表参道日記-4: インタビュー、その1

私がインタビューを苦手としている理由はおそらく、「聞きたいこと」を思いつかないからである。
よく、講義などでさっと手を挙げ、鋭い質問をして「おっ、今のはいい質問だねえ!」などと言われる人を見かけるが、本当に頭がいいのだろうなと思う。
私は、子供の頃から今に至るまで、授業でも面接でも、一切「いい質問」を思いついたことがない。
興味や関心がないのかというと、そんなことはないのである。
むしろ、その場の誰よりも熱心であったりする。
ただとにかく、何も「尋ねたいこと」を思いつかないのだ。

単純に、人と話すのが苦手だ、ということもある。
幼い頃から「口から先に生まれてきた」と言われるほど、無類のおしゃべりなのだが、あるとき「人と話す」というのは、多弁であればよいという分けではないことに気づいた。
それから、なんだか人と話すのが怖くなり、できる限り人と出会わずに仕事ができる環境を作ってきた。

それが、自分から人に「お願いします、私と話をしてください」とお願いしに行くのだから、大変である。
それでも過去に何度か、自分を鍛えるつもりでインタビューに挑んだこともあるが、とても慣れることはできなかった。
今回も、緊張のあまり何度も逡巡し「もうやめてしまおうか」とも思ったけれど、最終的に意を決した。
私は、ギャラリーに村越さんを訪ね、インタビューをさせて頂くことができた。


ギャラリーのはじまり

ギャラリーをする前は、何をされていたんですか、と聞くと、

「主婦よ。単なる、主婦」

と返ってきた。

村越さんが同潤会アパートに住み始めたのは、お子さんが生まれる前のことだった。
10代のとき、明治神宮にある菖蒲園に、スケッチをしに出かけた。そのとき表参道を通り、一目見て同潤会アパートに憧れを抱いた。乙女心に「いつかここに住んでみたいな!」と思い、地図にぐるぐるっと赤く印をつけたのだった。
それから何年か経って、新聞広告に、アパートの一室が売りに出ているのを見つけた。

「お金なんかないのに、こう、革ジャンパーを着て、早速駆けつけて、キープしたの。
売り主は大分の議員さんだった、選挙に敗れて地元に帰ることになって、これを売らなくちゃいけなくなったのね。
義父が持っていた土地を売ってお金を工面してくれて、いくらくらいだか覚えていないけれど高かった、7,80坪に一軒家が建つ位の値段だったとおもうけど、そんなこともよく知らないで、義父にただ『ありがとう』って言ってお金をもらってきて、それで買いました。」

住んでいたのは数年間で、小田原のご主人の実家に住むことになり、移転した後も、人に貸したり、ご主人の仕事でデザイン事務所として使ったりしていた。
村越さんがここでギャラリーをはじめるきっかけとなったのは、フランスへの旅行だった。趣味で、フランス語会話を習っていた。

「銀座でね、こんなふとっちょのフランス人の先生で、6人くらいで丸くなって、レッスンを受けたの。といっても、本当に会話だけよ」

そのフランス語を試してみたいというような気分で、友人と二人で旅に出た。

「イエナの安いホテルに泊まって、昼間は二人別々に歩いたの。そのとき、一人で、ある美術館に行ったのね。その美術館の奥の方に、1つ、部屋があって、そこに一体、ジャコメッティの彫刻があったの」

村越さんが入った部屋の真ん中に、二メートルほどもある、人型の彫刻が置かれていた。
他には何の作品も置かれていなかった。

「そこに夕日がすーっと射し込んで、影が、さあーっと、こう、部屋の中に落ちてたのね。あのとき、あの夕日がなければ、画廊をやっていなかったかもしれない。
本当に、すばらしかった」

夢見るように、村越さんは言った。

人の人生を変える夕日。濃いオレンジ色と、闇のような黒のコントラストが、その光景を見ていない私の眼底に、まぶしく響いた。
おそらくそこに置かれていたのは、ジャコメッティの「歩く男」シリーズの一体であったかと思われる。最もよく知られている、棒のように細い人間のシルエットを捉えたような、ブロンズ像である。

