エンジニアからみた「スピノザ『エチカ』」

この記事は、岩手県立大学 Advent Calendar 2019の15日目の記事です。

この記事は、「スピノザ『エチカ』(100分de名著)」を読んで気になった部分を引用とコメントとともに紹介します。

なぜこの本を読もうと思ったのか?

身近な働き方は自由に向かって変化しています。フレックスタイム、リモートワーク、転職のし易さ...

さらに、好きな仕事を、好きな人と、好きな場所で、好きな時間とする時代になりつつあります。そして、テクノロジーの進歩により、インターネットの登場で、様々なコンテンツを自由に発信できます。ソフトウェアエンジニアという職種のなかをみても、オープンソース、フリーソフトウェアなど人類共通の財産として自由に利用できるものがふえています。

一方、歴史をひもといても、人は古くはとても狭いエリアで一生を終えていましたが、いまでは車や新幹線、飛行機を駆使すれば地球上を素早くどこにでもいけるようになりました。移動の自由度が高まっています。

この流れは簡単には変わらないでしょう。

人や社会は「自由」に向かっている。そう思うと、よく使う「自由」とはなにか?よく考えたことがなかったことに気づきました。そして、次の未来も、いまあるなんらかの制約がなくなった先にあるのではないかと考えるようになりました。

俄然、「自由」に興味がでてきました。

という話を、知人にしたところ、「スピノザ」という人がNHKで取り上げられていて、「自由」について取り扱っていたと教えてくれました。その情報をもとに調べたところ見つけた本が「スピノザ『エチカ』」です。NHKの100分de名著という番組で取り扱った内容を書籍化したものです。

ちなみに、kindle版で読んだんですが現在は配信停止されているかも。

全体構成

- はじめに
- 善悪
- 自由
- 真理


ハイライト&コメント

この本を読んだうえで、僕がハイライトをつけた部分とそれに対するコメントを書きます。興味がありましたらぜひ原著にあたってください。

現代では、「自由」という言葉は「新自由主義」のような仕方でしか使われなくなっていましました。過酷な自己責任論が幅を利かせる世の中で生きづらさを感じている人も少なくありません。「自由」の全く新しい概念を教えてくれるスピノザの哲学はそうした社会を捉え直すきっかけになります。

僕は、2013年頃にいわゆる脱サラ・起業という形で、ソフトウェアエンジニアリングスキルを生かし、自分の生業を持つような選択をしました。この選択は、常に「自己責任」です。社会に大きな不満があるわけではないですが、自己責任には不安がないわけではありません。ぜひ社会を捉え直したいですね。

(スピノザがエチカを著した理由について)「なぜ民衆はこんなにも頑迷で理を悟ることができないのだろう、なぜ彼らは自身の隷属を誇りとするのだろう、なぜ人々は隷属こそが自由であるかのように自身の隷属を「もとめて」たたかうのだろう、なぜ自由をたんに勝ち取るだけでなくそれを担うことがこれほどむずかしいのだろう」という問題意識であると哲学者ジル・ドゥルーズは説明しています。

エンジニアの話題のなかでも、会社への不満はいろんなところで見受けられますね。転職や起業というのは手続きさえ踏めば誰でもすぐできるはずなのになぜしないのか?という話に近いのではないでしょうか。

無知者は、外部の諸原因からさまざまな仕方で揺り動かされて決して精神の真の満足を享有しないばかりでなく、そのうえ自己・神および物をほとんど意識せずに生活し、そして彼は働きを受けることをやめるや否や同時にまた存在することもやめる

インターネットの普及によって、多くの人とつながる時代です。つながりが多いということは様々な要因で「揺り動かされる」可能性が高い時代とも言えます。この文からは、そこには満足はないどころか、自己もない、そういっているように捉えました。情報爆発の時代にも適用できる考え方ではないでしょうか。

自然界にはそれ自体として善いものとか、それ自体として悪い物は存在しないとスピノザは言います

善悪というのは必ず主観が入るということですね。個人の価値観、社会や時代の価値観に大きく影響を受けます。

自分が同等だと思っていたクラスメートが優遇されたり、自分よりも高い能力を示したりすると、とたんに私たちはねたみの感情に襲われます。同等だと思うがゆえに妬むのです。

