タルコフスキー監督作品②「ノスタルジア」
アンドレイ・タルコフスキー監督②「ノスタルジア」
2023.9.29 石野夏実
同人誌の原稿は、これでひと先ず映画エッセイは終わりにしようという思いを込めて「タルコフスキーはロシアそのもの」という題名で挑戦しようと決めていた。
以前、2年前くらいかと思うが映画の会にタルコフスキーの「ノスタルジア」を観ての感想を投稿した。
「映画の会」のHPの体裁が少々変わったためその感想が見当たらず、原稿のドキュメントファイルを探したら見つかりホッとした。
23年は、香港の映画監督「ウォン・カーウァイ」に挑戦した。
山に例えれば富士山かと、仕事帰りの道を歩きながら頭に浮かんだ。
香港映画なのに富士山とは?であるが。。
中国の名山を知らないし、どこから見ても高さも姿も日本一なのに準備をきちんとすれば誰でも登れるポピュラーな山であるからだ。
であるならば「タルコフスキー」はどんな山なのだろう。
やはり世界一のエベレスト山=チョモランマということになった。
思想、哲学、宗教。。。避けては通れない映画なのだ。しかし私に挑戦できるであろうか。タルコフスキーのマニアックでコアなファン相手に、ごまかしは通じない。
20年前に渋谷の「イメージフォーラム」に通い続けて虜になったあの映像。まさにロシアそのもの。私が好きな絵画も映画もロシアの大地から生まれた雄大な芸術なのだ。
私は30代のある時、夫の転勤で大阪に5年ほど住んでいて、ある日呼ばれるようにひとりで「カンディンスキー展」を観に行った。
コンポジションになってからのカンディンスキーではなく、ボートを漕ぐ力強い黒い手とオールに魅せられた。
私が好きだったそれまでの絵画は、全てが多かれ少なかれ写実的だったのだ。
まさに「生きること」をカンディンスキーの絵に教わった。
「自分の人生は自分の力でオールを漕いで切り開く」と。
作家の意図とは違う私の受け止め方だったかもしれない。
しかし芸術の感じ方は人それぞれだ。小説と絵画は特にそれが顕著だ。
作者が手元から作品を世に送り出した時、不特定多数の受け手ひとりひとりの個の感性の前に差し出される。
受け取り方は個々人の自由、それぞれでいいのである。
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タルコフスキーの作品は生涯で8本といわれている。初期の卒業制作中編「ローラとバイオリン」を含めての本数である。
今回、最後から2番目の「ノスタルジア」をPC経由のビデオで観る機会を得た。8作品の内、この作品だけがアマゾンプライムで観られるという理由からだった。
タルコフスキーの映画は、独白が多い。
正確には傍白というのかもしれないが、哲学的に語られる言葉は詩のように流暢である。
独白者の口を伝わり受け手の目を通して脳に届く。
情緒的な言葉を使わず感情的なものを排除し、普遍的なものを届ける意思が伝わる。
良し悪しは別にして、受け止める感性が合致しない者には、何の興味もわかないつまらない映画で終わってしまうのだろう。
ナレーションも同様である。
それは、カタストロフィを迎えるまでは、ドラマ性があまりないからかもしれない。
「ノスタルジア」の主たる登場人物は、かってイタリアを旅したロシアの音楽家サスノフスキーの足跡を訪ねる男=同郷の作家であり詩人でもあるアンドレイと、通訳のイタリア人女性エウジェニア、そして半狂人のドメニコの3人である。
ドメニコは、二人がたまたま訪れた温泉場での噂の主の男だった。
アンドレイは、すぐ側らを犬と散歩するドメニコを目撃し彼に興味を持った。彼は世界の終末が近いと家族を7年間も閉じ込めた半狂人の詩人であった。
ドメニコの暮らす水が滴る廃屋で、ふたりの問答が始まる。
1プラス1は1であるとドメニコは言う。壁にも書いてある。水一滴に一滴を足しても大きな一滴になるだけだと。
画面は、抑えたトーンのカラーであったりモノクロを巧みに切り替えて交錯する。
現実場面はカラーで、夢や空想回想はモノトーンと分けていたのではないだろうか。どの場面も理屈抜きに幻想的絵画的で美しい。タルコフスキー作品が、詩的独白とともに芸術的であるといわれる所以でもある。
「ノスタルジア」で使われた音楽は、終盤にローマで演説のパフォーマンスをし終わったドメニコが、ガソリンをかぶり焼身自殺をする際に流れたベートーベンの第9が印象的だった。
火だるまのドメニコ。途中で壊れるように途切れた第9。
パフォーマンスを手伝っていた若者たちは、これが本物の焼身自殺とは知らなかったのだろう。見物人たちもそれほど騒ぐ様子もなく、不気味さが増す。
飼い犬のシェパードだけが異常を察し吠え続ける。
人が死ぬのに他者はこれほど無関心でいいのだろうか。
カトリックの国のイタリアローマでさえこうなのだ。
同じ頃、そのドメニコに「自分の代わりにローソクに火をつけ消えないようにして水を歩けば世界は救われる」と託されていたアンドレイが温泉場に到着した。
彼はエウジェニアから最後の別れの電話がかかり「義務は果たしたのか?」と聞かれた。
アンドレイは急遽帰国を取りやめ、一旦はその約束を反故にしたローソクがポケットにあるのをまさぐってから温泉場に向かった。
クライマックスが迫る。
風からローソクの火を守りながら慎重に温泉湯の中を進むアンドレイ。
コートの内側で或いは掌で大切に扱いながらも火は途中で消えた。
もう一度、出発点から出直す。
硫黄が湧き出る温泉場の湯の中を端から端まで慎重に歩き通し、最後に火を守ったローソクのロウをたらして縁に固定する。
もともと心臓の持病があったアンドレイはここで命尽きた。
別々の場所で二人の男が死んだ。
タルコフスキーといえば、水、火、風、音、廃墟、鏡、そして神。世界救済がテーマだ。
「ノスタルジア」は、ロシアからの亡命を決心したタルコフスキーの二度と戻らぬ望郷の映画なのであろう。
ラストシーンは寺院の中庭。
水たまりを前に座ってくつろぐアンドレイとシェパード。
背景は箱庭と見て取れる故郷の家屋のミニチュア。本物ではない。
彼は、自身の作品の中では「ノスタルジア」が一番のお気に入りだと公言している。
主人公のアンドレイはアンドレイ・タルコフスキーのアンドレイである。
愛する分身なのであろう。