火星 - 牡羊座と蠍座の星

折しも火星が今、大接近中です。
ピークは7月末ですが、すでにかなり大きく、ギラギラと赤く輝いています。都市部で、肉眼で見上げても、誰の目にも一目瞭然です。
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前回の大接近は2003年でしたが、あの時の大きな火星は、私が「空を見上げる」きっかけとなりました。

というのも、「星占い」は、空の星を見上げなくてもできるのです。
もっといえば、星占いは星の位置の計算技術とともに発達してきました。
星占いをするときには、まずは星の位置を特定するわけですが、その星の位置がいつのものかというと、「占いたいテーマのきっかけとなった時間」「依頼者の生まれた時間」「依頼者が訪れた時間」など、「現在」から見れば、すでに過ぎ去ってしまったタイミングがほとんどです。
つまり、「空を見上げて、目に映った星」の位置が星占いで用いられることは、少なくとも現代においては、おそらく、ほとんどないと言っていいと思います。古代においても、「過去の特別なタイミングの星の位置を計算して占う」のが主流でした。

ゆえに、私は星占いを愛好するようになってからも、しばらくは星を見上げずに楽しんでいたわけですが、あの2003年の真っ赤に輝く火星の印象に、胸を打たれました。毎日のようにホロスコープの上で目にしている火星とは、あの星のことなのか! と、突然気づいたのです。
知識としてアタマに入っていることと、それが人生の一部となって「生きはじめる」こととは、全く別のことです。たとえば、ながいあいだの「ただの知り合い」が突然、あるキッカケを得て「恋人」になる、といったドラマは珍しくありません。私たちのまわりに当然のようにあるものが、突如として胸の中に、自分の一部として降り落ちてくる瞬間を、私たちは密かに待望しながら生きているのかもしれません。
数年後、私は『星をさがす』という本を書き上げました。星占いの観点を踏まえて、空に星を見上げてみよう、という企画の本でした。この本の中に、高村光太郎の「火星が出てゐる」という力強くも美しい詩を引用しました。私の胸に、まさに「火星が出て」いたのでした。

話が大きく逸れました。

火星はギリシャ神話でアレス、ローマ神話ではマルス(マーズ)です。英語では火星はマーズと呼ばれます。火星が支配する星座は、牡羊座と蠍座です。
もとい、現代では、蠍座は冥王星の支配下にあるとされます。
しかし、もともとの星占いの体系ができた数千年前には、まだ冥王星は発見されていませんでした。望遠鏡の発明を経て冥王星が発見されたのは1930年のことです。星占いに組み込まれてから、まだ日が浅いと言えるでしょう。ゆえに、今も蠍座を語る上では、火星の存在は不可欠です。「火星は蠍座の副支配星」などと紹介されることもあります。
たとえば、火星は蠍座の創業者であり、会長職に退いたけれどもいまだに影響力の強い支配者、というようなイメージを、私は密かに抱いています(!)。

火星を解釈する上でよく出てくるキーワードを、以下に羅列してみます。

火、情熱、闘い、大胆さ、負けず嫌い、勢い、競争力、果断さ、スピード、せっかち、怒り、暴力、戦争、傲慢、欲望、追いかけること、決闘、ストイックさ、唐突さ、衝動、リーダー、軍人、将軍、脱出、鉄、刃物、武器、爆発物、危険物の取り扱い、石工、工芸、技術、火や金属を扱う技術者、工学、元不良だった人、支配力、戦士、ヒーロー、主権、血、血気、四つ足の獣、スポーツ、アスリート、ワイン、獣の皮、赤、スパイシーな辛さ、背中、etc,.

