俺が感謝されたくない理由

「感謝を言葉にすることで幸福になれる」的な話を聞くたびに反吐が出る。なぜならそれは真実ではあるが、とても腹黒い行為だからだ。腹黒い行為自体はいいのだが、それがさも善いことのように語られるのが気持ち悪い。なので、そういった気持ちを乱雑に書く。


感謝を述べることの本質は「相手に恩を着せ、認知的不協和により相手を自分に縛り付ける行為」であると俺は考えている。

ロジックはこうだ。人は自分が嫌いな奴の得になることをしない(したくないと思っている)。感謝されるということは自分が相手の得することをしたということになる(と感じる)。この性質を利用して、感謝の意を示すことで相手に「自分は嫌いな奴ではない」と強制的に思い込ませることが出来る。

感謝とは相手に貸しを作る行為だ。貸しを作る行為は弱みを作ることと考えられることも多いが実は主導権を握る行為でもある。カエサルは金持ちから借金をしまくることで、金を貸した金持ちに「カエサルに成功してもらわなければ貸した金が無駄になる」と思わせることでカエサルを支持させた。同じ理屈で相手に貸しを作りまくることで、自分の支持を取り付けることができる。

DV理論を使うことでさらに相手からの支持を引っ張り出すことができる。時々素っ気ない態度を取ったり、相手を軽く批判する。そうすることで「私がいつもしてあげている恩に報いてくれないのは、恩がまだ足りないからだ」と思わせる。人が合理的であれば、ロスカットの判断をすれば良いのだが、多くの人は不合理なので”これまで与えてきた恩が無駄になる”と考えて冷たくしているのにもっと良くしてくれるようになる。サンクコスト様様である。

とまあ、感謝を伝えることは無料なのに相手を自分に拘束することが出来るので俺は多用する。「○○さんいつもありがとう」「○○さんがいてくれると本当に助かる」「○○さんなしだと回らないよ」俺の感謝の3種の神器である。そして、お礼は言うけど俺は基本手は貸さないし、雑用や面倒事は押し付ける。3回に1回は「やってもらって当然」かのような態度をすることも忘れない。


以上のように俺は感謝という行為は体よく他人を利用する行為という認識なので、美しいとも、善いこととも思わない。ましてや他人から感謝されようものなら攻撃を受けているとも感じる。お礼を言う文化はなくなれば良いと思っているが、多くの頭お花畑の人や思考停止している人間を利用するには都合が良いのでこれからもお礼は言っておく。

俺の持論をベースに「感謝をすることで幸福になれる」という言葉を聞けばなんと利己的で気持ちが悪いと感じることができるだろう。俺はこういう欺瞞が大嫌いなので、「感謝を述べて他人を利用しよう!」という言い方にしてもらいたいとついぞ思う。しかし、人は自分のことを善人だと思いたい生き物らしいので無理だろう。俺はそういった偽善者を今後も食い物にしていこうと思う。


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