日本大好き『ベイマックス』は、平和憲法へのオマージュを含んでいる?

 うーん、だって私にはそう見えるんですよ。

 ちょっと検証してみますよ。

・両親を亡くした主人公ヒロは14歳の天才科学者少年。しかし、彼がロボット・ファイトに出場させるべく作ったロボットは、「不当なやり方でやられたら、やり返してもいい(=「武力モード」に切り替わる)」という二面性をもつものだった。(まあ一般的な国の安全保障のあり方)

・兄のタダシも弟ほどではないが優秀な工科大学に通う学生。やさしく頼もしい親代わりであるタダシは、弟に攻撃性を秘めたヒロに「世界には違う形での貢献の仕方がある」と教え、その自分の哲学の結晶である作品(=ロボット)を見せる。それがベイマックス。

・ベイマックスは、人の傷ついた身体や心をケアする「ケア・ロボット」だった。(だから、白くてふわふわしていてハグしたときに気持ちがいいように作られている)。またベイマックスには敵が来たときにその敵を攻撃する「専守防衛の」能力はない。(だからやられちゃった後に)ケアするだけ。(ベイマックスのフォルムは「となりのトトロ」からのインスパイアだそうです)

・工科大学の研究内容やそこで生き生きと研究に没頭する学生たちに魅せられたヒロは自分も入学を志し、入学オーディションのためのすばらしいロボット(私が一番感動したのはこのロボットの発明。私も欲しいしこれあったら確かに世界が支配できる)を開発する。ところがその発表会の席で会場のホールが火事になり、「誰かが助けなければならない」と恩師を助けるためにホールに戻ったタダシは、火事で亡くなってしまう。

・この火事が単なる事故ではなく、兄の死は謀殺だったかもしれないと勘づいたヒロは、復讐心を燃やす。自分たちをも攻撃の対象に入れて来た敵から身を守るため、ふわふわのベイマックスに、モビル・スーツのようなものを着せ(日本へのオマージュ!)、武装させる(なんと「ロボット・パンチ」がついている! 日本へのオマージュ!)。さらに、工科大学でできた友達もそれぞれの得意技で「部隊」に加わる(いわゆる「戦隊もの」ゴレンジャー(古?)風)、日本へのオマージュ!)

・しかしヒロは敵(意外な人物)にも自分と同じ恨み(大切なものを奪われた痛み)があることを知り、その「大切なもの」を救出に向かう。その過程で「武力あり」か「ケアのみ」か大きな選択を迫られる。ヒロはベイマックス(とそれを作った兄タダシ)の哲学に従い、「ケアのみ」を選び、そのために大きな犠牲を払うことになる。

・が! 「ケアのみ」を選び、犠牲をはらった(武力を手放したというべきか)ヒロに、思わぬ形でごほうびがもたらせる…。

 ……というわけで、この映画では、「武装を手放す」という一見クレイジーな選択により、しかしその勇気によって奇跡が得られる、というストーリーを描いているのだけど、ただし武装手放しを一方的に賛美しているのでもない。限界も包み隠さず書いている。限界とは、その「お人好しさ」が利用される可能性がいつもある、ということと、犠牲を払ったらいつもほうびが得られるわけではなく、失いっぱなしというリスクもある、ということだ。事実、死んでしまったタダシは帰ってこない。人間だから。人間でないロボットはかろうじてサバイバルの可能性があるのだが(この筋立て、『インターステラー』と同じですね)

 『アナ雪』が女の子のためのお姫様物語の基本コードを書き換えたように、『ベイマックス』も男の子のためのヒーロー物語の基本コードを書き換えている。その意味ではこの二つは対をなす作品だ。『アナ雪』がシスターフッドを描いたように、『ベイマックス』はそれこそ文字通りブラザーフッドを絵が描いているし、『アナ雪』ではロマンスが添え物であるのと同じように、『ベイマックス』にもヒロインがいない。弓さやかもフラウ・ボゥもしずかちゃんもモモレンジャーも出てこないのだ。このヒーローはヒロインを守るために戦ってない。そういうもの、子ども、見てほしい(笑)。

 ロマンスがない物語の主人公は自尊心が高い気がする。「あこがれ」というのは欠損感にしみ込んでくるから。あこがれない主人公。そういうの、子ども、見てほしい。


 


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