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ローフードは「知識」が一生のタカラ、ゲルソン療法は「習慣」が一生のタカラ。

 11月の婦人科での検査で筋腫が小さくなっていたこと、小学生のときから悩まされていた腰痛に明らかな変化が見られたこと(使えば筋肉ははるけど、なんというか、人生から「希望」を奪うようないや〜な痛みがなくなった)、年末〜1月にかけて、家族の介護のことがあり、生活スケジュールが3食の時間を上手に確保できないほど乱れてしまったこと(やつれてやせてしまった)、などから判断して、1月以降、少しルールをゆるめた。

 とくに、「食べられない」というのは、ゲルソン・フィロソフィーではとっても困るのである。断食やジュース・クレンジングで「食べない」ことが健康に好転をもたらすのは、ふだんの食事により身体に不要なものがたまるから。食べることでデトックスをうながし、効率的に新しい細胞をビルド・アップすることが目的でデザインされているゲルソン・ミールは、食事が供給されないと、目的とする身体の活動が止まってしまう(ゲルソン療法下で食べられないと面白いようにやつれる)。デトックスというのは、血糖値が安定した中でないと起こらないものでもあるらしい。低血糖は禁物なのだ。

 そのようなわけで、どうしても食べられないときは、サラダ・ビュッフェのある店で、塩分をなるべくとらないように食材を選びながら食事をとるようになった。一週間21食のうち、1食ぐらいが非ゲルソン食である。

 7ヶ月ぶりに非ゲルソン食を解禁することには不安があった。食べちゃいけない食材をとることでの身体への影響が不安だったのではない。せっかく「不塩」が習慣化した舌が、塩が含まれたものをとることによって元に戻る――、つまり、昔の味覚に戻ってしまうことが心配だったのだ。

 塩を使っていない食事しかとっていなければ、舌は比較のしようがないから、それをおいしいと思う。でも、今一度、塩を使った料理を食べて、それを「おいしい」と感じたら? 塩を使わない料理が「味気ない」と感じてしまうのではないだろうか。そうなったら、ゲルソン・ミールを食べ続けることには「我慢」が必要になってしまう。

 ところが! 心配はぜーんぜん無用だった!

 それぐらい、何を食べても以前とは味が違うのである。

 塩をとったときに「あ!」と気づく感覚は、かなり早い段階で気がつくようになっていたのだが、ふつうの人でも「漬けもの」を食べたときに「塩辛い」と感じるような、あの感覚を漬けものでなくても感じる。何を食べても、海水を浴びせたものを食べているみたい(笑)

 だから、一度その味を食べてもそれに慣れてしまうことはなく、「ああ、次の食事は家に帰ってゲルソン・ミール食べてほっとしたい」と思うようになった。

 サラダ・バーでも、生野菜はともかく、加熱した野菜には塩分が含まれているらしきことを舌は感じる。たとえばゆでたブロッコリーやビーツなど。以前はそこまで気がつかなかったが、毎日塩抜きで加熱した野菜を食べていると、今となってはその違いをはっきり感じる。タバコを吸っていたときや吸う人と暮らしていたときは気にならなかったのに、完全にタバコの煙と無縁になってみるとそれがいかに臭かったか気づく、あの感覚と似ている。

 自分で選べるサラダ・バーでそうなのだから、一般向けに調味されたものを食べたら、「じゃりじゃり」に感じるだろう(笑)

 それであらためて思ったのは、「習慣化は力だな」ということ。

 ときどき「無理して好きなものを我慢するのもストレスになる」(だからあまり無理して我慢しないほうがいい)というような意見を読むことがあるけれど、「好き」「嫌い」って本当はないのだと思う。何に「慣れて」いるか、だけなのだ。「快感をもたらす」と習慣づけられたものを、人は「好き」と思っているのだ。

 そうすると、「好き」な気持ちに従って生きることが健康や幸せをもたらす、という考え方が、かなり眉唾になってくる。「好き」「嫌い」を決めているのは結局こちら側の感性で、その感性は、そこに意味をもたせず粛々と習慣化を繰り返して行くと、変更可能なんである。