見ているだけでもなんだか胸が熱くなってきます。
特に、ぶつかり合うことや闘うことに関係することばが頻出しています。火星といえばなにより「闘いの星」ということになります。

何のために、たたかうのか。

闘い、戦い。たたかいには、どんなものでも、目的があるはずです。
牡羊座も蠍座も、実際、戦いと関係の深い世界なのですが、その戦いの目的がそれぞれ、大きく異なっています。

何のためにたたかうか。
実は、このヒントは対岸の星座に隠されています。
両者の対岸の星座を見てみると、牡羊座の対岸は天秤座です。一方、蠍座の対岸は牡牛座です。
この2星座のペアは、なんだか見覚えがありますね。
そうです、2つとも、この稿の前回のエントリ、「金星の支配下にある星座」なのです。
戦いの星・火星の対岸の世界は、どちらも「愛と平和の星・金星」に支配されているのです。つまり「平和の反対が戦い」です。星占いのシステムは、じつにうまくできています。

牡羊座の対岸の天秤座は、正義の女神アストライアの天秤です。つまり、牡羊座は正義のためにたたかう、ということになります。更にいえば、天秤座は契約の星座であり、公平性の星座であり、名誉の星座でもあります。となると、牡羊座の戦いは、名誉のための戦いや、契約不履行への抗議としての戦いでもあるはずです。

一方、蠍座の対岸の牡牛座は、所有と物質の世界です。豊かさと快美の世界です。つまり、蠍座は「所有と獲得のためにたたかう」世界と言えます。「大切な人を守るため」の戦いは、正義と所有、両者の複合型と考えることもできますが、どちらかといえば後者になるのかもしれません。というのも、私たちは愛する人に向かって「私はあなたのもの」「あなたは私のもの」とささやきかけます。「恋人を持つ」「家族を持つ」「子どもを持つ」など、私たちは大切なものを「持つ」という意識を抱くわけです。

正義が傷つけられたと感じたとき、侮辱されたと感じたとき、私たちは怒りを感じ、闘おうとします。
また、自分の権利が侵害されたり、所有しているものが奪われたりしたとき、私たちは激しく怒り、戦いを決意します。
おそらく、私たちの戦いが「正当である」と認められるのは、大きくいってこの2つのケースに分けられるのではないかと思います。
牡羊座の戦いと、蠍座の戦いには、それぞれ、ちゃんと正当な言い分があるのです。

正義のための戦い。

牡羊座の人々は一般に、正直でストレート、負けず嫌いで行動的、と評されます。純粋で裏表がなく、「竹を割ったような人」という表現もよく用いられます。怒りや焦りを感じることはしばしばあっても、それを後に引きずることはあまりないようです。
牡羊座の人々の「反論力」は突出しています。おかしいと思ったこと、違うと思うことがあれば、即座に、当人に面と向かってただすことができるのです。これは、他に含みがあるとか、嫌みを言いたいとか、相手を出し抜きたい、負かしたいなどの他意があってのことではありません。「違うと思ったらはっきりそう言う」ことができるだけのことです。反論をして、更に反論がかえってきたとき、牡羊座の人々は意外な程冷静にそれを受け止めます。

思うに、これが「正義のための戦い」ということだと思います。確かに自分が論争に勝利することも大事ですが、それ以上に大事なのが「正義」なのです。牡羊座の人々の戦いは、「正しさ」の方向に向かっています。ゆえに、反論に対するさらなる反論に、意固地になったりしないでいられるのです。勝ち負けにこだわる牡羊座の人々なのですが、その「勝ち負け」は必ずしも「自分自身の勝ち負け」だけではないのです。「正しいものが勝つ」ということが、牡羊座の人々の行動の基盤にあるように思われます。

丸く収めよう、和やかな雰囲気を守ろう、波風を立てないようにしよう。このような方針は、牡羊座の世界ではまったく重視されません。それは、必ずしも正しいことではないからです。
もちろん、人を傷つけたり、無闇にぶつかったりすることは、むしろ「正義」に反します。
でも、不当にだれかを押しのけたり、白を黒と言う人をそのままに放置したり、欺瞞の中でただ表面的な和やかさを保ったりするくらいなら、話が違います。欺瞞によって成り立つ調和ならば、それをしっかりぶちこわして、新しい調和のスタートラインに立つ方がずっといい、という思いが、牡羊座の戦いの原点にあるのだろうと思います。

