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BATTLE OF TOKYOにみるJr.EXILEらしさの確立

サムネイルは「BATTLE OF TOKYO」公式ツイッターより引用


 さて、これといった前置きも挨拶もなくあまりに突然だが、表題のBATTLE OF TOKYO(以下BOT)とは、LDH、いわゆるEXILE系列の人たちが所属する事務所において次世代を担うJr. EXILEが集い、互いを高めあおうというテーマを冠した超大型エンターテイメントプロジェクトである。昨年、各グループの総当たりとして計6つのバトル曲を皮切りにBOTはスタートし、幕張メッセでライブも行われた。
 世界観としては、Jr. EXILEの4つのグループ、GENERATIONS、THE RAMPAGE、FANTASTICS、BALLISTIK BOYZが、BATTLE OF TOKYOではMAD JESTERS、ROWDY SHOGUN、ASTRE9、JIGGY BOYSというチームを名乗り、近未来である新TOKYOと平行世界である超TOKYOで、バビロニウム、いわゆる聖杯のようなものを懸けてバトルするものとなっている、とりあえずそういう解釈をしておく

 本noteは、6つのバトル曲等を参考にしながら、BOTをアイデンティティの達成と拡散の観点から考察し、Jr.EXILEらしさの確立を象徴するものであると結論づけることを目的として書いた。その過程において、各グループ及びキャラクターの設定まで解釈することは、筆者の知識と考察力の範囲を超えたため敢えて放棄したことを許されたい。

※一部項目にバトル曲へのリンクを添えていますが、まずは公式が提示している以下の順番でお聴きください※
 SHOOT IT OUT
 Dead or Alive
 Supersonic
 SHOCK THE WORLD
 MIX IT UP
 BREAK DOWN YA WALLS

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初めに

 本noteは2019年7月8日に音楽ナタリーで掲載されたBOTに関するコラム

の、電網都市超TOKYO(以下超TOKYO)では新TOKYOと同じ人物が違う名前で暮らしているという記述に触発された一オタクの考察である。
 筆者が持ち合わせた知識を可能な限り正確に扱おうとしてはいるが、繰り返しお伝えしておこう、あくまで一オタクの考察もとい幻覚に過ぎない。つまり堅苦しい感じで文面は進んでいくが、内容に責任を持つことはできないと断言しておく。要は、現在公開されている情報から好き放題妄想した結果をせっかくだし形にしておこう、という筆者のノリと勢いが全てである。
 同時に、これは当然ながら正解ではない。公式が正解である。そしてBOTにはSHOOT IT OUT(以下SIO)のナレーションでも語られているように、各々が知り得ない多重郷がたくさん存在するわけだから、私のBOTあなたのBOTがあって然るべきである。その中でもし関心を抱いていただけたのであれば、筆者としては公開した甲斐もあるものだ。
 また、筆者は4月にBOTを履修し始めたばかりで、当然ライブには参戦しておらず、それに派生する多くのコラムや月刊EXILEにも未だ触れていない。有識者各位はどうか、あたたかい眼差しで見守っていただけたらと思う。

アイデンティティとは

 アイデンティティという用語について、本noteにおける定義を示しておく。一言で表すと、自我同一性だ。本来ならば信頼性のある論文や書籍から引用することがベストだろうが、そこまでするのはちょっと面倒なので割愛し、心理学用語集サイコタムからのコピペで失礼する。
 本noteにおけるアイデンティティとは、エリクソン,E.H.が提唱した精神分析的人格発達理論の概念である。主体性、独自性、過去からの連続性、主観的実存的意識や感覚の総体のことで「これこそが自分である」といった自我の確立を意味する用語だ。つまり、アイデンティティの達成とは、自分が何者であるか、どういった存在であるかという自我、言い換えれば「○○らしさ」の確立がなされた状態を意味する。拡散とは、こうした自我の確立が揺らぐ状態を意味する。
 繰り返すようだが、専門的っぽい言葉はあくまで専門家としてではなく、一オタクが書いたものとして本noteでは用いられる。よって、本定義を真に受けることはせず、好奇心を掻き立てられた読者は自ら調べることでより正確な知識を得られたい。

