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立憲民主党は立憲主義と民主主義を放棄するのか、あるいは本多議員をめぐる報告書の致命的欠陥について

緊急案件につき、立憲民主党の報告書についてnoteを挙げます。

こちらの方が遙かに緊急性が高く深刻な案件ですので、まことに勝手ながら(大袈裟太郎氏らへの諸々の)応答については後回しとさせていただきたく存じます。

はじめに

立憲民主党の「性犯罪刑法改正に関するワーキングチーム」で、「50歳近くの自分が14歳の子と性交したら、たとえ同意があっても捕まることになる。それはおかしい」と本多平直衆院議員が発言したとされる問題についてです。

立憲民主党は、近く、本多氏を1年間の党員資格停止処分とする方針であることが報道されています。

この問題が発覚した当初、Twitter世論()では、本多氏を非難する声が圧倒的多数を占めていました。しかし、立憲民主党から立憲民主党ハラスメント防止対策委員会 「調査報告書」(※PDF直リンクにつきダウンロード注意)が発表されると、この調査報告書に問題があるという見解が急速に広まってきています(以下、「第三者委員会」と呼びます)。

私もまた、この報告書には致命的な欠点があると考えています。本記事ではその問題点について、以下の4つの側面から、報告書に沿って明らかにしていきます。

・報告書の形式上の問題(書式・委員会メンバーの非公表など)

・日本語の問題、とりわけ主語の不安定さ

・当該発言およびハラスメント事実認定についての問題

・本質的な箇所における論理破綻

とりわけ問題になるのが、三つ目の「事実認定の問題」です。本多氏の言動の事実関係について重大な疑義があるならば、「本多氏の言動に問題があり、処分は当然である」という評価の土台が根本から揺らぐからです。

報告書の致命的欠陥を論証していくことを通じて、第三者委員会および立憲民主党執行部が何をしようとしているのか、それも自ずと明らかになるでしょう。一言で言えば、立憲民主党が立憲主義と民主主義を放棄し、ファシズム政党に成り下がりつつあることが証明されます。

それを受けて、私は立憲民主党執行部に対し、8つの項目を要求します。要約すれば、音声・録音・議事録の即時公表、第三者委員会メンバーの総入れ替え、報告書と執行部も含めた全面的な再調査、そして執行部の総退陣です

本論に入る前に、ひとつだけ断りを入れておきます。性暴力関連の事案について批判的な検討を行ったり慎重な議論を求めたりすると、「性暴力を行う権利を守りたいミソジニー男」というレッテルを張られる例が多数あります。

しかし私は、強姦罪(強制性交罪)の暴行脅迫要件を撤廃すべきであると、10年以上前から一貫して繰り返し主張してきています(Twitter上で、私以上に性暴力にかかわる刑法改正を主張してきた人間は、おそらく数えるほどしか存在しないでしょう)。

他人がどのように私を評価するのも基本的には自由だと私は考えています。しかし私が書いたものや言ったことを根拠にしなければ、根も葉もない誹謗中傷にしかなりません。それで信頼を失うのはどちらなのか、よくよく考えていただいた方が良いかと存じます。

報告書の形式上の破綻は、調査プロセスの杜撰さを示唆している

まず、誰でも気がつく、報告書の形式的な問題から指摘していきます。

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右上、一見して気がつくとおり、そもそも「正確な日付」が書かれていません。「2021年7月」でもなく、「2021.7.」と中途半端に記されているのです。筆者は報告書を書き上げて最後に日付を入れるつもりだったが、最終チェックを怠った、そのような推測ができます。あるいは、第三者委員会が党に見せた草稿が、何らかの手違いでそのままアップされた可能性もあります。いずれにせよ、調査を行った第三者委員会も、これを突き返さずに受理して公式Webサイトにアップした立憲民主党執行部も、最低限のしかるべき手続きを踏んでいないことは容易に想像できます。

より深刻な問題は、この報告書を書いた委員会のメンバー構成が、委員長である労働ジャーナリスト・金子雅臣氏以外は公表されていないことです。どのような人間が、どのような基準によって選ばれたのかが示されなければ、本委員会の中立性・客観性は担保されません。