なぜ妬みという感情が生まれるのかについての言及です。エンジニアの身近な例に置き換えると、同じ会社なのに給与が違う、同じ大学で同じ教育を受けたのに自分の会社はボーナスがもらえない、同じ成果を出したのにストックオプションが違う、なんてのはわかりやすいですね。多くの人にとって共感しやすいようにお金にまつわる話としましたが、人によっては、最新技術が使えない、作業環境が違う、サービスに人がこない、上司と馬があわない、とかになると思います。妬みの定義がわかると、妬みへの対処に向けて議論できそうですね。

賢者とは楽しみを知る人、いろいろな物事を楽しめる人です。なんと素晴らしい賢者感でしょうか。

自分にないものを妬むのではなく、いまあるものを利用してできるだけ楽しむひとが賢者であると言っています。

私たちは神という実態の変状であるというのがスピノザの答えです

僕は特定の宗教に深い信仰はないつもりですが、どうしても日本に生まれた影響もあり、欧米の「神」がでてくると解釈が難しいですね。おそらく、私たちは神の一種の形であるぞ、でしょうか。現代科学あるいはニーチェの「神は死んだ」の視点にたてば、神は想像上の存在であり、人が作ったといえますので、あながち間違いではないと思いました。

さて、エンジニア視点での「神」とはなんでしょうか。僕は、ブルックスが述べた「銀の弾丸」と考えて差し支えないのではないと考えています。よって、哲学あるいは宗教をインスパイアしてソフトウェアエンジニリングにいかすには、「神」を「銀の弾丸」におきかえればすんなり入ってきそうです。

人はコナトゥス(注: 本来備わっている能力・本質を指す概念)がうまく働いて生きているとき、自由である。
そのように自由な人たちは、互いに感謝し合い、偽りの行動を避け、常に信義をもって行動し、国家の共通の法律を守ることを欲する

ようやく僕の興味である「自由」に近づいてきました。自分が好きなことや得意なことに追求しているときに発生する状態が「自由」であるといいます。コードを書いていると気づいたら時間があっという間に過ぎていることはありませんか?その状態を心理学者のチクセントミハイ氏は、フロー状態と提唱しましたが、これもまた自由の一形態ではないでしょうか。

この状態がチームレベルで共有できていると、そのチーム内では心理的安全が確保され、プロセスや規約を定めてソフトウェア開発を進めよう!という流れになっていくのではないでしょうか。

「自由」という言葉は私たちはふつう、「束縛がない」という意味で使うと思います。つまり、制約がない状態です。しかしスピノザはそのようには考えません。制約がないだけでは自由とは言えないし、そもそも全く制約がないことなどあり得ないというのがスピノザの出発点になります。

僕も自由とは、制約がない状態を指していると思いました。しかし、そうではないというのです。

与えられている条件のもとで、その条件にしたがって、自分の力をうまく発揮できること、それこそがスピノザの考える自由の状態です。

自由と制約は相反しないということでしょう。仮に、リモートワークが禁止されている会社があるとしましょう。しかし、それは関係者が自分たちの力をうまく発揮できているのであれば、不自由とは言えず、むしろ自由だということでしょう。

条件を受け入れられていれば、それが他人からみて制約であっても、「自由」であり、かつそれは搾取的な制約でなく、全員にとって利益がある状態ですらあるといいます。

人は生まれながらにして自由であるわけではありません。人は自由になる、あるいは自らを自由にするのです

私たちがよく言葉にする「自由」は一義的に決まるものではないようです。この本では赤ちゃんの例がありました。生まれたての赤ちゃんは、手も足も自由に使えないので歩くこともできません。しかし、ハイハイしたり転んだりして徐々に自由に歩けるようになります。人々の自由もそれと同じように、制約を感じながら自分なりの自由をみつけていきます。

エンジニアも似た行動をとっているのではないでしょうか。学生あるいは社会人なりたてのときは、技術を何でも知りたい、試してみたいという気持ちが高いです。しかし、実際にプロダクトを作ったり運用したりする過程において、「自分はこの技術は使いこなせないな...」「この領域は興味がないな...」などと知らず知らずのうちに枠を決めて、そのなかで心地の良いポジションをみつけていくのではないでしょうか。

