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~壁の向こうにはなにがあるのか~ 石川泰地さんへ【にいやなおゆき さんコラム】

 『巨人の惑星』『じゃ、また。』の二本、ネット試写で見せて頂きました。二本とも面白かったです。しかし珍しいですね、学生時代(?)に撮った『巨人の惑星』と、そのモチーフを変奏発展させた『じゃ、また。』の二本立て劇場公開とは。しかも、二作品とも基本一つの部屋、二人の登場人物の会話劇、見えない筈のものが二人の会話を通して観客にも見えてくる。作家の根本にあるテーマを、連続して劇場のスクリーンで目撃できるというのは貴重な機会です。

 『巨人の惑星』の冒頭に、突然『巨人の星』が出てくるのには笑いました。僕が幼稚園児の頃『巨人の星』(注1)と『巨人の惑星』(注2)のタイトルを同時に新聞のテレビ欄で見た時……片や熱血スポ根アニメ、片や(一年遅れで)始まった海外特撮SFテレビ映画なんですが、幼児の脳内では両者が混ざり合って大混乱が起きていました。『巨人の星』は野球ばっかりやってるのに、『巨人の惑星』は小人のおじさんやお姉さんが鉛筆やマッチ棒で巨大ネズミと戦ったり、子供に捕まって虫かごに入れられたりしてます。どうして『巨人の惑星』に星飛雄馬は出てこないのか? どうして『巨人の星』に巨人は出てこないのか? 幼児には理解できないのでした。

(注1)1966年から「少年マガジン」に連載された野球漫画。1968年よりTVアニメ放映。
(注2)アメリカのSFテレビ映画。巨人の住む惑星に不時着した人々の冒険を描く。日本では1969年から放映。

『巨人の惑星』より

 ……今気づいたんですが『巨人の惑星』の「惑」の字は「判断ができないでまよう。まどう。まどわす。」という意味ですね。半世紀以上経ってオチがつきました。そういえば、当時の新聞のテレビ欄にはラジオ欄もごっちゃで載っていて。いつも見ている『鉄腕アトム』や『魔法使いサリー』や『ウルトラマン』の文字がそこには無く、僕は「これはきっと、大人しか住んでいない町のテレビ番組なんだ」と思っていたのです。当時、母方の伯父さんが大阪に住んでいて、時々帰省して遊んでくれたんですけど。「この番組表は、伯父さんが住んでいる町の番組表だ」「伯父さんは大人だからテレビまんがなんて見ないんだ」、と。
 また、ある日夜中に目を覚まして時計を見たら、真っ暗なのに12:00!これには驚きました(当時の子供……幼児は、夜の8時まで起きてる事なんてまず無かったのです)。次の日「お母ちゃん、昨日の夜、時計が12時になっていた」と恐る恐る聞いてみたら「1日に12時は二回ある」との驚愕の答え。ちょうどお昼の12時で、母親はNHKの朝ドラ『おはなはん』(1966年)のお昼の再放送を見ていた時でした。僕はいったいこの世の中はどうなってるんだろうと足元がぐらつくような気分になったのです。思い出話が長くなってしまいましたが、『巨人の惑星』『じゃ、また。』を見て感じたのは、この幼児の頃の根源的な驚きでした。「哲学的」と言っても良いんだけど、むしろそういう自意識が介在するようなものではなく、もっと幼児的な、ダイレクトに自分の存在がぐらつくような、そんな不安と陶酔。手塚治虫の『赤の他人』や『7日の恐怖』を読んだ時にも感じた、あの目眩のような感覚。