文章自体も、日本語として意味が通じないところが多数あります。

たとえば、本報告書のp.13の提言ですが。

(3)ジェンダー平等本部の関与とチエック機能をもった仕組
i  ジェンダー平等推進本部の機能を強化して、に政策チエック機能をもたせる
ii 党のアドバイザリーボードとしてジェンダー問題の有識者会議を設ける。
(p.13 筆者注 ママ 強調は引用者)

「、に政策チエック機能をもたせる」(←「エ」は大文字!)の前に、自分が書いた文章ぐらいチェックする機能を第三者委員会は持っていただきたいものです(笑)。

ともあれ、これは単なる誤植で済まされる問題ではありません。報告書の最も大事な箇所において文章上・形式上の破綻をきたしているということは、この第三者委員会の調査・審議・執筆プロセスそのものが相当に杜撰なのではないか疑わせるに足るものです

主語が不明であり、事実/評価が分離しておらず、報告書として成立していない

ところで、みなさんは次の文章の意味が理解できるでしょうか?

以降のWT運営については、寺田座長は引き上げ先にありきとの対応で、バランスのとれた対応をしなかったと評価している。WTの進め方は結論ありきのやり方で、慎重派に厳しいというバイアスがかかっていたとみる議員から、慎重派に対して「ささいなことを言っている」との批判をするなど、慎重論を軽視した運営がされたとする。(p.4)

上の文章で、「バランスのとれた対応をしなかったと評価している」主体は誰なのでしょうか?「寺田座長は」の述語は、どこまでかかるのでしょうか?

また、「慎重論を軽視した運営がされたとする」主体は誰なのでしょうか?筆者なのでしょうか?それとも慎重派議員なのでしょうか?

それでは別の文章を見てみましょう。

寺田座長の認識は、野党第一党としての見解は非常に重要であり、両論併記にとどまることなく政治的に決断しなければならないと考え、法務省の検討は進んでいたので、議論を前に進めたとする。(p.5)

「寺田座長の認識は・・・と考え、・・・前に進めたとする」という文章は、日本語の基本的な係り結びが成立しておりません。

もう一つだけ、ダメ押しです。

本多議員としては、性交同意年齢や不同意性交罪等刑事法制改正をめぐる論議は熟しておらず、この時点で党としての見解を取りまとめるのは拙速に過ぎるという認識であったとする。これに対し、前回法見直し以降検討を重ねてきた課題であって議論は熟しているという反対の認識も表明されていた。(p.5)

「議論は熟しているという反対の認識」を表明していた主語は、誰なのでしょうか?この文には、主語がまったく書かれていないのです。「誰が何をどこで言ったのか」を書かずに済ませる文章は、そもそも報告書と呼べるのでしょうか?

とりわけ私が気になるのは、本報告書において多用される、文章の末尾が「~とする」「~としている」という用語法です。この「~とする」主体はいったい誰なのでしょうか?著述対象となっている人が(たとえば寺田座長が)そのように言ったのか、報告書の筆者がそのように評価したという話なのでしょうか?

これ以上の引用は冗長になるので避けますが、このように筆者の主観的な評価と、対象者の言動が全く区別が付けられないまま著述が展開されていくのが、この文書全体を支配する特徴です。

報告書としては、これは致命的な欠陥です。ある文書がフィクションではなく「報告書」であるためには、だれでも確認できる「客観的事実」のレイヤーと、「筆者による評価」のレイヤーが峻別して論述される必要があるのです。

具体例で説明しましょう。「 (本多議員は)委員会のあり方については、前提としてメンバー構成に疑問を感じ、さらにその運営についても性急さに不満を表明していた」(p.3)という文章があります。

小説ならこういう書き方でも構わないでしょう。しかし報告書として正しい書き方は、まず本多氏の具体的発言を正確に記録し、それを根拠として、筆者の責任において「これは本多氏による不満の表明である」と評価することです。そうでなければ、「不満を表明していた」という記述が適切なのか否か、読者が判断することができません。

録音・録画・議事録はなぜ存在しないのか?