 そうしみじみ思ったのは、「塩」以上に私が大好きだったもの「あぶら」が、7ヶ月の食生活の変化ですっかり苦手になってしまったからだ。

 ナッツ1粒食べたら「うっわー、あぶらっぽいなー」と思うぐらい油に敏感なのだ。ロースイーツも想像するときつい。乳脂肪にいたっては、あの口の中でとろりと溶ける感覚にあれほど耽溺していたのに、その「とろり」感が「うへっ、気持ち悪い」と感じる始末。今、口の中で「とろり」とするものは、オートミールの植物性ゼラチンの感覚なので、そっちのほうがすっかり初期値になってしまったらしい。

 そうそう、ビュッフェでもパンにはまったく手が伸びない。完全スルー。

 それで、私は今ちょっと、感激している。

 今まで自分の中で葛藤(大げさかな?)であったものは、「身体にいいとはいえないもの」が「好き」、つまり、「快感をもたらす」として回路がつながってしまっていることだった。食生活を改善するためには、「快感をもたらす」ものを我慢する必要があったのである。生野菜や果物はもともと好きなものだったから増やすことに苦痛はなかった。でも、減らすことに苦痛を感じていたものは、意識を変えたわけでもなく、もちろん根性なんかではなく、淡々と「習慣」を作り上げていっただけ。日々の暮らしの中では「習慣」なんて言葉は出てこなくて、ただ、今日一日、今日一日と行動を積み重ねていっただけ。

 その結果として、塩とあぶらを嫌う舌が出来上がった。

 この舌を持っていたら、身体に悪いものを、自然と避けるようになるわけだ。ときに嗜好品として味わってみたいと思うことがあっても、塩なしといういわば「味覚のホームポジション」みたいなところに戻りたいという欲求が働く訳だ。

「塩なし」という味覚が「好き」というわけではない。どっちかというと「そうじゃないと気持ち悪い」という感覚だ。モノがいっぱいある家からない家へ。掃除嫌いから掃除好きへ。「私が嫌い」と思う心の声から「私が好き」という心の声へ。そういう習慣の変化だ。

 だから、タイトルの思いになるわけである。

 ローフードの概念を知ったとき、文字通り、「この知識は一生のタカラだ」と思った。子どものときから「なんとなく」健康ってこんな感じなんじゃないか、とおぼろに積み上がって来た食の知識をいったん壊して、ゼロからインストールすることができたのは、その後の人生へのリターンを考えると、ものすごく効率のいい投資だった。

 「生野菜と果物」という食材はいいとして、私が手こずっていたのは「味覚」のほうである。ロー100パーセントのときもナッツやロースイーツが大好きだったし(カロリーをそれでとる必要もあった)。2011年にパリで目覚めてしまって以来、乳脂肪は堪能した感がある。全粒粉パンに非加熱乳チーズが大好きだったから、この食事の塩とあぶらは相当なものだ。

 ゲルソン療法ほど極端な食習慣にしなくても、「塩」や「あぶら」を自然と避ける食習慣になっている人もいるだろう。そういう人はざっくりしたローフードの知識だけでもかなり理想的な食習慣を作り上げられたかもしれない。でも、私の場合は、完全に抜いてみて、一からその食習慣を築き上げることによって、それらを自然と遠ざける嗜好を作り上げた。

 厳格ゲルソン生活を始めた当初は、病気(筋腫)に効果を及ぼすまでは集中的にこの食事に徹して、効果が上がった後は、また、いろいろ自分の好きな味を楽しみたいと思っていた。しかし、今は、基本、この食事をずっと続けていきたいと思うようになった。なぜなら、たった7ヶ月であったけど「繰り返す」ことによって、私は「習慣」というタカラを手に入れたと思っているからである。今後もこの習慣を積み上げていきたいと思っているのだ。

 そして、食べ物だけでなく、「習慣」というものの恐るべき力を、存分に思い知らされたように思う。生活の中でも、自分が何を「習慣化」したいのか、よく考えるようになった。

(↑上で原稿は終わりですが、ちょっと大作なので、300円の投げ銭つけました。投げ銭してくださる方は、下記をクリックしてお願いします。100円で作家サポートもできます)。

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