世界観としてのBOTの背景にあるもの

 SHOCK THE WORLD(以下STW)のナレーションによると、近未来である新TOKYOでは資源が枯渇し、飢えと渇きを満たすものは簡単には手に入らない。本noteではこの設定を、いずれ遠くない未来に影響を及ぼす可能性がある現在の環境問題に置き換える。森林伐採を例として挙げると、リサイクルや植林といった対策がとられているとはいえ、いずれ様々な生物を巻き込んで尽きてしまうからである。
 枯渇をすぐそこにある現実と称することで環境問題を皮肉っていると解釈すると、なかなかに興味深いが筆者の感想はさて置き。その結果、BOTの世界観に生きる彼らは、資源が現実になければ架空の世界である超TOKYOに求めるという選択肢をとった。この行為はある種の逃避だが、言い換えるとTRPGのような一時的な娯楽の扱いであったとも解釈できる。
 いわば既に存在するキャラクター、あるいは自らが創作した人格を演じることで、架空の世界観を楽しむという趣旨だ。なりきりというと馴染みがあるかもしれない。これは先に挙げた音楽ナタリーのコラムより、同じ人物が違う名前で暮らしているという設定と関連するだろう。
 しかし逃避に似た娯楽が程度を過ぎると、資源が枯渇した現実世界に戻ることが億劫になるのではないだろうか。

一般に多重人格と呼ばれるものとの関連

 そもそも人は、例えば私的な場での顔と公的な場での顔が違うというように、日頃から様々な自我を出し入れしながら生活しているだろう。しかしその根底には様々な自我を束ねる軸のようなもの、いわばアイデンティティがあるため意識は連続している。自分は何者か、これこそが自分である、という「○○らしさ」を持ち合わせていることが前提となる。
 ではそうではない状態、多重人格がどのようにして起こり得るか、それは辛い現実に直面し続けたことによるケースが多く見られる。そのメカニズムは防衛機制から発端し、いわば辛い現実から逃げるために別の自我を作り上げて対処することである。
 しかし、やがてその自我が癖づいてしまうと、現実にある身体は一つなのに、時と場合を問わず自我が完全に入れ替わり立ち代わり、自分が何者か、どういう存在かがわからないという状態になる。しかも、本来は公的な場で出すべき顔が私的な場で出るなど、これが生活に支障をきたすレベルになると多重人格といえる。多重人格はアイデンティティの拡散を通過した上で、もはやアイデンティティを手放した状態とも考えられる。そもそも彼ら、BOTに登場する人物たちの自我がどういうものかについては後述する。
 つまり先に挙げた背景の末尾、資源が枯渇したという辛い状況にある現実世界に戻ることが億劫になる可能性は、超TOKYOにおける自我、架空の設定が新TOKYOでの生活にも顔を出しかねないことを意味するだろう。

バビロニウムの誕生

 STWによると、超TOKYOに存在する闘技場のような見目の建造物、バビロニウムはバラル、混乱によって誕生したものである。そしてバビロニウムの誕生を先に挙げたアイデンティティ等の視点から解釈すると、この混乱は自我が揺らいでいる状態、多重人格になりかねないアイデンティティの拡散を象徴していると解釈できる。
 同時にバトルアリーナに存在を変え、彼らに歌い踊ることを促すことで、DVD収録のナレーション曰く何かを教えようとしているのである。これについてはバトル曲の意義として後述する。

新TOKYO及び超TOKYOにおける自我

 背景で提唱したように超TOKYOがTRPG的バーチャル世界だとすると、超TOKYOにおける自我は、新TOKYOにおける自我、現実世界の延長線上にある彼らが創作した架空の設定に基づいて存在するものであるといえる。彼らは超TOKYOというバーチャルな世界を有意義に楽しむために、各々好きに設定をつけているわけだ。
 例えばMAD JESTERS(以下MJ)は怪盗であり、ROWDY SHOGUN(以下RS)は用心棒だが、しかしこの設定は現実世界で生活するにはそぐわない。こうした超TOKYOにおける自我が、アイデンティティの危機により新TOKYOに顔を出しつつあるグレーゾーンを描いているのが、SIO、Dead or Alive(以下DoA)、STWと考えられる。
 なお本noteでは、筆者の考察力の限界により、ひとまずSupersonic(以下SS)については新TOKYOにおける自我、MIX IT UP(以下MIU)とBREAK DOWN YA WALLSについては超TOKYOにおける自我を、それぞれ主軸に描いたものであると認識しておく。

