その言葉の、直接の感触。


これ、投稿した後に気づいたのですが、「裏表紙」でした(!)。

すみません、こちらが表です↓

裏も表っぽいと思いませんか……そういえば、10円玉も、裏も表も表っぽいですよね!(どうでもいい)

今号の私の連載「星占い的思考」のフック(?)は『ブライヅヘッドふたたび』です。

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著者分が届いて、ぱらぱらっとめくっていたら、竹田ダニエルさん『世界と私のAtoZ』のこんな一文が目に飛び込んできました。


ここで大切なのは「セルフケア」「セルフラブ」とは、「自分のことだけをやる」とか、小さな幸せを一生懸命、大切にして、社会問題には声を上げないという日本の保守的な考え方とは全く違うということだ。社会のために闘い続けられるように、そしてより多くの人にケアをとどけられるように、まずは自分を愛する。自分をリスペクトすることと、常識とされている社会規範を疑うことは、一見関係ないようにみえて、根本では深く結びついているのだ。 

この一文から、色々なことが思い浮かびました。

まず想起したのが、飛行機の中の、酸素マスクの訓練のシーンです。飛行機に乗るとすぐに、酸素マスクの使い方を説明されます。その中でいつも「ちいさなお子さんがいる場合、まず保護者がマスクをつけ、それからお子さんに装着してあげて下さい」と言われるのです。真っ先に子供に着けてあげたい! というのが人情ですし、「道徳的で正しい態度」「献身」「自己犠牲」とも理解できます。子供より先に自分がマスクを装着する親を見て、「子供が先だろう!」と怒る他人だっているかもしれません。ですが現実には、まだ子供に着け切れていない状態で自分の意識が失われたら、子を救うどころか、とも倒れになってしまうわけです。心情的な「正しさ」と、現実的理性的「正しさ」は、しばしば、こんなふうに大きく乖離します。

あと、英語を母語とする人々の使う「ラブ」「愛する」という言葉の意味合いは、日本語の「愛する」とはたぶん、かなり異なるのだろうとも感じました。
日本語で「愛する」は、どこか利己的なニオイをはらみます。「自己愛」「あまやかし」「ワガママ」「変化しやすい気持ち」「完全に個人的な感情」「パブリックな場では隠しておくべきもの」「特になくてもいい感情」「依存、執着」「性愛、貪婪」などのニオイがまつわりついているのです。
一方、英語圏での「ラブ」は、「汝、隣人を愛せよ」のような、道徳的なニオイをはらんでいます。「愛する」ことはもっとパブリックで正しいことで、個人的に閉じた感情ではないのです。キリスト教世界での「ラブ」は、他者に対する人間のもっとも「善い」感情であり、おおやけのものなんだろうと思うのです。でも、この言葉の本質的な感触は、私には隔靴掻痒、ダイレクトにはまだ、解らないなと思います。
日本語で「自分を愛せよ」と言われて私たちが感じること、思い描くイメージは、その源流にある「セルフラブ」のイメージとは、「ラブ」の意味合いの感触からいって、かけはなれているのではないか。この一文を読んで、そう思いました。

広く社会に起こっていることと、自分の個人的で積極的な感情を直接結びつけて、さらに外界に向けてそれを「ひらく」こと。そして、それを他者から善として絶対的に肯定してもらえること。たぶんキリスト教世界的な「愛」という言葉は、そういうような感触のものだと思うのです。でも、日本語でそれを表現できる言葉があるかというと、ちょっと思いつきません。「義理と人情」とかはどうかな思ったのですが、この2つは全く別の、ある意味相反する概念です。「義理を立てれば人情が立たぬ」のです。では「仁義」とか「誠意」とかはどうだろう、とも考えましたが、どうも、感情をパブリックなモノとして扱うということ自体が、日本語の世界では否定されているような感じもします。平安文学の「もののあはれ」とかもなんかちがうよな…。

「たくさんの人にケアをとどける」「社会のために闘い続ける」などの価値観は、80年代から90年代の日本で教育を受けた私にとっては「舶来のモノ」です。新鮮で、遠くから来たものの香りをまとい、「それはどういうことか」がまだ自分には本当にはわかっていない、と感じられます。でも、この考え方は今、日本社会にも少しずつ、しみこみつつあるようにも思えます。これらの考え方は、小中学校でくり返し語られるような、ベーシックな倫理観だろうと感じます。
私が子供の頃「辛い理不尽なことはもう全部おしまい、光り輝く自由の未来に君たちは生きていくのだ」と教わったのは大きな大きな欺瞞で、人間はきっと永遠に「社会のために闘い続ける」ことを強いられる生き物なのだ。そういう徒労感とも希望ともつかない気持ちを最近、ひしひしと感じていました。この一文に、それを改めて、自覚させられました。