平野啓一郎原作映画①「マチネの終わりに

「マチネの終わりに」2019年11月公開    
2021.6.15記  石野夏実 
 
原作は、平野啓一郎の毎日新聞の連載小説(2015年3月~2016年1月)である。
洒落た題名であるが、マチネとは音楽やバレエなどの昼の部のことであり、時間でいえば午後3時くらいから4時辺りであろうか。
主人公は蒔野聡史=世界的なギタリストと、小峰洋子=国際ジャーナリスト。
アラフォーふたりの「生」と「音楽」を中心にした恋愛映画である。

この映画は、原作からかなり逸脱している。原作を読んでから映画を観た場合、精読している人ほど、違和感を感じるであろう。とても重要な設定が、いくつも違うのである。

先ず、映画では時代設定が後ろ倒しされ2013年11月から16年の初冬までの6年間ということになっている。原作では2006年から2012年5月(東日本大震災時も描いている)の6年間である。

原作では洋子は、イェルコ・ソリッチという旧ユーゴ出身の世界的な映画監督と日本人の母との間に生まれたハーフ(的確な表現がなく日本で使われている和製英語を使用)の設定であるが、映画では石田ゆり子が洋子を演じたため、血は繋がっていない義理の娘という設定になっていた。
時代設定も主役の女性の設定も全く変えてしまっているため、悪い意味ではなく原作とは別物と思った方が良いのかもしれない。

原作での洋子は、パリの通信社の記者でありテロが頻発しているイラクのバクダッドに特派員として赴任している。
ところが映画では、事実とは少し年代をずらしているが、パリの同時多発テロに遭遇=目の前で同僚を亡くした洋子(エレベーターのドアが閉まると同時に爆発音)を追っている。洋子は原作でも映画でもPTSDを患う設定になっている。
出会った時の主人公のふたりは、40歳前後で、洋子は2歳年上。
40歳台という年齢の人生においての立ち位置は、黄昏までにはまだ時間もあるが、若者とは呼べない自分を十分に意識している。
まさに働き盛りの大人の年代である。いわば「マチネ」の時間に相当するのではないだろうか。
出会うべくして出会ったふたりは、初対面ながらすぐに打ち解け話が合う。相性がとても良く、会話は弾み話題は尽きない。
互いの感性を誰よりも無理なく自然に理解でき、瞬く間に強く惹かれ合う。しかし、パリと東京では、なかなか会うこともままならない。
この映画のキャッチコピーは「たった三度会っただけのあなたが誰よりも深く愛した人だった」である。

映画では、遠距離で会えない分、ふたりは日常的にPCでのスカイプやスマホを多用している。便利な世の中になったものである。
洋子には婚約者がいるし、蒔野には蒔野命(いのち)の女性マネージャーが傍にいる。
そのマネージャー三谷による、これからのふたりの人生を左右する策略が、ふたりの再会を邪魔するどころか誤解の上の決定的な別離の運命を導く。 

洋子は自立していて強いし、思慮深い。しかし、ふたりは東京での再会はできず、話し合うこともなく別れた。
三谷は、蒔野と結婚し女の子を産んだ。洋子も元々の婚約者と結婚し男の子がいる。         
ところが洋子は、価値観も合わない夫の不倫により離婚した。
映画のなかでは、これまた原作と違い、三谷は蒔野のNYでの再起コンサートに全てを賭け、現地の劇場にまで交渉に行き、洋子にも会いに行く。
そこで全てを告白する。
同時に蒔野にも4年前の偽メールを送る。
真実を知った日本にいる蒔野は慟哭する。

5か月後のNYでのコンサート当日。
その日の洋子は、別れた息子と遊ぶ貴重な日であった。
息子と元夫が帰り、三谷から渡された蒔野の恩師の追悼CDの封を開ける。

CDの冊子には蒔野の自筆で「あなたの今日の悲しみが明日の出会いによって大切な思い出に変えられます」と書いてあった。
この映画のテーマは「過去も未来によって変えられる」である。確かに、そうである。
マチネの時間が迫っている。
落ち葉の歩道を走る洋子。時間がない。既に演奏会は開演している。

映画の冒頭のシーンは、実は冬物のコートを着た洋子が走っている背中を映すところからである。
そしてこの映画「マチネの終わりに」は、まさにその題名の通り、閉演間際の情景を追い続けながらラストに入っていく。
4年ぶりに再会する蒔野のコンサートのアンコールにやっと間に合った洋子を蒔野は見つけ、最後に「for you」を使い、それは複数のyouではなくただひとりのyou=あなたへ~としてイェルコの名作「幸福の硬貨」のテーマ曲を奏でるのであった。
また、彼はこうも言っていた「演奏会が終わったらセントラルパークの池(ザ・レイク)の辺りでも散歩しようと思っています」

ひと足先に公園のザ・レイクのほとりを散策していた洋子は、ランドマークである「天使ベセスダの噴水」の円形広場でコンサート帰りの観客にサインを書いている蒔野を見つける。(季節柄、噴水の水は出ていなかった)
ベセスダを挟んで歩くひとりずつのふたり。
全てを飲み込み、穏やかに見つめ合い、笑顔で確かめ合うところでラスト暗転、エンドロール。
テーマ曲「幸福の硬貨」がオーケストラの演奏でダイナミックに流れ、大きく余韻を残す。

観客がラストシーンからふたりの未来を想像するのに、最も相応しい最後となっている。
ひとりひとりが、あれこれ思いを巡らし行きつく結論は、それぞれの生きてきた道程から導かれる答なのであろう。

主人公の天才ギタリスト蒔田聡史に福山雅治。パリの通信社で働くジャーナリスト小峰洋子に石田ゆり子。
福山雅治は、あらためてクラシックギターを習ったという。何十年もエレキやアコギを弾いてきたが、楽器も弾き方も全く違うので習得するのにかなりの練習を積んだとのことである。指も容姿も美しいギタリストだった。福山は、原作のイメージそのままに蒔野聡史に成りきっていた。福山は実年齢の50歳を迎えた年に公開だった。
石田ゆり子も悪くはなかったが、原作に近いイメージでハーフ設定なら宮沢りえ、義理の娘設定なら年齢から鈴木京香か。
井川遥や仲間由紀恵の洋子も見たかった私であったが、福山の蒔田を変更しないのであれば、井川や仲間が2歳年上の洋子になるには、少し無理がある。
しかし、これほどまでに原作を逸脱した映画であるならば、内容からしても2歳年上の洋子に拘る必要はないのかもしれない。
誰もが振り向くような華のある美しい人、もちろん知性を備えた自立したバイリンガルの国際ジャーナリスト。それが洋子のイメージなのだから。
キャスティングの想像は楽しかった。
 
※小説での離婚後の洋子の仕事は人権監視のNGOである。

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