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1年かけて100人ちょっとで遊んだ「一年生ゲーム」がエンディングパーティを迎えた話、または、初対面なのに親近感のあるひとたちと会った話

書いた人:ニルギリ(一年生ゲーム作者)


(展覧会会場では、こんな説明文がありました)

事情がなかなか混み入っていて、一年生ゲームのことをどうまとめたらいいのかわからないままこの文章を書いている。


一年生ゲーム開始からほぼ丸一年経った2019年5月31日金曜日の夜、一年越しで集まってくれた40人程度の皆さんと展覧会会場だった3331でエンディングのパーティを開いた。とてもささやかだったけれど、とても感動的なパーティだった。「世界で初めての何かに参加している」という熱が確かにあったし、名前も知らない人なのになぜか親近感があるという不思議な体験もした。一年間で体験したこと、伝えたいことはたくさんあって、それを本当に共有できる可能性があるとしたら多分この酔狂なゲームを完走した人たちが集まる今しかないという感覚があり、しかもお互いにそう思っていたように見えた。だから、奇跡のような空間だったと今でも思っている。

それを、文字で表現するには順を追った説明が必要そうだ。ということで、まず、ゲームそのものについて説明をするので、もうご存じの方はまるまる飛ばして下さい。


一年生ゲームというのは、去年開いた展覧会「これはゲームなのか?展」に出展された10作品のうちの1つだった。ゲーム期間は1年間で、プレイ人数は100人以上。ゲーム本体は1から120までランダムに番号が振られたマッチ箱1つで、中には紙片が数枚入っているだけ。ルールカード3枚、エンディングパーティの招待状、ようこそと書かれたカード、メールアドレスが書かれたエマージェンシー用カード。ルールカードは手書きで、例えば「朝焼けを見たら1点」「団地を見かけたら10点」「ボードゲームを作ったら100点」と書かれている。これらのルールは、自分の前のプレイヤーが作ったもので、自分自身も次のプレイヤーのためにルールカードを3枚作成して次のマッチ箱に入れる必要がある。

(ルールカード3枚、招待状、ようこそ、エマージェンシーカード)

(ルールカードの裏はやった日を記録する極小カレンダーになっている)

ここで、自分の点数は自分が持っているルールを実行したときに入るのではなく、次のプレイヤーが自分の書いたルールを実行した際に入る、というのがポイントだ。つまり次のプレイヤーが1年間自分の点数を採点してくれる。一方、自分は1年間、ひとつ前のプレイヤーの点数を採点することになる。1人のプレイヤーが、前後のプレイヤーと関わるので、全員で手をつなぎ合って大きな輪を作っているようなものだ。誰がそのルールを作ったのかは、主催者だけが把握していて、具体的には何番のプレイヤーの次が何番なのかを知っていて、プレイヤー同士はわからない。

 その採点結果を伝え合うのがエンディングパーティだった。そもそもパーティに来るかどうかは自分の作ったルール次第、来ない可能性も十分にある。パーティに行くと、そこで初めて自分がやってきたルールを誰が作ったのかがわかる仕組みになっていた。もしその人が来ていればその人の点数を伝え、また自分のルールを受け取った人がもし来ていれば自分の点数を聞ける、そこで会話が発生する、というのがゲームの大枠だ。パーティへ参加意思があるのに行けない場合のために、マッチ箱にはメールアドレスが書かれた紙片が入っており、そこにメールすればパーティ中に電報のように発表されることになっていた。


 1年間プレイヤーを引きつけるために、デジタルを活用することも十分考えられた。ハッシュタグ♯一年生ゲームを使ったり、中間発表を促したりなど。ただ、今回はアナログにこだわり、何もしないことを選択した。来てくれるかどうかは、完全にプレイヤー任せだ。

 何も情報がないので、孤独な戦いになる。各プレイヤー、息継ぎせず目をつぶったままプールを泳ぐようなものだ。顔を上げるまで、隣のレーンに誰がいるのかわからない。そもそも、泳ぎ続けているのかもわからない。顔を上げたら誰もいないかもしれないし、いるかもしれない。

 プレイ期間中の1年間は、表面上ほとんどなにも起きなかった。そういうシステムは一切排除してしまっていた。ゲームの主催者としては、1年の間に、いろいろな人にこのゲームのルールを説明してまわったり、マッチ箱を洗濯してしまってもうわからなくなってしまった噂を聞いたり、全く自分にかすりもしないルールだけだった話を聞いたりはした。麻雀を全くやらない人に、役満を上がったら100点というルールがまわって来たそうだ。

 いろいろな人たちに説明をしたら、いろいろな反応が返ってきた。心から面白がってくれる人たち、「あなただけがプレイヤーで、残りは踊らされているだけみたいですね」と言う人、パーティ絶対行くよという人、「(パーティにくる人は)残って1割だね」と言う人、今頑張ってプレイしてますと目を輝かせて言う人、「何人戻ってくるか保証されていない。エンタメ失格。アートだね(笑)」と言う人。どれも新鮮だったけれど、確かなことは全然わからなかった。なにせ何もかも初めてだったし、テストするわけにも行かなかったからだ。だから、確かなことが何もないまま、プレイ期間が過ぎていった。