村越さんはこの、心を奪うような一瞬を通して、「あ、ギャラリーやるのもいいかな」と思った、と言った。

「子供が小学校に上がったら、なにかしたい、とは、もともと思ってたのね。
色彩と、生活芸術をちょっと勉強していたけど、専門家というわけじゃなかった。
でも、お友達に『あなた、ギャラリー向いてるんじゃないの?』と言われたりして。
それで、ちょうどこの部屋が空いたから、ここをギャラリーにしました。
でも、最初はギャラリーという感覚ではなくて、ただの『あつまり場所』ね。
うちにあった家具を持ってきて、ちょっと置いたりして。
この近所にいっぱい、子持ちの奥さんがいたから、みんなに声をかけて、ここにあつまってもらって、みんなで話をしようと思ったの。
自分の話をしよう、子供と夫の話はしないで、自分の話をしよう、っていく決まりにして。でも、結局みんな母親を抜けられないのよね。話していると、いつのまにか『うちのなにちゃんはこうで、お隣のなにちゃんはこうなのよ…』なんて、どうしても子供の話になってしまうので、結局、だんだん集まらなくなってしまった。
でも、子供は面白いのよ、みんなでおもちゃを持ってくるから展覧会をしてくれ、って言って、おもちゃの展覧会をしてみたり(笑)
子供って面白いのね、一番面白いと思うわ、奇想天外、というのか、次から次へといろんなことをおもいつくのね!」

アパートの一室を「ギャラリー」にしてから半年ほど経った頃、陶芸家の會田雄亮が山中湖でオープンハウスの集まりを開いた。
そこで、村越さんはロングワンピースを来た女性に声をかけられた。

「あなた、何してらっしゃるの?」

と聞かれ、

「画廊をはじめたばかりです」

と答えると、彼女は

「じゃあ、明日、私の作品を見にいらっしゃいよ」

と言うので、翌日、訪ねて行った。
これが、書家・篠田桃紅との出会いだった。

篠田桃紅は大正二年生まれの書家であり、版画家であり、エッセイストでもある。
40代で日本の美術界を飛び出して渡米し、水墨で抽象画を発表して高い評価を得、その後帰国して、さらに作品を発表しつづけた。

「桃紅の作品を見たら、ショックだった、もう、ほんとうにすばらしかった。」

篠田桃紅は村越さんに、

「私の版画はまだどこも展覧会をやったことがないから、やったら?」

というので、版画作品16点で、個展を行った。
作品は、ソールド・アウト。全て売れた。

「本当にいい展覧会だった。桃紅は書家としては有名だったけど、版画は初めてだったから、どうかなと思ったけれど、空間のとりかたが、さーっと、こう、すばらしくて、見ていると心がすーっとするような作品なのね。」

それから毎年一回ずつ、版画の個展をするようになった。
だが、彼女に「専属になってほしい」と頼まれたときは、断った。

「こう、『とりこ』になってしまうと、外の世界が見えなくなると思ったの。大事にしてもらったけれど、縛られるような気がして、それはいけないと思った」。

ギャラリーを始めてから、村越さんは毎年、パリに行くようになった。
春、表参道のケヤキが緑に色づく頃、東京を出た。
主に、展覧会を見にいくのが目的だった。
自分もいい画廊を作りたくて、パリのめぼしい画廊をたくさん回った。
買い付け、といっても、資金がそれほどあるわけではない。
村越さんはポスターを買って、どんどん日本に送った。

「買えるのは、ポスターくらいなのよ。2Kgくらいまでが安く送れるので、こんな長いチューブ(筒)を買って、ポスターをくるくる巻いて、入れて、毎日のように、日本に送るわけ。
それで日本に帰ったら、ポスター展をやった。
これは、売れたわよー、本当に売れた(笑」

「私は版画が好きで、ポスターもそうなんだけど、薄いじゃない?軽くて。
私はそういうものが好きなんだと思う。身軽なのが好きなのね。
無所属で、自由にやってきた。自由が好きよ、身軽で。」

そう言う、村越さんの口調は、本当に軽やかだった。
だが、どこかしら挑戦的でもあった。自分で自分を決めてきた人の強さのほかに、自分を飲み込もうとするものとの、闘いの匂いがした。


(5につづく)