SIOが示唆するもの

 流星祭は滅多にないというナレーションのみで具体的な頻度を読み取ることはできないが、これをきっかけに物語としてのBOTは動き出した。ここで視点を変え、流星祭は本当に偶然のタイミングで発生したのだろうかということを考察する。
 つまり、何らかの力が働いて彼らを覚醒させた。あいにく筆者は何らかの力、大いなる存在を解釈する知識は持ち合わせていないが、ここでは例えばFate/Grand Orderの異聞帯において汎人類史のサーヴァントを召還させた力のようなイメージで進めたい。これまでの提唱に基づくと、アイデンティティの拡散に抗う力と言い換えられる。何世代にもわたって超TOKYOが存在する世界が続けられてきたことを前提にすると、これまでも何度か同じような事象は起きていた。しかしその度に解決してきたからこそ、新TOKYOは新TOKYOとして存在し続けているのではないだろうか。
 これはJr.EXILEがまだ生まれていない過去、EXILE時代からの流れを汲んでいると解釈すると、世界観としてのBOTが物語としてのBOTが動き出す前から存在するという設定と整合性がある。
 また、SIOにおける自我の主軸はMJとTHE RAMPAGEであると考えられる。もちろんあくまで主軸であり、全てではない。より正確には、両グループともに超TOKYOと新TOKYOの自我が混じり合っている中で、敢えてどちらかというと、上記が前に出ているというグレーゾーンの状態である。資源が枯渇しているはずなのにMJが超高性能っぽいリムジンに乗っていること、対してTHE RAMPAGEの拠点らしき場所が廃倉庫であること、しかし将軍像が飾られていたり演出に炎が使われていたりすることが根拠となり得るだろう。

DoAが示唆するもの

 まずSIOと比較して、DoAにおける自我の主軸は超TOKYOのもの、つまり完全にRSとJIGGY BOYZであると仮定する。しかし他のバトル曲に比べ各拠点に掲げられた看板等がわかりやすく、彼らが新TOKYOでの呼称であるTHE RAMPAGEとBALLISTIK BOYZであることを示している。加えて裁判所が超TOKYO所在であることが解釈を難しくさせ、筆者としてどう捉えるか最も悩ましいバトル曲となっているのだろう。
 ナレーションによると、DoAの世界は虚で溢れていると同時に、彼らはそれをリアルなもの、真実と感じている。新TOKYOという現実で満たすことができない渇きを超TOKYOというバーチャルの世界で発散していることと、多重人格との関連で挙げた前提とを組み合わせると、STW曰く虚の魔法陣によって構成された超TOKYOの自我が新TOKYOに顔を出していると考えられるのではないだろうか。
 加えて、各々の個、自我の衝突が起きていることはMIUのナレーションとも関連付けられる。現実の実体がなくなり欺かれた自我を尊重する生き方に退屈しているとすると、超TOKYOにおける自我が新TOKYOに顔を出し、その自我を主軸にアイデンティティを達成しようとする欲が生まれているのではないだろうか。
 しかしこの達成は、物語としてのBOTにおいては決してなされてはならない。その根拠は、バトル曲の意義とJr.EXILEとしての自我に関連する。

バトル曲の意義

 エンターテイメントプロジェクトとしてのBOTの根底にある趣旨は、各バトル曲内でも示唆されている通り、各グループが歌と踊りでバトルすることで高め合うことだといえる。
 これまでの提唱に基づいて言い換えると、各グループが互いに自我を研鑽しあうことでアイデンティティの達成を目指すものである。DoAだけは判断が悩ましいがおよそ全ての歌詞の中に、バトルを行うグループ名が必ず入っている事実が根拠となり得るだろう。
 つまりバトル曲を世界観としてのBOTに落とし込むと、彼らの新TOKYOにおける自我を主張しているものと捉えられる。ではなぜ、彼らは歌と踊りでバトルを行うのだろうか。これをDVDに収録されたナレーションにある超TOKYOには歌も踊りも必要ないという設定から、Jr.EXILEとしての彼らの自我を問うことでさらに考察する。