『じゃ、また。』より

 狭い部屋、二人だけの登場人物の会話劇。普通ならつまらない絵面になりそうなのに、全く飽きさせない絵の力には感服しました。自主映画で会話劇になると、作者の独り言を対話形式にしただけの「テニスの壁打ち」状態になる作品が多いのですが、この二作は違います。たぶん作者が壁打ち……壁とキャッチボールしてるのではなく、壁の向こう側とキャッチボールをしようとしてるからだと思います。壁の向こうとキャッチボールなんてできっこないんだけど、壁の向こうに向けて球を投げ続けている。まるで劇中で描かれる人生ゲームのように。あれって本当に終わらないんですよね。人生ゲームと言うけど、実際は対戦相手を蹴落とすことが目的になって行く。しかし、本当のゴールはどこにあるのかというと、それは相手との「勝ち負け」ではないような。つまり、勝利という答えを求めてのキャッチボールではなく、ただ問い続けるためのキャッチボール。いやいや、これはキャッチボールではなく『巨人の星』冒頭で、子供だった星飛雄馬が長屋の壁の穴ボコを通して投げた球を立木で跳ね返し、また壁の穴ボコを通してキャッチする。「壁の向こうの異界との接触」とでもいうべき行為ではないのか(意味がわからない方は、原作冒頭を読まれるか youtube のTMS公式チャンネルで第一話を御覧ください)。そんな事をして誰が誰に勝つのか、得をするのか、幸せになるのか、儲かるのか。もしかしたら、壁の向こうから川上哲治の弾丸ライナーが返ってくるかもしれないのに。ああ、数十年ぶりに『巨人の星』第一話を見直して、ちょっと感動してしまいました。壁越しの運命的な出会い、言葉を介さない決定的な対話、凄いですね。特に弾丸ライナーを受け止めた星一徹が瞬時に投球モーションに入るところが素晴らしい。そういえば『じゃ、また。』で描かれる映画館のスクリーンこそ、異界とコンタクトできる「壁」そのものではないですか。壁の向こうの川上哲治は、飛雄馬の針の穴を通す速球に驚き。また壁のこちらがわの星親子は川上哲治の弾丸ライナーに驚く。交信できるはずもなかった壁越しに、自らの存在を揺るがす両者奇跡の交信が始まり、そこから想像もしなかったドラマが始まる。  そういえばオズマ計画をご存知でしょうか。1960年にアメリカ国立天文台で始まった異星人探査計画です。僕らが子供の頃には「宇宙人を探せ!」の惹句と共に、巨大な電波望遠鏡の写真が子供向けの雑誌に載っていたものです。しかし、オズマといえば『巨人の星』に登場する、アームストロング・オズマ(注 3)でしょう。

(注 3)アームストロング・オズマ 星一徹の特訓で「見えないスイング」を会得し、「打っても打てない」大リーグボール1号を打ち崩す。アニメ版ではベトナム戦争に従軍し重症を負い、選手生命を絶たれ非業の死を遂げる。何万光年もの宇宙の彼方の「見えない宇宙人との交信を試みた」オズマ計画と、「見えないスイングで大リーグボールを打ち崩した」アームストロング・オズマ。超えられない壁を越えようとした両者、なんという附合でしょうか。

 『巨人の惑星』『じゃ、また。』の二本は石川泰地という作家の出発点に過ぎないでしょう。きっと、ここから壁の向こうへの終わらない探索行が始まるのです。しかし、出発点=作者がどこから歩き始めるのか。今回、劇場で若い作家のスタート地点と、壁の向こうの謎を共有できることは観客にとっても貴重な体験と思います。富士山の五合目までバスで行って、そこから頂上を目指すのか。または自分の家から歩いて富士山の麓まで行って、そこから一歩一歩苦労して上り始めるのか。どうも石川さんは自宅を出る前に、履いていく草鞋を綯うあたりから始めそうな気もします……と書いていて、また思い出しました。三十年程前だったか、参加した映画祭の上映作品(当然8ミリフィルム)で、富士登山の作品があったんです。マクロレンズをつけた Z-C1000 の同録で、富士山に生えている植物を観察撮影しつつ、物凄い苦労をしながら道なき道を、麓から一歩一歩登っていく。それはもう感動的 な8ミリ長編ドキュメンタリーで。「凄いなあ、富士登山ってこんなに苦労するんだ」と思っていたら、映画のラストは富士山五合目。やぶをかき分けて、へとへとになってたどり着いた五合目には、バスに乗ってやってきた観光客のおばさんがラメのサンダル履いてちゃらちゃら歩いてたのでした。いやはや、壁の向こうには何があるのか分かりません。

アニメーション作家 にいやなおゆき

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