以上で見たように、この文書には、報告書が満たすべき客観性が欠如しています。これは、多くの人が指摘しているとおりです。

それに対して、「報告書の出来の悪さと、本多議員の問題発言はそもそも別の問題である」という反論があります。

しかし、筆者が一貫して事実(の摘示)を軽視していることが、報告書からは十分に読み取ることができます。そうなると、本多氏の言動についての調査プロセスや事実認定についてもまた、重大な疑義が生じることになるわけです。

具体的に見てみましょう。

(2)委員会が認定した当日の状況
2021年4月から検討が始まった立憲民主党性犯罪刑法改正に関するワーキングチーム(WT)で、国会会期末の6月中旬までに問題の絞り込みをするために、島岡まな大阪大学教授を5月10日に講師として招聘した。当初は30分程度の教示のうえ議論に移る企画だったが、実際にはそれより短く前後タイトな時間しかとれず、島岡教授から過去の経緯、議論内容、島岡教授たちの改正案試案の話がされた。
島岡教授からは、性交同意年齢と、暴行脅迫要件に議論を絞り、16歳に年齢を引き上げることについて、フランスのケースなど他国のことが話された。
本多議員は、島岡教授が話をするときに「絶対的に」という文言を使ったことに対して、学者なのに絶対という言い方をすることはおかしいと疑問を投げかけた。
また、本多議員は、50代の私と14歳の子とが恋愛したうえでの同意があった場合に罰せられるのはおかしいと、強めの発言をした。
これに対し、島岡教授は、そうしたケースでの同意などありえないと話した。
本多議員は、成人と中学生との恋愛がありうるということを何度も発言していたが、具体例として自分を例にして、対外的な講師の前で話をしたことに周囲は驚いた。
池田まきWT事務局長が島岡教授とのヒートアップを懸念して、本多議員からマイクを引き継ぎ、お礼を言って終わった(p.1 強調は引用者)

以上はサマリーではありません。当日の状況として報告書が認定した事実のほぼすべてです(残りの2行ちょっとは後で取り上げます)。

「島岡教授が話をするときに『絶対的に』という文言を使った」とありますが、島岡氏が具体的にどのような発言をして、どのように「絶対的」という言葉を使ったのか、それに対して本多議員が何について反対したのか、ここからは一切読み取ることができません。

具体的にどのようなやり取りがあったのか、再構成されているとは言えないのです。なぜこのような曖昧な事実認定となっているのか、報告書に記された調査内容を確認してみましょう。

(1)実施内容
委員会は、諮問を受けた調査のため、関係者へのヒアリングのほか、WTの議論のうち、5月17日、20日、24日、28日、31日、6月2日、3日、4日、7日の録音録画等を確認し、本報告書を作成した(p.1 強調は引用者)

本件が発生したのは5月10日です。しかし、録音録画は17日以降のものだけを確認しており、肝心の5月10日については、関係者へのヒアリングだけということがわかります。その理由については次のように書かれています。

5月10日までは、録音の必要性がないとの判断で録っていなかったが、島岡教授を招聴した会議において議論がヒートアップしたので、以降は録画をとり入れたという経緯が確認された。(p.2)

報告書では次のように続きます。

こうした流れに「データがないのに詳細な記録がとられていることはおかしい。外部講師を呼んで録音録画がないことはあり得ない。報告書案はサマリーのはず」との疑義がだされている。
なお、WTの議論のうち、5月17日、20日、24日、28日、31日、6月2日、3日、4日、7日の録音録画は確認された。その結果、本多議員の言動の背景が明らかとなり、また、類似発言が複数回確認された。5月10日出席者複数の証言もあり、当該録音録画がなかったとしても、委員会における事実認定に影響はしないと判断した。(p.2-3 強調は引用者)

録音録画がないことに対する疑念を表明したのがいったい誰なのか、報告書には全く書かれていませんが、その人の疑問はもっともだと私は思います。録音なり録画なりの生データがなければ、このような複雑な議論について報告書を書くことは極めて困難でしょう。

しかし、いったいなぜ、5月10日以前の録音録画(そして議事録)は存在しないのでしょうか。報告書はその疑問には答えていません。しかし、本当に記録が存在しないのだとすれば、ワーキングチームの運用プロセスに問題があったことになるでしょう。そのような杜撰な運用をした責任者は寺田座長ですが、その責任についても本報告書では等閑視されているのです。それもまた非常に不自然です。

なぜ当日の会合参加者さえ不明なのか?

