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同年6月13日、明智光秀が、山崎で、 羽柴秀吉と合戦していた頃、光秀の家臣の 進士作兵衛は、 光秀の命を受けて安土城の御金蔵から、十数頭の牛車に山のような金銀財宝を乗せて、 近江の坂本城を通り比叡山越えで京へ向う途中であった。ところが、途中で山崎の合戦で明智方が敗れるとの悲報を得るのでした。
 主君、光秀の安否が分からぬまま作兵衛の気転で、急遽反転、 鞍馬越えから光秀の所領である丹波の周山(京都府北桑田郡京北町)の 明智家ゆかりの”ある寺”に、ひとまず財宝を隠すのである。 その後、光秀の敗死を知ると、再度とある場所に財宝を埋め直し、関係者の全てを抹殺するのである。 その後の作兵衛の足取りは、プツリと途絶えたのでした。

 江戸時代も中頃の文化文政の頃、光秀にゆかりの者の末裔という秋田家に残された古文書の中に 進士作兵衛の書付が見つかるのである。 この書付には、ことの経緯や財宝の隠し場所と思われる意味深な言葉(暗号文)が残されていたのである。
 この財宝は、慶長5年(1600年)9月の関ケ原の合戦の直前に掘り出され、半分は、再度埋めなおされたと書かれていた。そして、半分は、明智家再興のために使われたと、記されていたのである。

光秀とその一族にしてみれば、反逆者の汚名を着せられ、歴史の闇に葬られることに、 耐えられなかったのかもしれません。 そこへ、徳川方が会津征伐に出兵中、豊臣方の石田三成が兵を挙げるのである。 好機到来、明智軍は、徳川方へ味方しようと軍勢を整え出陣したのでした。 目指すは、美濃の名城岐阜城か? その時城主は、因縁深き信長の孫、織田秀信でありました。・・・以下省略。






話を進士作兵衛の書付に戻すと、
(注)ここからが重要、ゆっくり何度でも読んでください。

 美濃紙の、外包の表書きには
不惜身名(ふしゃくしんみょう)の松
 ことの経緯の覚書の最後には、
宝は、”物語”によって閉じられ、再び、”くぎょう”によって開かれる 慶長五年五月、願主 進士作兵衛恒興」 と記されていた。

(ちなみに、漢字テストに出るのは、不惜身命(ふしゃくしんみょう)で、 仏教用語。武士が書くと不惜身となるので、・・・ちょっと違う。)

 さらに、その中の一片の書付の中身は、つぎのような九行(きゅうぎょう)の詩であった。

 身をも名も
 惜しまねば
 こそ亀松の
 ひかり色濃き
 さつき空
 くちなは池に影をふむ
 岩戸茵のその下に

 こがね七百
 しろがね千貫



 これは、まさしく、財宝の隠し場所を記した暗号文に、間違いない。
現在の京都府北桑田郡京北町には、光秀の築いた周山城がある。 光秀はここを丹波の国攻略の拠点とし敵方を味方に引き入れる為、特に善政を布いたのである。
周山とは、中国の周の武王が善政を布いた故事にならって光秀が名付けたものである。 (又”周”の字には光秀の”秀”の字の音を隠しこんだと思われる。)
 ここ周山には、光秀の菩提を弔う為の慈眼寺があり、領民は、世をはばかり光秀の木像を黒く塗り、秘かに祀り守ったのでした。
 又、周山街道とは京都から北へ嵯峨野、北山杉の京北、周山、由良川を渡り、 深見峠を越え若狭の敦賀を結ぶ街道で、若狭湾の豊富な海産物を京へ運ぶ為の道であり、別名、鯖(さば)街道と呼ばれたのである。 実は、鶴賀の手前で琵琶湖の北岸を東に回り込むと、 光秀が身を隠したという光秀不死伝説の里、岐阜県山県市美山町につながるのである。 これで、点と点は、つながった。
 書付に記された、作兵衛が初めに宝を隠した 明智家ゆかりのある寺とは、周山のこの 慈眼寺に間違いない。それでは、今、宝はどこに・・・?


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