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宗教とは個人的なものか?社会的か?

サッカーと言えば11人でプレーするものだが、一人でサッカーすることは成立するだろうか?
 
なにかをなす際には個人で完結することと、誰かと一緒に為すことで達成することがある。特に後者は、その対象、プロジェクトが大きいほど多くの人々の協力がなければ完成することがない。例;橋梁工事、タワマン建築など。
 
宗教はカミサマの一大プロジェクトでとても大きなものである。よって人間一人だけで完結するものではなく、多くの人々が関わらなければこの一大プロジェクトは達成されない。多くの人間が自分たちの意志を1つの大きな意志の軸に合わせて調節して、個人の欲望や用事をコントロールしてその偉大なプロジェクトに参加して支援することでそれが可能となる。それが宗教の欠かせない要素の1つである。
 
一大プロジェクトの意志やビジョンはその責任者が打ち出すわけだが、それに賛同し参画する人々が、自身の都合や予定を調整して、ときには自身の意志やビジョンを改革してその一大プロジェクトの意志に添わせ、その軸に沿ったスケジュールを組んだり辛抱することでプロジェクトは前進する。
 
この人々の協力や賛同、参画、協調、支援こそ、イスラーム、シーア、あるいはアーシューラー、宗教ディーンの核心であり、イスラームの根幹の1つがウィラーヤولایت 「偉大で親しく信頼を置く存在と繋がること」これが無いと宗教として成立しないと言われる所以である。人種性別、社会的ステータス、能力、欲望やスケジュールなど数多くある人間の違いや都合を、カアバ神殿を1つの軸として人類が共同で為し得る一大プロジェクト、それがイスラーム、宗教ディーンであり、そこに賛同参画する人々をシーア(従い支援する人々)と言い、それにはウィラーヤ ولایت 言い換えれば「共にいること معیت」が必須であり、宗教やシーアとは不可分な要素である。
 
それを体現し、人類の宗教や性別、思想などあらゆる違いを超越して世界中の人々を招待し、14世紀を経て今日まで伝えているもの、それがアーシューラーである:

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