それとは別に、自分もこっそりプレイヤーとして参加していたので、自分のゲームは続けていた。「マジックアワーを写真に1枚収めたら10点」「椎名林檎のライブに参戦したら100点」「自分のために5万円以上使ったら100点」だ。ちなみに、ルールカードの点数は1点、10点、100点の3種類あって、内訳も各ルールの点数もルール作成者が勝手に決めて良いルールになっている。ただし、各ルールは100点満点で、それを超えると0点になってしまう。つまり、1点のルールは1年に100回まで、10点は10回まで、100点は1回のみ出来る。

プレイしてみて、自分の生活に興味深い変化が起こった。日常がルールに浸食されていくのだ。夕焼けが近づくたびに、そわそわした。そわそわしてゲームが始まった3331のあの展覧会場の風景を思い出した。マジックアワーは日没後暗くなるまでの僅かな時間なので、それを写真に撮るたびに「今、何回目だっけ」と思うようになった。

(マジックアワー)

(と、夕焼け)

また、椎名林檎のライブは100点ルールだったので1年に1回行けば良かった。元々林檎は好きだったけれど、ライブに行くほどではなかった。そもそもライブに行くことがほとんどない。でも、一般の販売日には発売開始10分前からスマホを握りしめて待機したし、チケットをとれた瞬間はとびきりのガッツポーズをした。ちなみにライブは最高だった。ゲストでやってきたミヤジが全て持って行った。かっこよすぎる。

でも、これらはすべて自分の点数じゃないのだ。あくまでルールを考えた人、自分の前のプレイヤーの点数であって、やらなくたってその人が困るだけなのだ。それでも、やらずにいられなかった。一年間見ず知らずの人、ほとんど透明な人と暮らしたような不思議な実感があった。


様々なことがあった一年が過ぎ去って、パーティの準備をするべき時がやってきた。誰も来ない場合、4、5人しか来ない場合(これが一番可能性高いと思っていた)、全員来た場合、一応すべての場合について準備することにした……とはいっても、会場代だけで予算が尽きたので、とんでもなくささやかな飲み物とおつまみ、そして友人たちにスタッフ役を頼んだことが精一杯だったけれど。友人皆さん本当にありがとう。感謝してます。

パーティには、結局電報組、当日来てくれた友人たちも含めて50人近くが参加してくれた。司会としての自分はグダグダだったが、会場の盛り上がりには一切関係なかった。参加者の熱が凄かったのだ。誰もが誰かと話そうとして、会場の半分にぎゅーっと人が集まっていくほどだったし、そこだけ単純に暑かった。自分も気づいたら夢中でこの一年間にあったことを話し、聞いていた。自分も含め、ルールに振り回された人たちはどこか誇らしげで、そして大半の人はやっぱり前の人と後の人が来ていなかったので、どこか寂しそうだった。  

パーティの参加者それぞれに温度差がなかったわけではない。自分の引いた、他人の作ったルールに積極的に関われたかどうかが影響している人が多いように見えた。そこから考えると、エンディングパーティに来るか/来ないかはやっぱりゲームに飽きているかどうか、つまりルールがプレイヤーにとって面白いかどうかにかかっているようだった。

初対面なのに、どこか親近感を感じるというのは摩訶不思議な体験だった。今思い返してみても、似た体験があんまり思いつかない。

パーティで特に印象的だったことがいくつかある。1つ目は、「スカイダイビングをしたら100点」というルールを達成するためだけに旅をして実際に達成した人がいたこと。2つ目は、最高得点を取った優勝者代理が「夜空を見上げたら1点」の、その100回目をパーティ会場で達成したこと(ちなみに代理というのは、ルールを作ったプレイヤーが来なかったためだった。)3つ目は、会場で読むことができた電報がどれも感動的で大きく盛り上がったことだ。

パーティに来てくれたなのか展メンバーが言っていた、「これで本当に第1回(の展覧会)が終わったね」という言葉、本当にその通りだと思う。いや正確に言うと、一年生ゲームはエンディングパーティを迎えたけれど、今だってマジックアワーを見るたびはっとするので、第1回展覧会は終わっても一年生ゲームは全然終わっていないのだけれど。

12月には第2回が始まる。次回も一生懸命良い作品をつくるつもりだ。


最後に、すべてが終わったあとに届いた一通のメールを紹介したい。この文章を書き始めたのは、ほんとうはこのことが目的の一つだった。どうするのがベストなのかと思っていたけれど、全文を引用したい。読みやすくするために多少レイアウトを変更した。

 『これはゲームなのか?展 ニルギリ様

「一年生ゲーム」のNO.17です。
後からで申し訳ありませんが、ご報告をさせてください。事情により、本人にかわって、一緒に参加した兄が代筆させていただきます。長くなりますが、ご容赦ください。

