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思考力というツールのアップデート

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慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名によって


私の日常は、神学校と図書館と家を行き来する、単調な生活です。

ほぼ一日の半分は神学校で過ごすのですが、この教室で行われる教授や学生との議論、討論は結構面白いんです。そして、ここにこそ、本当の叡智があります。

1人で教科書や本と向き合う、それは自分と本だけなので、それ以上の展開は中々望めませんが、誰かと話しをする、意見交換することで、相乗効果や気づきが生まれます。

私は、自分1人で黙々と何かをしたい性格ですが、やはり、誰かとコラボして得られる気づきには、読書や独学で得られないモノが確かにあります。


さて、

ツールのアップデートについて


これは、ビジネスパーソン、学生、主婦、クリエイター、…と誰にでも当てはまる、基本的法則です。


この写真を見てください↓

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結構キツそうな傾斜の雪山登山ですねぇ
では、もう一枚↓

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お花畑の広がる丘の麓で、子供たちも気持ち良さそうです


私も、かれこれ5年近く、神学校に通って多少アラビア語文法、論理学の知識も身についてきました(いいえ、まったくです)。

今タームでは、クルアーンの様々な節やハディースを、アラビア語文法を駆使して、その構造を解明し、改めてアラビア語文法の修練度を上げる、という授業も受講しています。

その授業を担当する教授は、教務課からもちょっと…問題アリと言われている方でして…

というのも、神学生が今迄に学んできたことを、根本から引っ繰り返してしまう、そんな話題や議論をする教授で、一部からは目の敵にされたり、結構ヒドく批判されています。ですが、彼はこのスタイルを貫いています。

数日前が彼との最後の授業だったのですが、そこで神学生の現状と問題点を自身の授業スタイルと併せて話がありました。

『今の神学生は眠っている、唯々暗記ばかりで、知識を追い求める魂が死んでいる

というのです。


その原因は、神学生側にも教務課側にもあると言います。

私が通う神学校のスケジュールは、結構キツイです。授業はいずれも本気モードで話が進む一方、休憩時間は殆どゼロ、むしろ授業が長引いて次の授業に遅れることも頻繁です。朝の7時から12時まで、ミッチリ続きます。

アラビア語文法、イスラーム哲学、フィクフ(法源学)が同日に連続すると、殆ど頭がパーになります。

これは、教務課が我々に課すスケジュールにも問題があります。1タームに受講すべき最低単位数が決まっていますが、これに則ると、神学生同士で議論したり、自己学習する時間が中々取れず、時間に追われて自分で考えることも次第にしなくなります。ひたすら課題をこなす、暗記する、そんな学習スタイルに自然と追い込まれているのが現状です。

『自分で考える』、これって一番重要で最強なツールです。
ですが、このツールを使わないままでいると、猛スピードで錆びます。
最終的に、使いモノにならなくなります。


マガジン「イスラームの学問」の「はじめに」、という記事にも書きましたが、学問は2種類、道具的学問と本質的学問から成ります。

神学生も他の普通の大学生と同じで、

早くイスラームの叡智を学びたい、

最高度の哲学の中心を知りたい、

真実を知りたい、

奥義を修得したい…

と誰もが心に希望を抱いています。ですから頑張って勉強しますが、ついつい、急ぐあまり、道具や準備が不十分なまま、次へ次へと進んでしまいますし、教務課も現状それを推奨しています。

ですが、ある程度の道具と準備で行ける範囲は極々限られます。

先ほどの写真が頭をよぎります…

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多くの神学生の装備では、下の写真、お花畑レベルしか行くことが出来ません。ですが、自身を見誤って、みんなが雪山登山に猛スピードで特攻するのです。


長年かけて道具も準備も揃えたと、見誤っている神学生が大多数だと、先の教授は話します。

「ふ~ん、なるほど、その通りだね」と理解した気になっているだけだと言います。つまり、「よーしっ、一通り道具も準備も揃えたし、登れる!」と、勘違いしているのです。

そういう神学生は、未だ学問の門をくぐっていない、そう話します。たぶん、多くの神学生はテストで満点、優良点を取れるでしょう。

ですが、本当にトピックスに精通しているか?自分の言葉で言える、つまり自身の見解を持っているかが重要だと話します。あの教科書の著者の考えはこう、あの大学者の考えはこう…そういう神学生は沢山います。ですが、では、このトピックスに関して自身はどう考えるのか?

