ひきこもりと歩んで学んだ事ごと

以下のエッセイというか、原稿は、2018年3月に大阪府高槻市にある<やまと茶坊>のだした本に寄稿したものです。ちょっと古い話となりますが、僕のひきこもりに関わる際の思いの一端を短く著したものなので、読んでいただければ幸いです。まだまだ試行錯誤中の未熟な支援者ではありますが。。。(石川清 2020.1.24)

ひきこもりと歩んで学んだ事ごと

石川清

<“できる”支援者が生まれにくい理由>


 気づいてみたら、ひきこもりの支援に関わり始めてから、もう17、8年の歳月が流れている。10年余り前から、毎年800カ所余り、家庭訪問をしたり、訪問面談を重ねていた。最近、ようやくどのようなケースに対しても、落ち着いて方針や対応をできるようになってきた。

 ちなみに一口に「ひきこもり」と言っても、実に多様だ。

 家から一歩も出ない人、家族とも全く顔を合わせない人もいれば、調子がいい時は学校に行ったり、働いたりしている人もいる。自分から進んで病院や福祉施設を訪ね歩く人もいれば、頑なに一切の支援や助けを求めない人もいる。ひきこもり期間も数年から、長い時は30年以上に達し、そんな長期ひきこもりの数は全国で50万人以上いるとされている。

 ところで、ひきこもり支援の分野は、昔から人材不足が深刻で、ちょっと成果を出すような仕事をしたら、すぐに現場を離れて、マネジメント(管理するポジション)する側にまわることが多い。

 これはひきこもり問題が比較的新しい問題で、専門家があまり存在していないから起きることなのであるが、一方で現場で継続して汗水流して実践に勤しむ人材が育たないという弊害を生んでしまう。当然、ひきこもり問題の解決力の向上には必ずしもつながらない。ひきこもり問題の長期化、高齢化の傾向がなかなかストップせず、50歳の子供を80歳の親が支えるという現象の拡大にもつながっている。

 また、重度のひきこもり当事者の中には、どうしても境界性や依存性のパーソナリティ障害と呼ばれる傾向や気質を強く持つ人などが目立つことがある。精神疾患や発達の歪みを抱えている人も少なくない。

 このため、時々ではあるが、いきおい支援者が当事者に攻撃されたり、中傷されたりすることが昔から起きている。中には亡くなる支援者の人もあったと聞く。こうなると、どうしても支援する側の人材が育ちにくくなる。中には面倒くさい当事者に対する支援を露骨に避ける支援者も出てくる。

 ここまで書くと、例えば一流とされる病院のように「ルールや規則、規制をきちんと整えて、事故や事件が支援現場で起きないようにすることはできるはず」という意見を述べる人もいるだろう。

 しかし、クライアント(当事者)本位のアウトリーチ(訪問支援)路線を維持しようとしたら、どうしても“相手(ひきこもり当事者)”の土俵に上がる必要がでてくる。そもそもアウトリーチとはそういう側面を持つ。

 こちらのルールや規則を押しつけると、なぜか症状や状態の重い人が排除されやすくなってしまうことがある。

 支援する側、ケアする側が一方的に規則やルールを決めて“支配する”“表面的には安全な”世界は見栄えはいいかもしれないが、肝心の問題の“解決力”はあまり育たない。当事者本位に立とうとする限り、それではいけないのではないだろうか。

 僕は別に無理なことを言っているわけではない。

 ストイックになって、利益や収益など考えずに、徒手空拳で努力せよ、という自虐自壊的なことを言うつもりはない。逆に持続的にひきこもりの支援を続けていくためには、それを維持継続するための最低限のコスト意識やシステムの構築は必要だと考えている(ただそれは、行政などの補助金に依存するのではなく、あくまで自己財源を確保して、ひきこもり当事者中心の対応ができるようでないといけない。外部の人に恣意的に利用されないためにも、財源の自立は重要だ。でないと、本当の意味で効果的な支援の実行や継続は難しいからだ)。