自由であるとは能動的になることであり、能動的になるとは自らが原因であるような行為を創り出すことであり、そのような行為とは、自らの力が表現されている行為を言います。ですから、どうすれば自らの力がうまく表現される行為を創り出せるのかが、自由であるために一番大切なことになります。

自由になるには、自分を知れということですね。エンジニアとしての自分が何に強みがあるかを知ることが自由への第一歩となります。単に言われたことを受動的にエンジニアリングしているうちは自由はありません。一方で能動的に動くことが難しい環境であれば、環境を変える必要があります。

では、意識とは何でしょうか。スピノザはこれを「観念の観念」として定義しています。
精神の中に現れる観念についての反省のことです。

現代科学は「意識」を説明できません。自分は誰なのか、自分はどこからきたのか、そして死後どこへいくのか、誰もわからないのです。これはAIの領域の発展に最もこれから重要になるでしょう。今のAIは知能はありますが、そこに意識はありません。スピノザの指摘はなにか示唆に富む考え方ではないでしょうか。

デカルト以降、真理は主体の変容を必要としない、単なる認識の対象になってしまった。スピノザには、真理の獲得のためには主体の変容が必要だという考え方が残っているというのです。これは実に鋭い指摘です。

「我思う故に我あり」で有名なデカルトさんですが、彼は「客観」を重視する現代科学の出発点であるといいます。もちろんコンピューターサイエンスの根底にもなっています。

一方でスピノザは、主観も考慮するということですね。広義の情報システム(IS)は、再現性が難しいことで知られています。それは情報システムに触れる人間の主観を考慮せざるを得ないからでしょう。なので、情報システム領域での学位は取りにくいなんて話も聞きます。

客観が大事にされてきた科学においても、ソフトウェア工学でいう人間中心設計であったり、人工知能系研究者による「一人称研究」などの人間を取り扱う分野も多数あります。経済学にも人間の感情・不合理を取り込んだ行動経済学という学問も光を浴びています。このように主観をうまく現代科学と混ぜ込んでいい結果を生んでいく流れがあるのもまた事実です。

AIについて、私はすこし別のところに危惧を抱いています。それは、AIが人間に近づくのではなくて、人間がAIに近づくことです。

これは当然ですがスピノザがいっているわけではないです。著者の國分功一郎氏が言っています。

マニュアル化や分業が進むなかで、人間そのものがアルゴリズムのように使われていることを指摘しています。これは、将来のAIの進歩によってAIに置き換えやすい状態になっているということでしょう。著者は、簡単にスピノザ哲学を使って解決策を提示できないという断りのうえ、そういう時代だからこそ、スピノザ哲学の概念を知っておくことがヒントになるはずだと述べています。

これまで何度か言及してきたドゥルーズは、哲学とは概念を創造する営みだと言いました。

最後です。これはスピノザと直接関係ありません。僕の点と点がつながった重要なセンテンスでした。

前に読んだ歴史学者ハラリ氏の「サピエンス全史」では、ヒト(ホモサピエンス)の一番の特徴は、想像上のものを共有できる力があることだといいます。想像上のもの、つまり概念です。哲学とはヒト同士が共有できるものを生み出し、それを人々の間で共有することで社会を繁栄させる効能があるのではないでしょうか。

一方、ドゥルーズ。ネットで調べてみると「ノマド」という概念の提唱者とのこと。僕は、いわゆるノマドワーカー(死語?)をしていますが、まさか哲学者が提唱している概念だとはこの本で知りました。スピノザ哲学にも関わりの深い「ドゥルーズ」も調べてみましたので別の機会に取り上げたいです。

また、この本(スピノザエチカ)は、「自由」という面から出会いましたが、著者である國分氏の「暇と退屈の倫理学」も別の面から出会い読んでいました。こちらも別の機会に取り上げたいと思います。

それぞれは全く違う理由で個別に出会った本ですが、いずれもひとつにつながってきました。どうやら僕の興味はわりと局所的なのかもしれないと思う今日この頃です。






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