ともあれ、録音・録画も議事録も本当に存在しないという前提を、報告書の筆者とともに、我々もいったん受け入れるとしましょう。

そうだとすれば、第三者委員会としてなすべきことは、5月10日当日に出席していた関係者全員にヒアリングを行い、参加者のメモや記録をかき集め、当日起こった出来事を、可能な限り時系列的に再構成することのはずです。運が良ければ、オンライン参加者が録音・録画などを私的に保存していることもありえます。

しかし実際には、こうした精緻な調査は行われなかったと断言しても差支えないでしょう。そう断定できる根拠はこれです。

現場での出席議員は、寺田学WT座長、池田議員、本多議員の3名だった。オンラインではどの程度参加者いたのか記録はなかったが、当該本多議員の発言を咎める者はいなかった。(p.2 強調は引用者)

問題となっている会合の参加者全員の顔ぶれさえ、なんとこの報告書では明らかとされていないのです。

会合の参加者を事後的に確定することは、決して難しくないはずです。zoomを使ったことがある人なら知っていることですが、基本的には、メールなどでURLを送付した相手しかログインすることはできませんし、参加者は互いにわかるようになっています。仮に当日の記録がなかったとしても、招待状を送った全員に確認すれば、参加者全員を確定できるはずです。

オンライン会議とは言え、党の公式のワーキングチームの会合で、出席者名簿を記録していない運用っていったいなんなのでしょうか?そして、参加者は誰か記録がありませんと書いて済ませて報告書っていったいなんなのでしょうか?

あまりに杜撰な党運用、あまりに杜撰な報告書と言わざるをえません。

そもそも本多議員は、「50歳近くの私と14歳の子の性交」と言ったのか?

報道では、「50歳近くの自分が14歳の子と性交したら、たとえ同意があっても捕まることになる。それはおかしい」と本多氏が述べたことになっています。

報告書ではどうなっているのか、再掲します。

本多議員は、島岡教授が話をするときに「絶対的に」という文言を使ったことに対して、学者なのに絶対という言い方をすることはおかしいと疑問を投げかけた。
また、本多議員は、50代の私と14歳の子とが恋愛したうえでの同意があった場合に罰せられるのはおかしいと、強めの発言をした。
これに対し、島岡教授は、そうしたケースでの同意などありえないと話した。
本多議員は、成人と中学生との恋愛がありうるということを何度も発言していたが、具体例として自分を例にして、対外的な講師の前で話をしたことに周囲は驚いた。(p.1 強調は引用者)

報告書の該当箇所において、同意があった場合に罰せられるのはおかしいというようなことを本多議員は語ったということになっています。これも間接話法なので、これが本多議員の発言そのままなのか、それとも筆者による要約なのか、読者としては判断がつかないわけです。

ともあれ、「性交」という決定的な単語が、報告書では使われていないことに、ぜひ皆さん、大きな注意を払ってください。本多氏は、何についての「同意」について語ったのか、その最も重要な「文の主題」が欠落しているのです。

これはどういうことなのでしょうか?報告書全体が日本語として破綻していることから類推すると、単に報告書において「性交」という言葉を、この決定的な箇所においても書き忘れただけかもしれません。それとも、文脈上明らかに「性交」のことを指していると判断できたのかもしれません。しかし、そうだとしてもそう断言するためには、あまりにも材料が不足しています。

確実に読み取れることは、あくまで本多氏が「恋愛」について語っているということです。ただし、この「成人と中学生との恋愛がありうる」と本多氏が言ったときに、事実上の問題を議論しているのか、それとも立法プロセスのための論理的な問題を議論しているのか、それさえ判然としません(この報告書の執筆者には、この2つの区別は理解できないでしょうが)。

しかしそうだとしても、本多氏が恋愛と性行為を同一視していたのかそうでないのかすら、読者には判断がつかないのです。「同意」の対象が「性行為」ではなく「恋愛」である可能性も十分にあり得ます。

以上の議論は、詭弁的な擁護だと思う人もいるでしょうか?それでは、もう一つ傍証を出します。当事者である島岡まな教授が6月8日、荻上チキのラジオ「Session」で語っていることを書き起こします。

