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上野千鶴子の歴史修正主義③ 従軍慰安婦は性奴隷制度ではなかった?あるいは上野による「人権」概念否定と、フェミニズムに対するバックラッシュについて

これまでのおさらい

これまで、上野千鶴子が歴史修正主義において果たした役割について、具体的に論証してきました。

この連載にあたっては、私のスタンスを最初に明確にしています。「馬の眼って誰だかよく知らないけど、フェミニズムを批判するからには差別主義者なんだろう」と考えたがる人は、まずnote第一弾から眼を通してください。

今回は、上野千鶴子の『ナショナリズムとジェンダー』(1998年 旧版)において、従軍慰安婦についてどのような論理を展開していくのかを見ていきます。

上野以後のフェミニズムがなぜおかしくなっているのか、その核心部分に斬り込むので、ぜひ最後まで目を通してください

従軍慰安婦の証言の前に、パラダイム転換があった

『ナショナリズムとジェンダー』の後半部分では、従軍慰安婦問題について論じています。

上野はその冒頭で、従軍慰安婦問題における「三重の犯罪」について論じています。すなわち、
  ①「戦時強姦」
  ②「その罪の忘却」
  ③「保守派の人々」による「被害女性の告発」の否認

です(p.100-101)。そして、「従軍慰安婦問題は現在の問題なのだと、わたしたちが現在進行形で加担している犯罪なのだ」と論じています。

ここまでは、私も完全に同意するところです。

さらに上野は、従軍慰安婦の方々による告発において、被害者の「恥」から加害者の「罪」への「パラダイム転換」があったと主張します。

「パラダイム」は、元々は科学哲学者トーマス・クーンによって提唱された概念で、他の研究の模範となるような研究のことを指しています。しかし、その概念は濫用され、「その時代を支配する、モノの見方の大きな枠組み」ぐらいの意味合いで使われてきました。

上野は「パラダイム」概念を明示的に定義していませんが、これまで何度も引用してきた箇所から、その中身が推測できます。

歴史に「事実 fact」も「真実 truth」もない、ただ特定の視覚からの問題化による再構成された「現実 reality」だけがある、という見方は、社会科学の中ではひとつの「共有の知」とされてきた。

この社会構築主義における「特定の視覚からの問題化」こそ、おそらく上野が「パラダイム」と呼んでいるものです。

さて、元従軍慰安婦の方々による告発は、パラダイム転換とどのように関係しているのでしょうか。

上野は、「告発自体がパラダイム転換であった」とは論じてはいません。そうではなく、「パラダイム転換が先」にあって、そのことによって慰安婦による告発が可能になったと主張しているのです。

元「慰安婦」が名のりでるにあたって、尹貞玉を代表とする韓国挺対協の人々の調査と呼びかけがそれに先だって存在した。パラダイムの転換が先にあったからこそ、それに応じる証人がわたしたちの目の前に現われた。「慰安婦」の「証言」は支援グループの女性たちの存在なしにはありえなかった。(p.103 強調は引用者)

要するに、「パラダイムこそが被害者の証言を構築した」という論理です。このように上野は、被害者の証言をパラダイムへと従属させます。

しかしこの理論においては、元従軍慰安婦の方々が実際に強いられてきた凄惨な経験は、どのように位置づけられるのでしょうか。常識的に考えるならば、筆舌に尽くしがたい彼女たちが生きた「現実」こそ、パラダイム転換「の前」に存在するはずではないでしょうか。

また、上記の引用箇所でもう一つ重要なことがあります。それは、パラダイムを構築する特権をもつ知識人(挺対協)に対して、証人である慰安婦が従属させられているということです(「支援グループの女性たちの存在なしにはありえなかった」)。

ここで上野は、慰安婦の方々に対して、その主体性を否認する傾向がある訳です。

この本が出版された17年後、上野一派は、従軍慰安婦の方々に対して組織的な抑圧を行います(後のnoteで詳述)。これをもって日本のフェミニズムが死んだと言えるほどの大事件なのですが、その萌芽は、この本で宣言された社会構築主義にはらまれているのです。