戦いの正義。

牡羊座の「たたかい」のイメージには、もう一つ、特徴があります。それは、戦い自体の公平性・公正さです。牡羊座における「たたかい」は、どこか、一騎打ちや決闘といった、「一対一」性が組み込まれています。正々堂々、フェアに闘おう、というイメージにあふれているのです。

牡羊座-天秤座のラインは、個対個の関係性の世界です。天秤座の「正義の秤、裁判」というテーマも、個としての対立者、個としての調停者というふうに、やはり、人と人とが線的に結ばれている感じがあります。

これが、射手座や山羊座、水瓶座の世界、あるいは蟹座、獅子座、乙女座のような世界になると、「人間集団・社会」という意味合いが濃く含まれるようになります。それに比してみると、牡羊座の世界の「たたかい」には、個としてのたたかい、というイメージが強いのです。

たとえば、誇りのために決闘すると、勝者と敗者が生まれます。一対一の勝負においては、敗者は敗者、勝者は勝者となるだけです。
一方、戦争のような集団同士の戦いでは、敗者は「悪」とされ、戦争裁判のような場で裁かれ、賠償金を課せられます。勝敗がついた後に道徳的な意味づけやある種の不平等が生まれるのが「集団同士の戦い」です。その点、一対一、個対個の勝負では、勝敗の上に畳みかけるようななにごとかは、生じにくいように思われます。
牡羊座の人々が怒りを感じ、それを他者にぶつけて勝負を挑んだ後、驚くほど爽やかに相手の存在を受け入れることができるのは、戦いの意味をあくまで「個」として受け止めているからなのではないかと思います。

所有のための戦い。

蠍座の人々は一般に、洞察力に富み、粘り強く、愛情深く、生命力に富み、情熱的である、といった表現で語られます。それほど「戦い」の匂いはありません。ですがこれらのことばの中には、何か非常に強い意志が感じられます。もっと言えば、「意志を通そう」というエネルギーが感じられます。

生き物が生きていくのは、それ自体がひとつの闘争だと言えるかもしれません。肉食獣が生きるために狩りをしますが、人間も同様に、生きるために様々な戦いをします。私たちは文字通り、日々の糧を「勝ち得る」のです。漫然と座っていて空から食べものが降りてくる、ということはありません。幼い子どもにとってはそれが当たり前と感じられるかもしれませんが、幼児であっても、自分を守り育ててくれる大人がいなくなれば、そこは生きるための戦場と化します。年齢や性別、社会的立場に寄らず、誰もがなんらかのかたちで、この世界と日々闘っているのではないでしょうか。生きるための戦い、生きるために必要なものを手に入れるための戦い、それを他人に奪われないための戦い。蠍座的な戦いは、私たち全ての行きもののまわりで、常に現在進行形なのです。

生きるための戦いには、本来、「客観的な正しさ」という尺度は存在しません。自分がお腹が空いているかどうか、自分がこの栄養分の量で生きのびられるかどうかは、自分自身にしかわからないからです。天秤座の客観的正義は、天秤によって公平さを量ろうとしますが、私たちには例えば、大食らいの人もいれば、小食の人もいます。好き嫌いもありますし、個性の違いがあります。ある人にとっては欠かせないアイテムが、他の人にとっては無価値となることがあります。幸せのための条件は、人によってそれぞれ、大きく違います。愛情もそうで、「だれでもいい」というわけにはいきません。蠍座の世界での戦いは、その正当性を、第三者が量るわけにはいかないのです。

こう書くと、蠍座がいかにも利己的な世界のように思われるかもしれません。でも、実際はその反対です。蠍座の象意には「遺伝、相続、継承」というものが含まれます。蠍座の「生きる」は、愛するものや子孫、守るべきものたちすべてが「生きる」ことなのです。