どこまで自身が苦労して、悩んで、様々な大学者の見解を比較検討して、それでも結論を出せず、様々な人を通して議論して…また考えて…とあらゆるトピックスを、このように追求したか?が重要だと言います。


それは、基礎的な話題、特に道具的学問の、更に基礎的な部分にまで及ぶと言います。

この教授は、~から、という基礎的な意味を持つ助詞、مِنを例にしました。アラビア語文法で助詞の分類を、基本助詞、余剰助詞、余剰助詞に類似する助詞の3つに分類することがあります。

ここで、余剰助詞のمِنについて、

この役割とは何か?と問われ、
「強調です」と答えると、

何をどのように強調するのか?と問われ

「مِنの後ろに付属するمجرورを強調します、ですが、強調自体はその助詞の意味には含まれず、位置構造的にその役割が発生します」と答えました。

その通りだが、続きはどうした?

と言わんばかりの雰囲気で、

「では何故この助詞は余剰だと言うのか?」

「しっかりと構造的に役割を担って、その範囲で意味を有するといるのに、何故余剰と呼ぶのか?」

「余剰とはどういう意味か?あっても、無くてもいい、だから余剰と言うには、先程の構造を発生させる以上、あっても無くても、どちらでも良いとは言えないのではないか?」

「クルアーンは唯一神の言葉であり、不足も余剰もまったく無いと言うのに、この助詞は余剰だという、これでは唯一神の言葉を否定するのではないか?」

と立て続けに畳みかけられ、言葉に窮してしまいました(笑)

( ゚Д゚)ハァ?(*´Д`)~

何か狐につままれた思いでしたが
教授は続けて、


「こういうことだよ、

大多数の神学生はキミと同じように、教科書通りの答えを述べる。けれど、本当に学問に取り組むっていうのは、こういうことなんだ。殆どの神学生は未だ学問の門すらもくぐっていない、遠くから眺めているだけだよ」

確かに、これでは殆ど先に進めない。けれど、これが本当に学問をすること。偉大な大学者は、時間こそ掛かるが必ずこの過程を経るんだ。

「教授、ですが、これはアラビア語文法であって、道具的学問ですよ。道具にこだわって何の得になりますか?」

すると、

「道具だからこだわるんだ!」


ボロくて錆びたシャベルでは、石ころしか手に入らない。

本当の宝石は地中に眠っているんだ。

それは頑丈な掘削機でしか無理なんだよ。

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オンボロのピッケルとアイゼンで雪山は登れない、
そうだよなぁ…

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たった1つの助詞…

こんな、どうでもよさそうな話の何処が重要なのか…


そこの違和感に気付くか否か、

それが才能って言うのかなぁ…



暫くボー――ッとしながら、


これって、やっぱり日頃から思考力というツールを使って、

磨いて、アップデートしていないからなのかなぁ…


辛抱しながら、焦らず、地道に、って

頑張っているつもりになっていただけ

なんだろうなぁ…


本気にトピックスに取り込むこと、

学問するっていうのは、


当たり前のことに疑問を抱けること

それを追求すること


そこは、やっぱり才能なのかなぁ…


思考力ってツール、

自分のツール、

大分錆びついてしまっていたようだ。



自身しか持てない・使えない

究極のオリジナルツール、

「思考力」


これのアップデート、

これこそ頭脳革命だ!


というお話しでした。

長文、最後まで読んで頂きありがとうございました。

―――――本文はここまで―――――

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