そうですね、最初から、まあ私が、取りまとめ報告書に関する私の見解も挙げていて、そして13歳、性交同意年齢、13歳の性交同意年齢の引き上げに関して、両論併記っていうんですか、検討会のとりまとめははっきりとした方向性を打ち出していないんじゃないかということを申し上げて、でも私としては改正試案ももう公表しているんですけども、16歳以上に引き上げるべきだっていうお話をしたんですよね。したら、いきなり、そんなのおかしいっていう風に、なんかもう、言い合いみたいに、急に挑発的に発言されまして、その流れで、いや自分も私も50ぐらいだけど、14歳と付き合ってはいけないのか、これは恋愛でしょう、みたいに、そういう流れで出てきました。(強調は引用者)

口頭での発言なので曖昧ですが、この証言を読む限り、確かに本多議員は「恋愛」について語っていますが、「性交」については語っていない可能性が高そうです。

本多氏が問いたかったことは、「(性行為ではなく)同意の上で成年と未成年が恋愛をしていたとして、それも処罰の対象になりうるのか」という、法制度上の問題だった可能性もあります。あるいは逆に、「真剣な恋愛においては性交は有罪にならない」という例外規定を組み込んだ場合についての議論だった可能性もあります。

本多氏がどのような議論を行おうとしていたのかは、その前後の文脈まで正確に明らかにしなければ判断のしようがありません。そして、島岡氏が上で語ってしまっているように、島岡氏と本多氏の間で「言い合い」があったということはほぼ確実でしょう。

しかし島岡氏は、その言い合いの中でどのような発言をしたのか、明らかにしていません。繰り返しになりますが、報告書においても島岡氏側の発言内容についてはほとんど書かれていません。そこが明らかにならなければ、本多氏が何について「そんなのおかしい」と言ったのかわかりません。

これは、単に「報告書からはよくわからないよね」という話ではありません。この報告書は、最も肝心な事実関係をあえてブラックボックスにしている、そのように断じざるを得ません。その上で、「私と14歳が同意の上で性交した」と発言したことになっている報道が十分上書きされることなく、バッシングと処分が進行している、それが現状なのです。

パワハラについての報告書の印象操作

報告書において、本多氏の言動として問題視されているのが「パワハラ問題」です。そして、この点に関しては、ほとんど事実そのものが書かれていません。

(1)本多議員のパワハラ問題
今回の発言が、外部講師とのやりとりの中で言われた言葉であることも含めて、複数外部講師への本多議員のパワハラ的な言動もインターネットなどで話題になっている。外部から招いた講師に対して公党の主催する会議でこのような非礼が行われたことへの驚きの声である。
一方で、今回のヒアリングでも内外を問わず、多くの人たちが本多議員の日頃の言動の問題点について触れている。また本人も「WTに招いた講師や事務局に不快な思いを与えてしまった。」と述べているように、すでに広くその言動は問題になっていたことがわかる。(p.6)

インターネットなどで話題になっている「複数外部講師への本多議員のパワハラ的な言動」とは、何を指しているのでしょうか。該当する箇所が報告書にあるとすれば、p.5に記載された「本多議員は外部のアドバイザーの前で激高して机をたたいて怒らせて問題になった」を指していると思われるのですが、これが何年何月何日に、どの会合において、どのような経緯において机をたたいて、どのように問題になったのでしょうか?それが具体的には一切書かれていません。

さらに、「本多議員の日ごろの言動の問題点」とは、具体的にどういうことでしょうか?この内容について、一切の言及がありません。

その上で、報告書は次にこう続くのです。

言われている一連の発言が厳密な意味でパワーハラスメントに該当するかどうかはさておき、外部講師には非礼を超えた不快感や嫌悪感、場合によっては暴力的とも言われる威圧的な対応がとられていたこと自体が問題視されなければならない。(p.6 強調は引用者)

見出しに「本多議員のパワハラ問題」と書いている報告書が、どうして「厳密な意味でパワーハラスメントに該当するかどうか」を勝手に「さてお」いているのでしょうか?さらに続けて、事実を例示することなく、「議論の体を全くなしていない場面もみられる」と書いています。

また「1年生議員に対しても、自分の意見に対する見解を求めるなど本多議員の圧力と感じられる雰囲気があった(p.7)」という記述もありますが、見解について発言を抑圧するならともかく、議論において参加者の見解を求めることをもって圧力であると判断するのはかなり無理筋でしょう。