 言いたいのは単純なことなのだ。

 目の前の当事者に寄り添うということを実践し続けていくことは何よりも大切で、それを維持継続できるように支援者は工夫しなければならない。とはいえ、ひきこもり支援の現場に身を置いて、これは案外簡単ではない、ことを身にしみながら、今日も試行錯誤を続けている。

 さまざまな多様な支え方が、いろいろなところで実践されますように……。

<ひきこもりのゴールは、人生のゴール>

 ひきこもり支援をマニュアル化することは、けっこう難しい。

 僕の支援は、あくまで当事者本位のため、一人一人に対する手法やペースはかなり異なってくるからだ。そもそも人には個性があって、一人一人異なる性格を持つ。ある人に対して有効な方法であっても、別のひきこもり当事者へはかえって悪影響が出る場合も少なくない。

 とはいえ、おおまかに心がけていることはある。

 第一にどのような家庭や個人でも、“安心感の構築”はとても大切な過程だ。たいていのひきこもりを抱える家族内のバランスは、大きく崩れている。崩れたバランスを取り戻すために、第三者にできることはたくさんある。自然な笑顔が日常的に出続けるようになれば、家庭内の雰囲気は必ず変わる。

 また支援開始当初から実践していることであるが、相変わらずひきこもりの当事者と、国内外へ旅に出かけている。だいたい年間に海外へ10回、国内は沖縄などに20回近く出かけている。実に月に2、3回はどこかへ旅に出ていることになる。かつての「男はつらいよ」の寅さん顔負けのペースかもしれない。

 「かわいい子には旅をさせよ」ということわざは、21世紀の現代でも有効だ。ことにひきこもりの当事者の場合、ひきこもり期間に知識や経験を積む機会や時間をどうしても失ってしまうことが多い。このため、短期間で知識や経験を蓄積することが可能な“密度の高い、楽しい旅”は、とても効果があるのだ。

 例えばインターネットやゲーム、SNSにどっぷり浸かって依存している若者の場合、気づいてみたらネット環境への依存状態から脱し、自然に濃密な人間関係を追体験、追学習できる“旅”は、最上の心理療法に勝る。(だからと言って、一概にネットやゲーム、SNSを「悪」と決めつけることには反対だ。問題は程度やバランスであって、ようは生活に支障が出過ぎるまで時間を費やしたり、課金をしたりしてはいけないというだけの話なのである)

 ここ7、8年、毎年ピースボートという地球一周(約3ヶ月)のクルーズ船上で、グローバルスクールという洋上フリースクールというか、洋上自由空間というか、そんな活動に先生役で関わっている。

 参加者の、特に10代後半から20代前半の若い世代での、成長や変化は特筆すべきものがある。ネットを含めた世の中のあらゆるしがらみから離れ、逆に国籍、人種、性愛、宗教などで多様な人々(しかも一般の世間より優しい人が多い)が作る自由な共同体験の空間は、たしかに人の意識や中身を大きく変えていた。そして、降りる頃には一生の友人を得て、一皮向けた存在に成長している。

 自由で多様な共同体験のできる空間は、前から僕自身、ひきこもり当事者と海外へ旅をする時に、滞在を心がけている場所である。ひきこもりの当事者が、自分だけのそういう居場所を世界のどこかに一つでもつくることができれば、たぶん大きく救われる。

 そうやって豊かで多様な人生をつくっていく過程に意味があり、そこに脱ひきこもりのゴールもあるのではないか。

 僕はそう信じている。(了)

CVN家族教室のご案内(ひきこもり支援についての情報をあげています)

http://blog.livedoor.jp/cvnasaka/

サポートしていただければ幸いです。長期ひきこもりの訪問支援では公的な補助や助成にできるだけ頼らずに活動したいと考えています。サポート資金は若者との交流や治癒活動に使わせてもらいます。