「正しく与える」ための戦い。

蠍座の世界には、「所有」と同じくらい「与える」というテーマが含まれています。自分ひとりが貪欲に貯め込む世界ではないのです。たとえば、会社経営者が事業を成功させようとして闘い続けるのは、自分自身の成功以上に、社員や家族を「食わせる」ため、というところがあるはずです。蠍座の戦いは、「客観的正義」ではないかもしれませんが、決して「利己的」ではないのです。生きのびるということは、つまり、命を繋いでいくということです。性的なことも、人の死も、すべて「命を繋いでいく」ことに含まれています。命を繋いで行くには、自分の命を相手に引き渡していかねばなりません。仕事をすることも、家族を養うことも、すべて「自分の人生を他者に与えること」だとは言えないでしょうか。蠍座の戦いというのは、命を繋いでいくための戦いであり、いわば「与える戦い」でもあるのです。

蠍座は蟹座同様、固い甲羅を持つ星座です。蟹座の場合は溢れんばかりの感情をその甲羅の中にまもっています。では、蠍座の甲羅は、どんな役割を持っているのでしょうか。
私たちはさまざまなものを所有します。そして、所有するものを、人に分け与えながら生きています。所有しているものはきちんと管理し、与えるべき相手にちゃんと渡せるよう、気を配る必要があります。あちこちに散らかしたり、だれかに取られたりすることがないよう、しっかり守らなければなりません。

たとえば、私たちが「他者に与える行為」の最たるものとして、「性交」があります。性的な行為は非常に厳格に守られなければなりません。これは文字通り、命に関わる「授受」だからです。ふだんはひた隠しに隠しておいて、ごく特別な場合において、官能を与え合うための扉が開かれます。こうした管理を踏みにじることは、重大な犯罪となります。
金銭は、それをただ持っているだけでは、意味を成しません。いつかそれを使うという想定があって初めて、価値を持ちます。つまり、貯金は「いつか他者に与える(交換に用いる)ためのもの」です。蠍の甲羅は、人々が「いつか他者に与えるべくして所有しているもの」のすべてを、かたくまもるためのものなのだと思われるのです。

たとえば、牡羊座的な怒りは比較的短時間で切り替えられますが、蠍座の人々は怒りをずっと心に貯め込むことがある、といわれます。なぜなら、自分自身が忘れてしまえば、戦いは「なかったこと」になってしまうからです。客観的正しさのための戦いなら、他人が共有してくれることもあるでしょうし、記録や記憶に刻まれることもあるでしょう。一方、自分や自分の大切なものたちを生きのびさせるための戦いは、自分ひとりのものです。自分がその戦いを捨てなければ、最終的に、生きのびる道がひらかれます。

燃えるように輝く火星の姿に、私たちは自分の中の、ある種の疼きのようなものを映し見ているのかもしれません。日常生活の中では、諍いや感情表現、競争や暴力、欲望などは、厳密に管理され、隠されています。でも、私たちの中にはいつもそうしたものへの衝動がひそんでいて、意外な瞬間にそれが顔を出すのです。
他人の衝動や暴力や欲望は、よく見えます。でも、自分のなかにあるそれは、なかなか見えにくいもののように思われます。見えませんし、認めがたいことでもあります。
でも、火星的なエネルギーは、私たちが生きていく上で欠かせない力です。ともすれば私たちを飲み込もうとする大自然の脅威と戦い、人間集団の中に必ず生まれる理不尽と戦い、未来まで命を繋げていくために戦う、生命力そのもののようなエネルギーを象徴するのが、火星です。

そのような力を否定している人ほど、かえってこの力に振りまわされているようにも見えます。自分は冷静で、客観的で、あくまで社会的正義に基づいているのだ、と主張しながら、驚くほど簡単に人を傷つけている人をみかけます。
牡羊座と蠍座の人々はその点、自分の中にある火星を、よく知っている傾向があります。我知らず己の火星に振りまわされることなく、むしろ、火星の力を知り、自認し、より望ましいかたちで生きようとする人々なのだと思います。

(次回「木星 - 射手座と魚座の星」は、2018年8月中に更新予定です。)