このような杜撰な事実認定に基づいて、本多氏について「立法府の一員としての資質自体が大いに問われる」(p.7)と報告書は結論づけています。しかしこれでは、印象操作という批判を免れることは不可能でしょう。

報告書が、限界事例の検討を不要だと主張する驚くべき根拠について

そもそも、5月10日の会合において、「限界事例」が論争の焦点だったことは当事者の証言から明らかになっています。本多氏は「人を処罰する法律だから例外や限界事例について幅広い緻密な検討をしたいと考えた」と釈明しています(毎日新聞 6月18日)。また寺田学座長も本多氏の「問題発言」に反論する形で、性交同意年齢の引き上げについて一切の例外も認めない立場であることを主張しています(毎日新聞 6月8日)。

一般論ですが、法律を策定する過程において、限界事例について考察・議論を行うのは当然のことです。新たな法律を創れば、意図しない副作用が出てきます。たとえば性交同意年齢を16歳まで引き上げて一切の例外を認めなかった場合、18歳の女子高生と14歳の男子中学生の交際と性行為において、女子高生が有罪ということになるわけです。この刑事罰が本当に妥当なのか、もし妥当でない場合どのようにすれば副作用が軽減されるのか、緻密に議論を行い、より良い法律案を練り上げていく必要があるわけです。

しかし本報告書は、驚くべきことに、限界事例についての議論は不要であると主張しているのです。

③「先例主義」と「限界事例」
過去の司法判断などの「先例」やそこで判断された「限界事例」を根拠に刑法改正に対応する必要はないとする論議は、司法判断を重視するものである。しかし司法判断による過去の先例や限界事例は、立法府における政策論議を拘束するものではなく、むしろ憲法に基づく三権分立の基本原理からすれば、立法府が司法判断に拘束されるのであれば、立法府としての役割を果たすことにはならない。このことは、「限界事例」「先例」をもとに「処罰できるか」を問いその必要性を否定する論議を「ためにする議論」として批判する論者もいることに現れている。(p.11 強調は引用者)

要するに、限界事例は司法で考えるべきことであって、立法府では考える必要がないという主張です。その根拠として報告書が挙げているのは、「ためにする議論」として「批判する論者もいる」ことなのです。

「その必要性」という言葉の正確な意味を読み取ることは困難ですが、誰かわからない人の発言を引き合いに出しつつ、その内容の妥当性を問うことなく、一方的に根拠としている。そして、「民意に寄り添う姿勢が求められる」(p.11)と主張するのです。

ペドフィリアか法への無理解か、あるいは認知が歪んでいるのはどちらなのか?

同様の問題は、本報告書で批判されている「本多議員の認知の歪み」という論点においても挙げられます。

何をもって「認知の歪み」としているのか、引用します。

 その第一のポイントは、「気持ち悪い」と言った表現でなされている批判である。その意図するところはいろいろにあるが、単純に、年齢差に着目した嫌悪感を表現したものから、年齢差とは関係なく、そもそも年少者に向ける性的視線のあり方を問うものまである。
 年齢差の問題については、極端な例示は間違いだったとして、その後本多議員は「18歳と15歳の表現をしている」としてはいるが、依然として「小児性愛者的」な性的な視線のありようには疑問が呈されている。っまり、そこには男性特有な性的な視線、無意識に未成年者にも向けられる性的な視線や、欲望がありはしないかということである。それは、俗に「認知の歪み」ともいわれるもので、男性性に深く関わるテーマだといわれている。こうした部分で嫌悪感を感じた人たちも多く、しかも今回の発言の意図とは離れてそうした視線を合理化する発言であるとも受け取られかねないことである。(p.8 強調は引用者)

この文章から、「認知の歪み」とは「小児性愛者的な性的視線のありよう」のことを意味しているとわかります。

そして本多氏は「男性特有な性的な視線、無意識に未成年者にも向けられる性的な視線や、欲望」があるという疑念がもたれていると、報告書は指摘しています。

もちろん、この段階においては、報告書の筆者は「今回の発言の意図とは離れて」「受け取られかねない」から、こうした疑問に本多氏は応答するべきだと書いています。

しかし次のセクションの見出しが「(4)本多議員の認知の歪みは是正されたのか」となっています。前段においては疑念に答えるべきだという主張だったはずが、いきなり本多氏が「小児性愛者的」な性向が事実であるという前提に立った上で、「認知の歪みを本質的に修正したとは言えない」と論じ、「本多議員の真摯な反省と、今後への決意を厳しく問う必要がある」と結論づけているのです。

