エイプリルフールと、フロー。
明日は4月1日。私は2005年から2019年まで、ずっとなにかしらエイプリルフールネタをやってきたのだが、この2020年から、やめることにした。
これは、今さっき決めたことではなくて、実は2019年版を撤収したときに考え、ちょっとコメントもしていた。
理由は、2つくらいある。
まず一つ目は、「フェイクニュース」だ。
「ウソの情報」がはびこり、それがすぐには見抜けない。そんな状況が恒常的に広がってしまった。あらかじめウソがばらまかれた世界に「今日だけ特別」のウソを流しても、ちょっと区別がつかない。
もとい、もちろんこれは極論だ。よく作り込まれて、すぐに嘘だと解り、クスッと笑える「コンテンツ」としての「エイプリルフールのネタ」は、多くの人にとって大切な楽しみだ。この特殊状況下では特に、そういう楽しみが望まれているはずで、エイプリルフール自体を否定するつもりは、ぜんぜんない。
ただ単に、私には「すぐウソだとわかるもの」が作れないのだ。「うそぴょーん!」と言うまで、結構信じられてしまうようなネタになりがちだったのである。「テキストだけ」なのも、問題かもしれない。私は画像を作ったりできないので、文字だけになる。それでは、ネタがネタだとわかりにくいのだ。
二つめは、「内輪ウケ」が環境的に難しくなったことだ。
エイプリルフールのネタというのは、どんなものでも、その場のバックグラウンドやコンテキストを共有している人にしか、おもしろくはない。「そんなことあるわけないだろ!」というツッコミができるのは、その世界の文化的な文脈を解っているからだ。ボケがボケになるには、前提の共有が不可欠なのだ。
私がエイプリルフールのネタをやりはじめた2005年頃はまだ、ガラケーすら「全員が持っているわけではない」状態だった。インターネットというものが、今とは全然違っていた。あるWebサイトを継続的に読むということはそれだけで、ひとつの閉じた場に所属しているようなイメージがあった。ゆえに「内輪」が成立したのだ。
しかし、年を追うほどにインターネット利用人口が増え、「場」はどんどん開かれた状態になった。その世界固有の文化みたいなもの、あるいは「コミュニティ感」のようなものは、あまり求められなくなった、と個人的に感じている。「サイトの住人」みたいな雰囲気をまだ維持しているサイトもあるだろうが、少なくとも私のサイトは、そうではなくなった。
たとえばある有名サービスとか製品、強い世界観のあるサイトやコンテンツなど、そこに集まる人がみんな、ある程度濃いバックグラウンドを共有している場ならば、エイプリルフールはぜんぜんOKだろう。
私のところは、たぶん、そうではなくなってしまった。
「内輪受け」が成立しない場でエイプリルフールをやると、当然、問題が起こる。ショックを受けたり、傷ついたりする人が出てくるし、その人たちとあとでコミュニケーションを重ねてフォローするのも難しくなった。これが、2つめの理由だ。
そういうわけで、エイプリルフールをやめることにしたのだった。
楽しみにしてくださった皆様には、申し訳ない(ごめんなさい!!)。
私自身、毎年仕込むのが、(ちょっと大変ではあったけれど)楽しかったので、残念で寂しい気もする。長年続けて来たことをやめるという、独特の辛さもある。
いつかまた、時代が変わり、環境が変わったら、なにかのかたちで「復帰」できたらいいな、と思っている。
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エイプリルフールのハナシは、ここまで。
以下は、最近の思いつきメモである(上の内容とは全然関係ありません)。