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自分の奥の方に降りていってそこで起きたことを報告することは、戦場に行って起きていることと同じぐらいリスクが高くて、でもだから誰かがやることに意味があることなのかもしれない。

 これは、「エッセイ」の部類に入るテキストかな。

 きっかけは、2012年の8月20日にシリア取材中に亡くなった女性ジャーナリスト、山本美香さんのニュースが、三回忌をきっかけにしばしば話題になるのを目にしたこと。

 同時に、私が生きる姿勢でも文章の作り方、文体でも影響を受けたのは同じくジャーナリストの千葉敦子。彼女は自分の「死にゆく姿」を観察し、死ぬまで書き続けた。

 でもね、物書きというのは、戦場や死病に向き合わなくても、ぎりぎりのところまで自分を追い込むことで自分が書くものを先鋭化させているという部分はあって、村上春樹も、「いったん小説を書き始めたら、『どうぞこれを書き終わるまで生きさせてください』ってずーっと祈っている」ってどこかで書いた記憶がある。そりゃそうですよね。戦場カメラマンが人が生き死にする瞬間を捉えるのと同じように、もの書きも人が生き死にする瞬間をとらえて書くのがお仕事だ。それがノンフィクションだと、本当の現象の生死であり、フィクションだと、生と死の本質にそれを表現する物語をかぶせる、みたいな差はあれ。

 私は幸か不幸か戦場に行く運命にも死が見える病気にもならなかった。以前は、そうならない自分、生と死に直結するテーマを見つけられない自分を、ちょっとかっこ悪いとすら思っているフシすらあった(そう思ってることがさらにカッコ悪いので、今これを書きながら頬が赤くなるのを感じている *--*)。

 でも、ゲルソン生活に取り組み自分の中で起こる変化を言語化し始めて、こりゃあすごい、まさに私の生と死だ、って思うようになってから、これをテーマにし、書こうとすることを迷わなくなった。そして、それを記録し報告することが、やりがいのあること、意味があることだとも思うようになった。

 というのは、タイトルにも書いたけど、「自分の中の古い自分が死ぬところまで追い込んで本当に殺す」というのは、本当にリスクがつきまとうことなのだ。今までの生活が変わってしまうかもしれない。ちょうどドラえもんの電池を入れ替えるように、過去の思い出、過去の価値観を失ってしまうかもしれないのだから。(実際、他のゲルソン体験者が報告しているかどうか知りませんが、古い自分の細胞が出て行くと、いろいろなことを忘れます。データ消去&再インストールですから)

 だから、全員がやらなくていいんじゃないかなーって思っている。生と死を見つめたい人が、全員戦場リポートに行く必要がある、というわけではないように。

 もう一つ、これが「戦場リポートだ」と思う理由は、実際に、身体の中で、「たたかい」が起こっているからである。私はまだ体験していないんだけど、本格的な治癒反応のときは、発熱をともなうというし(白血球大活躍!)そこまでいかなくても、各臓器が総力をあげて、今まで必要がないのにあたかも私の身体の一部、主役であったようにふるまっていたものを追い出しにかかっていることは、日々実感としてわかる。発熱はしていないが、頭痛、神経痛、ヘルペスの発症は「また来たかあ~」と思うぐらいの頻度だし、それが「ほお~次きたきた、さあ今度はどんなステージを見せてくれるんだあ~」という気持ちに変わるまでにはしばらく時間がかかった。

 というわけで、「私という生命体(=細胞が組織を作り、組織が合わさったもの)」は今のところ生き続けているのだけれど、その「私」を構成している細胞レベルでは、すさまじい勢いで交代の攻防戦が繰り広げられているわけで、入れ替わろうとする方も命がけなら、入れ替わるまいと抵抗するほうも必死(ナトカリバランス変えるとわりとあっさり変わっちゃうんでしょうけど)。なにしろ、細胞というのはそれ一個がなくなれば「死」ですから、たーくさんの死が起こって、たーくさんの誕生も起こっているわけだ。

 そうやって、たーくさんの死とたーくさんの誕生に支えられて「私」という個体の生が保たれて、では、私は健康に無事に生きていくのか、というと、健康な個体がたくさん増えて、「ヒト」という種の存続のためにバランスが悪くなるほど増えすぎたと判断されれば、私という個体は殺される。誰に殺されるわけでもなく、私の中にセットされたプログラムによって殺されるのだ。「健康」というのは、決して「生きる」ベクトルだけに向かっているのではないのです。「個」よりは「種」の方が優先。それが「健康」というものなのです。

 そこまで考えちゃう。考えすぎてそうなるのではなく、私の中で今日も繰り広げられる細胞再インストールの音を聞いていると、そこまで聞こえちゃうのだ。

 お忙しい皆様、ふだん、そこまで考える時間とれないですよね(笑)

 だけど、戦場の報道を聞いて、私達は自分が無事に生かされていることのありがたさを思うように、身体の中でそんな大攻防戦が繰り広げられていることを聞いても、「あ、私が生きてることって、すごいことなんだな」って思う時間が、1日のうちにちょっとだけ、とれると思うんですよね。

 それが、この報告を続けていくことで読者が得られる意義じゃないかと思っているのです。 

《お願い……今回のコンテンツはすべて公開されていますが、「投げ銭」システムをとっています。購入代金300円のうち、85%の255円が書き手の手元に入ります。売上は書き手の活動資金となります。毎回でなく月ごとに購入額を決めていただいてもありがたいです。今後もこのスタイルで公開していきますが、生徒様にすでに有料で提供したこと、お金・男女関係・性・排泄・その他個人的に深い話は一部有料となります。ご支援をどうぞよろしくお願いいたします。》

 

 

 

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