考え事

マルクスが植民地では、農民は農業だけに専念する事は不可能で、建築ほか様々なタスクをこなさなければならず、その能力を持っている。そのマルチタスク性の条件によって、雇用者と被雇用者の依存性が自然なものではなくなり、雇用者は危機となり絶対的な権力を欲するようになると指摘していた。

そのしわ寄せが奴隷にいき、かつ南北戦争からの奴隷解放後、いくつかの産業や技術が衰退していったことにもつながるだろう。

それはともかく、分業性・専業性とマルチタスク性(分業制の対義語がなんなのか、思いつかなかったけど、専業性とマルチタスク性としたけど)があるとして、いまはデジタルテクノロジーのおかげで一人でいろんなことができる社会になったわけで、マルチタスク化が一部の特殊な人材だけでなく誰でもできるようになったと言える。

実際マルチタスクを可能にした人間は、会社から離れてYouTuberなりなんなりで活躍すると言うこともめずらしくない。
封建的・家父長的な社会からの解放を促す部分もあるだろう。

ゆえにそのような状況が、雇用者と被雇用者の安定した依存関係、自然化を破壊した。だが、実はこれは被雇用者よりも先に、竹中のような人が、先にそういう安定性を破壊したといえる。とはいえ、日本だけがそういう問題に見舞われているわけではなく、世界的なイシューだ。過激な能力主義の到来。

誰もができるということは、簡単に競争相手が乱立し、自らが消費財と化してしまうシビアさがある。高度なヴィジョンやイシューを持ってる人は本質的なところで簡単に模倣されないコンパスや技術を持っている。

もう一方でいまもハイソな世界では、分業や専業性によるエキスパートたちによる高品質な世界は存続している。

美術は民主主義的な姿勢と、一方でこのハイソな世界だけを見ることで維持する姿勢とがあった。どっちもというポピュリズムもあり得るけど。
そこでしか作ることのできない特権的な価値と技術の世界。高価でハイクオリティの世界。そのためには小規模であれ安定した需要がなければ存続し得ない世界だともいえるが。そんな安定などないから、コラボレーションとかハイブリッドなどが求められるわけだが。

そういう二元論から考えられることもあるなと。

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