下ろした。きらめくシャンパン。見た目もよく、きっと美味しいに違いない料理の数々。そして、着飾った人たち。
 自分はここにいていいのかと、ふと思った。自分は華やかな世界には縁がない。日々、病院の中を駆け回り、手術室にこもり、夜勤ともなれば、一睡もできない夜も多い。オフの日には、ただベッドに潜り込んで、死んだように眠る……そんな日々。
 貴志のように、裕福な家庭で、忙しいながらも、愛してくれる家族と使用人に囲まれて育ったものとは、人間の大元が違う気がしてならない。
 森住が美食に執着するのは、それが『確かなもの』だからだ。美味しいものは裏切らない。食べれば間違いなく美味しくて、間違いなくその瞬間は幸せになれる。我ながら、ひどく即物的だとは思うが、森住はそういう人生を送ってきたのだ。両親から、ある意味見捨てられ、祖父母に育てられた森住は、いつの間にか、ぼんやりした『幸せ』のようなものを求めなくなっていた。そんなものは陽炎のように、一瞬の雨で消えてしまうのだから。
「みなさま、グラスは行き渡りましたか? もうじき、新しい年がやってきます」
 ロビーの明かりがふっと落とされた。と、グラスを持つ右手とは反対の手、左手をそっとあたたかな手が握ってきた。指を絡ませる『恋人繋ぎ』というやつだ。
「おい……っ」
 こんなことをするやつは一人しかいない。しかし、貴志はその手を離そうとせず、逆にきゅっと握りしめてきた。
「10、9、8……」
 カウントダウンが始まった。客たちが楽しそうに声を合わせる。繋がれた手があたたかくなっていく。
「3、2、1……っ」
「乾杯!」
「かんぱーいっ!」
 明かりが一斉に灯るその瞬間、ふわっと唇が塞がれた。
〝え……っ〟
 一瞬のキス。触れるだけの優しいキス。
「お……っ」
 明かりがぱぁっと点いた時には、すでにキスは解かれて、貴志のグラスが森住のグラスに触れていた。チンッと澄んだ音がする。
「A Happy New Year」
 本物の素晴らしい発音で、彼がささやいた。
「ありがとう。愛していますよ」
 今年最初のキスと今年最初の愛の言葉を君に。彼の瞳がささやいていた。