Jr.EXILEとしてのアイデンティティ

 Jr.EXILEとしての自我は、グループ名がそのまま使われていることから、新TOKYOにおける自我と同等であるといえる。そこにSSによると歌い踊るが新TOKYOにおける彼らの流儀であり、さらに超TOKYOにおける自我が架空のものであるという先の提唱、超TOKYOには歌も踊りもない設定を踏まえて一言で表すと、Jr.EXILEとしての自我すなわち「Jr.EXILEらしさ」とは、歌い踊ることといえるのではないだろうか。
 先に挙げたように超TOKYOには歌も踊りも存在せず、武器と魔法陣が代わりになっている。同時に、SSによると歌うリリックが武器となり踊る身体が魔法陣になっている。つまり、歌と踊りがなければ武器も魔法陣もそもそも生まれないのだ。
 これを自我に言い換えると、超TOKYOにおける自我は新TOKYOにおける自我を前提にしないと存在し続けることができず、仮に超TOKYOにおける自我を主軸としたアイデンティティの達成がなされた場合、歌い踊るという新TOKYOにおける自我は消滅するまでいかずとも、薄れかねない。それでも生活に支障が出なければぶっちゃけ構わないわけだが、もはや「Jr.EXILEらしい」未来とはいえないだろう。
 だからこそ、SIO説明文が示すプロジェクトとしてのBOTのコンセプト、Jr.EXILE世代の名の下に生まれ変わる新時代を自分たちの手で切り拓く中で、全てのバトル曲を通して、彼らにとって本当に大切なものは何かと改めて問うことで、アイデンティティの達成を促しているのである。

終わりに

 以上に基づき、本noteでは物語としてのBOTをアイデンティティの観点から考察し、Jr.EXILEとしてのアイデンティティの達成と拡散、言い換えれば「Jr.EXILEらしさの確立」を象徴するものであると結論づける。
 アイデンティティは達成と拡散を繰り返すものであり、受け継がれるDNAのようにどの瞬間に焦点を当てても始まりであるといえる。だからこそ、DVDのナレーションがいうようにBOTはまだ序章に過ぎず、to be continuedなのだろう。

 以上が考察である。書きながら何より、筆者自身のアイデンティティも拡散的だった。というのも、創作者として何も気にせず好き放題する自我で書くか、一定の知識を有する者として様々なことに配慮する自我で書くか、何度も行ったり来たりしたからである。だからこそ冒頭に一オタクとしてと入れたことを最終的には思い出せたが、もしかすると本noteもまた、筆者の混乱によって誕生したバビロニウムといえるのかもしれない
 ところで、筆者がBOTを本格的に履修し始めたのは4月からだが、存在自体は昨年末ぐらいから知っていた。なぜなら、HiGH&LOW THE WORSTとの出会いが全ての始まりだからである。そこからの変遷を話し始めるとあまりに長くなりそうなので割愛するが、当初はBOTがあまりにヤバいと友人から聞いていたものだから、手を出すのが非常に怖かったのである。あれよあれよと気づけばここまで来ていたが。
 だから本当に、なぜ私はここにいるのかよくわからない。つまり私とBOTの物語もまた、始まったばかりで謎に満ちているのだ。

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 ということで突然始まり突然終わりますが、読者の皆様へ、最後まで読んでくださりありがとうございます。レポートにするにしてもコラムにするにしてもつたない文章だったと思いますが、少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。また日頃より多種多様なFAを上げてくださる皆様、BOTを知るきっかけをくださり、いつも楽しいひと時をありがとうございます。
 そして締めになりましたが、BATTLE OF TOKYOという素敵なエンターテイメントプロジェクトを企画してくださったLDH、世界観を構成するGENERATIONS、THE RAMPAGE、FANTASTICS、BALLISTIK BOYZのメンバー、携わる全てのスタッフの皆様に心からの御礼を申し上げます。私はライブの円盤が欲しいです。


各位に敬意と感謝をこめて 2020年5月17日 7月24日一部修正のちnote掲載