NO.17は、昨年の『これはゲームなのか?展』に参加する数ヶ月前、病気が見つかり、入院していました。
20代では稀な病気であり、正直、油断できないものでした。なんとか一命をとりとめ退院し、在宅での治療がようやく軌道にのったころ、久しぶりに遠出をして参加したイベントが『これはゲームなのか?展』でした。
兄や友人と一緒に、ほぼ全てのゲームを体験し、充実した時間を過ごしました。その中で『一年生ゲーム』にも参加させていただきました。エンディングパーティについても「みんなで来ようね」と語り合いながら帰りました。

その後、闘病生活が続きましたが、もともと本人はTCG(とくに遊戯王、MtG等)やボードゲームの熱心なオタク。(ゲムマ出展作品にも関わっていました。)闘病中も、毎日のようにデッキを組んだり、対戦動画を撮影したりして、ゲームをたんなる気晴らし以上の大切な生きがいにしてきました。
入院中でも、ラウンジや病室で、家族や友人たちとたくさん遊びました。

「"たかがゲーム"」が、これほどまでに人間の生きるチカラになり得ることを、ゲームに関わる皆様には、強くお伝えしたいです。そうやって楽しみも持ちながら、諦めず治療を続けていたのですが、残念ながら、この春に永眠いたしました。そういうわけで、すみませんが『一年生ゲーム』からは、一足早く失礼してしまった次第です。こういう場合は、ルール上はどうなるでしょうか?
生前までの得点で計算?
それとも失格?
・・・?
亡くなる一週間ほど前に、本人からきいた得点は以下の通りです。

【飛行機に乗ったら、その日は+10点】
→0×10=0点
インドア派なので、そもそも乗る予定はありませんでした。

【友達が結婚したら、その日は+10点】
→0×10=0点
草食系の友達ばかりなので、望みは薄かった・・・。

【虹を見たら、その日は+10点】
→0?×10=0?点
「TVでなら1回観たかも・・・」とのことですが・・・。

総合得点→0点?・・・判定はおまかせいたします。

エンディングパーティは、彼の大切な人達に会いに行く日と重なってしまったため、不参加とさせていただきました。

楽しんだ皆さんの気持ちに水をさしてしまう心配もあり、悩んだのですが、こういうプレイヤーも存在したという情報はきっと貴重だろうと思い、ご報告させていただきました。

『一年生ゲーム』についての弟自身の感想は、残念ながら詳しくきくことができませんでした。私が語れるのは、兄にとっての感想だけです。

会場で『一年生ゲーム』の説明をうけた時点で、兄としては、正直、弟の先行きが不安な中で、本人にあえて1年後の想像をうながすことには、"恐ろしさ"もありました。
ですが、弟自身が普通に参加を表明し、誰かの一年後のお題を真剣に考え、そして誰かの書いてくれた一年後のお題をたじろがずに受け取ったのを見たとき、「もしかしたら、一年後、弟とまた一緒にここに来れるんじゃないか。」
そんな光景を、兄自身が不思議なほどリアルにイメージすることができ、ほのかに明るい気持ちになれたことをおぼえています。
その後の闘病中も、兄の頭の片隅には常に『一年生ゲーム』があり、パーティ出席は無理でも、兄弟で一緒にゲーム終了を迎えて語り合うことを、ひそかな目標にしていました。実現はしませんでしたが、兄にとっては、その最初の一瞬の体験だけで、参加させてもらった意義が十分にあったように思っています。
この企画を、本当にありがとうございました。

さて、『これはゲームなのか?展』では「暗黙のルール」に関する作品が数々ありましたが、今回のことで、おそらくあらゆるゲームにおける「暗黙のルール」の1つがあらわになったかと思います。
「ゲーム中、プレイヤーは生きていること」。
『一年生ゲーム』に最後まで参加されたプレイヤー全員に対して、得点に関係なく、「この“一年、生”きてゲーム終了を迎えられたこと」を、心からねぎらい、讃えさせていただきたいです。

そして、この「暗黙のルール」について、さらに考えをすすめていくと、遊びやゲームと生と死との関係を巡る、様々な問いが生まれてきます。
・プレイヤーが生きた人間であることと、(AIなど)生きた人間でないこととのあいだに決定的な違いはあるか?
・ゲームにおいて死はどのように表現され、どのように体験されているか?それらは現実の死とどれほどの違いがあるか?
・「死者と遊ぶこと」は可能か?などなど・・・。

不謹慎と言わず、ぜひ皆さんに色々な角度から思考実験や議論をしていただけたらと思います。
そこから、またなにか新しいアイデアが生まれ、ゲームや遊びと人間との関係がより豊かになっていけば、幸いです。この度は本当にありがとうございました。
それでは、次回の企画を楽しみにしております。

 ※追記
もし差し支えなければ、この文章(匿名)をtwitterで拡散していただくことは可能でしょうか?色々な受け止められかたがあり得ると思いますが、いつかどこかで、誰かのアイデアや議論のきっかけになればありがたいです。』

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