本報告書において、本多氏の認知が歪んでいるという客観的な証拠は一切提出されていません。本多は気持ち悪いペドフィリアだと批判している人が存在するということは、その批判の妥当性を証明するものでは決してありません。これは、致命的な論理的飛躍です。

このような論理的飛躍を行うからには、筆者自身が、本多氏が小児性愛者であるという結論が先にあって報告書を執筆していた可能性が濃厚でしょう。その背景には、限界事例についての議論など立法段階では必要がないと主張して恥じない、法学についての素人未満の無理解があると判断できます。

そうだとするならば、認知が歪んでいるのは本多議員ではなく、報告書の執筆者である可能性の方が高いものと思われます。

本報告書の筆者は、限界事例を議論することの必然性を理解する最低限の能力が欠落しています。それゆえ、本多氏の議論を「あいつは小児性愛者だから同意年齢引き上げに反対するのだ」と臆断し、客観的事実を挙げることなく小児性愛者でありパワハラ常習者であるという印象操作を行った上で、誰かよくわからない人間が言った批判を、その内在的な検討を行うことなく自身の主張の根拠としているのです。

立法プロセスはどうでもいい、民意が求めていることに従うべきだ、というのが本報告書の姿勢です。それは、「手続き論はもはやどうでもいい。衆院選に影響がある」(北海道新聞 7月14日)と主張した立憲民主党幹部の姿勢とも、驚くほど一致しています。

立憲民主党執行部に要求します

事実と議論を軽視する反民主主義に抵抗しようとする人間に対して、ペドフィリア・差別主義者であるとの印象操作を行い、弾圧・排除しようとする。これは、文字通りの意味においてファシズムです。

以上が、報告書に内在的なテクスト読解した上での、私の結論です。

私は以下の事を立憲民主党の執行部に要求します。

1 5月10日の会合について、録音・録画・議事録を直ちに公表してください。

2 以上の記録がどうしても見つからない場合、当日の参加者を全員確定させたうえで、どのような議論が行われたのか関係者のメモなどをすべて公表した上で、発言内容をできるかぎり正確に再構成してください。

3 本報告書を書かれるにあたって、調査・議論・執筆を行ったメンバー全員を直ちに公表してください

4 上記メンバーが、まともな論理的思考を行い、読解可能な日本語を書く能力を欠如しているだけではなく、立法議論が行われている会合について報告書を執筆するだけの法学の知識が欠落していることは明白です。したがって、メンバーを全員差し替えた上で、本件について新たに第三者委員会を結成し、再調査を行ってください。その際、再調査を行う第三者委員会のメンバー全員を公表することはもちろんのこと、その選定基準も公表してください。

5 再調査の対象となるのは、本多議員の言動だけではありません。島岡教授の発言、この情報が不正確にマスメディアに漏洩したプロセス、前回報告書が調査され執筆されたプロセス、そして杜撰な事実認定に基づいて一人の議員の政治生命を断とうとした執行部の意思決定過程、これらすべてを調査し、その結果を客観的事実や生データとともに公表してください

6  5月10日以降の現存する録音・録画・議事録のデータをすべて公表してください。

7 以上の要求が呑めない場合、立憲民主党の看板を破棄し、「ファシスト党」に変更してください

8 その要求すら呑めない場合、立憲民主党執行部は政治に関わる資格が一切存在しないと判断できます。それゆえ、立憲民主党執行部は直ちに総退陣してください

立憲民主党執行部が行おうとしていることは、本多議員ただ一人の政治生命の抹消ではありません。民主主義の破壊行為です。

私は日本国民として、憲法が国民に保障する自由及び権利を保持するための不断の努力の一つとして、以上の8点を要求します。

さいごに

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

繰り返しになりますが、いま起きつつあるのはまさに民主主義の危機です。どうか拡散のほど、よろしくお願い申し上げます。

続きのnote記事「本多議員の処分が、立憲民主党執行部の責任問題になる党規則上の理由について」を書きました。併せてご参照ください。


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