従軍慰安婦についての5つのパラダイム、あるいは「真実」など存在しない

『ナショナリズムとジェンダー』の続きの箇所では、従軍慰安婦問題についての、様々なパラダイムについて論じていきます。具体的に挙げられているパラダイムは、

①「家父長制」パラダイム 従軍慰安婦は「民族の恥」であるとするもの。
②「戦時強姦」パラダイム 従軍慰安婦を、戦時強姦の延長線上で理解しようとするもの
③「売春」パラダイム 慰安婦を売春婦とするもの。
④「性奴隷制」パラダイム 従軍慰安婦を性奴隷制度とみなす国際的な観点。
⑤「民族言説」 韓国ナショナリズムのために慰安婦問題を利用する言説

の5つです。そして、上野はそれぞれに対して批判的な検討を加えていきます。

上野はこのうち、どのパラダイムを支持しているのでしょうか。答えは、ありません。上野は、ただそれぞれのパラダイムを並べ、「真実など存在しない」と宣言するだけなのです。

「慰安婦」をめぐる解釈パラダイムはこれほどの多様性を持っている。
何が「慰安婦」問題の「真実」なのか?解釈パラダイムのあいだに、これほどの落差があるとき、「真実」は誰にもわからないようにみえる。だが、この問いの立て方は実はトリッキーである。「真実」とは唯一のものであり、誰にとっても否定しようもなく同じ姿をとるはずだという考えが前提されているからだ。むしろ存在するのはさまざまな当事者によって経験された多元的な現実(リアリティ)と、それが構成する「さまざまな歴史」であろう。(p.142-143)

「人権」概念の相対化と、従軍慰安婦=性奴隷制度の否認

上述の5つのパラダイムについての論述の中で、最も深刻な問題をはらんでいるのは、④の性奴隷制パラダイムに対する上野の批判です。

国連のクマラスワミ報告書にあるように、「従軍慰安婦は性奴隷制度であった」という見方はもはや国際的に標準化された観点であり、ユーゴスラビア内戦などににおけるように、「今日における女性に対する性暴力」と結びついているというのが国際的な認識です。

そのように論じた上で、上野は「性奴隷制パラダイム」を次のように批判しはじめます。

性暴力パラダイムのキーワードは「女性の人権」と「性的自己決定権」である。だがこのパラダイムもまた問題点を孕んでいる。(p.124 強調は引用者)

性奴隷制度パラダイムに問題があるという根拠を、上野は続けて次のように論じます。

第一に、「人権」概念は超歴史的な普遍概念ではない。「人権」の内容は歴史的に変化してきているだけでなく、社会的には性、階級、民族などの変数によって限定されてきた。「人権」概念もまた近代という時代の限界を背負っている。「女性の人権」という概念はフェミニズムの成果のひとつであり、かつ性暴力パラダイムへの転換を可能にした概念だが、同時に「人権」や「自己決定権」の概念もまた、今日新たな検討にさらされている。(p.124 強調は引用者)

この文章を、私たちはどのように理解すべきなのでしょうか。

さしあたり読み取れることは、上野が「人権」概念を、近代という限界を背負ったものとして相対化し、そのことによって「従軍慰安婦は性奴隷制度である」という国際的定説を批判しようとしていることです。

そして、「今日新たな検討にさらされている」という言葉によって、人権概念を粗雑に相対化しようとしていることも読み取れます。しかし、具体的な検討の内容や、人権概念が批判されるべき理由については、ここでは何一つ語っていないのです。

(研究書としてこの論理展開は普通にアウトでしょう。この言い方だと、「新型コロナウイルスが実在するかどうかは、今日新たな検討にさらされている」ということで、ウイルスの存在すら否定できてしまいます。)

国連に対する批判

上の引用箇所は後に再検討することにして、ひとまず先を急ぎます。

第二に、「人権」外交の名に示されるように、国連中心主義の問題がある。ポスト冷戦下のアメリカ一極集中体制のもとで、国連が果たす役割を「世界の警察」としてナイーヴに評価することはできない。アメリカは 「人権」を外交の切り札に使ってきた一方で、自国の戦争犯罪や武力侵略には目をつむってきた。国連は「正義」の代名詞ではない。(p.124)

ここで突然に国連批判を行っているのは、上野が本節の冒頭で取り上げた(従軍慰安婦を性奴隷制度と批判した)クマラスワミ報告書を相対化する意図があったものと思われます。そう考えなければ、なぜこれが「性奴隷」パラダイム批判の根拠になるのか、全く理解ができなくなります。

しかし冷静に考えれば、国際政治における国連のあり方の問題と、「人権」に基づくクマラスワミ報告書の内容が妥当であるかどうかは、全く別問題です。しかし、上野はその「内容」の水準の議論は行わずに、国連そのもののあり方を批判することで、「人権」概念と「性奴隷パラダイム」を粗雑に相対化しようとしているのです。

「人権」概念の普遍性について

「人権」概念について考察を深めましょう。

上野が言うとおり、アメリカ政府が「人権」という言葉を盾に、侵略戦争を正当化してきたという経緯はあります。

しかし、「人権」の名の下に行われた暴力もまた、「新たな人権侵害を産んでいる」というように、「人権」に基づいて批判されるしかないはずです。「人権」概念がなければ、戦争や暴力をそもそも批判する根拠がなくなってしまいます

ちょっと考えてみてください。

「人権」という言葉は、常に「誰かの人権を守れ」という使われ方をします。そのように言う相手は、政府や企業・DV加害者など、広い意味での権力です。その権力者に対して、「人として扱うこと」「被害の訴えに耳を傾けること」「生きる権利を保障すること」「学習する権利を保証すること」などを、正当な権利として求めることを可能にする―それが「人権」という概念の絶大な効果です

たしかに「人権」概念は、どこかの時点で誰かが創り、そのあとも使い続けられて生きてきた言葉でしょう。それは、他のあらゆる概念が、人類の発明品であるのとおなじです。

別の言い方をすれば、私たちは「人権」概念を使って、私たちは「私たちあるいは彼女たちも人間として認めろ」と権力者に対して闘争し、一人一人がより良く生きられる社会を創ろうとしてきたのです。

だからこそ、これまでの歴史において、「人権」概念の範囲が変わってきたのです。それは、上野がなんと言おうと「人権」概念が普遍的なものではないことの証左にはなりません。その「人権」という理念の普遍性ゆえに、その普遍性を完遂すべく、「人権」概念の適用範囲が、これまで拡張されてきたのです。

上野千鶴子、あるいはフェミニズムに対するバックラッシュ

この「人権をめぐる闘争」のうちに、フェミニズム、すなわち女性の人権獲得をめぐる運動もあります。

それに対して上野はなんと言ったのか、もう一度読み直してみましょう。

第一に、「人権」概念は超歴史的な普遍概念ではない。「人権」の内容は歴史的に変化してきているだけでなく、社会的には性、階級、民族などの変数によって限定されてきた。「人権」概念もまた近代という時代の限界を背負っている。「女性の人権」という概念はフェミニズムの成果のひとつであり、かつ性暴力パラダイムへの転換を可能にした概念だが同時に「人権」や「自己決定権」の概念もまた、今日新たな検討にさらされている。(p.124 強調は引用者)

上野は、「人権」概念によって女性が人権を獲得してきたことを「フェミニズムの成果」として認めながら、驚くべきことに、「今日新たな検討にさらされている」という雑な相対化によって、「人権」概念を放棄しているのです

「人権」概念を否定することは、これまでのフェミニズム運動を否定することです。上野の社会構築主義は、本当にフェミニズムと言えるのでしょうか?

むしろ上野千鶴子・東大教授が行ったことこそ、フェミニズムに対するバックラッシュそのものではなかったのでしょうか?

従軍慰安婦問題について

さて、上野がこの「人権」概念の相対化することによって試みたのは、従軍慰安婦問題における「性奴隷」パラダイムの否定でした。

しかし、この二つがどのように繋がるのか、論理的に上野は説明できているとは言えません。

社会構築主義者として上野が言いたかったことは、「自由意志」は近代社会の産物だから、近代以前には「自由意志に反する奴隷制」は論理的に不可能だったということなのでしょうか?

それとも、「人権」が認められる時代になったから従軍慰安婦の方々は被害を訴えることができたが、その「被害という現実」そのものがパラダイム転換によって事後的に創られたものだ、ということなのでしょうか?

いずれにせよ、パラダイムへと被害の告発を従属させる社会構築主義の論理そのものが、人権侵害を必然的に帰結し、したがって「犯罪的」である、私たちとしてはそのように結論づけざるをえなくなります。

ここで「犯罪的」という強い言葉を使うと、さすがに言い過ぎではないかと思われる読者もいるでしょう。しかし、この「犯罪」という言葉は、まさに上野本人からの引用です。

この章の冒頭で、上野は従軍慰安婦をめぐる「三重の犯罪」について、次のように書いていました。

「従軍慰安婦」をめぐる「二重の犯罪」とは、第一に戦時強姦という犯罪と、第二に戦後半世紀にわたるその罪の忘却、という犯罪である。第二の犯罪については、被害者に被害の認知を拒むことによって、日常的・継続的に半世紀にわたって続けられてきた「現在の犯罪」だということができる。それに付け加えるなら、現在保守派の人々によって、被害女性の告発が否認されていることを、「第三の犯罪」と呼んでもよい。過去に被害を受けたにとどまらず、その被害に対して長い沈黙を強いられ、ようやく沈黙を破ったときにカネほしさの嘘つき呼ばわりされる―これが二重、三重の犯罪でなくて何であろう(p.100-101)。

上野が「人権」概念を雑に相対化し、性奴隷制度であることを否認するとき、彼女がやったことはこの「第二の犯罪」「第三の犯罪」にあたらないのでしょうか。もし、そうではないとするならば、それは何故なのでしょうか。

そして、性奴隷制度の被害者たちに人権を認め、彼女たちの真摯な訴えに耳を傾けるならば、この「被害の経験」が社会のパラダイム転換よりも先にあったことを受け入れる必要があります。

しかし、そうだとするならば、社会構築主義は論理的には完全に破綻し、かつ実践的には人権侵害を帰結する誤った理論であることを認め、放棄するしかないでしょう。

この問いを、上野千鶴子および、そのアカデミックなフォロワーに向けて問いかけます。

まとめと予告

長くなったので、一度まとめます。

①上野は、「パラダイム転換」が先にあって、慰安婦による告発が可能になったと主張する。

②上野は、従軍慰安婦の方々を、パラダイムを構築する知識人へと従属させる。

③上野は、「従軍慰安婦を性奴隷制度」とみなす国際常識を否認し、その根拠として「人権」概念の反普遍性と、国連「人権」外交の欺瞞性を挙げる。

④上野は、「今日新たな検討がされている」という極めて粗雑な仕方で「人権」を批判するが、それは女性の人権を獲得しようとしてきたフェミニズム運動に対するバックラッシュである。

⑤社会構築主義によって、パラダイムへと被害の告発を従属させる社会構築主義の論理そのものが、人権侵害を必然的に帰結し、したがって「犯罪的」である。

次回は、上野の慰安婦についての議論が、朴裕河の歴史修正主義本『帝国の慰安婦』へと繋がっていくことを論じる予定です。

今回も投げ銭方式にしております。引き続き応援よろしくお願いします。

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