占いに「どう出会えばいいか」。

説話社さんから、このたび、本を頂いた。

元は1999年に講談社から出ていた本で、今回はさらにジェフリー・コーネリアス博士の講演も収録されている。

私は講談社版で読んでいたが、新しい形での復活は、ほんとにすばらしい。めでたい。クラッカーを鳴らしたい。

星占いに興味がある方、星占いに本格的に取り組んでいる方で本書を未読の方には、「本当に!!ぜひぜひ!」とお勧めしたい一冊である。

あえて黒く強調してみたくらいのお勧め本である。

というのも、星占いと「出会う」ということは、現代の日本に生きる私たちには、とても難しい面があると思っているからだ。

現代社会を生きる私たちは、幼い頃から、自然科学を基本とした教育を受けてきている。つまり、自然科学を基本にした世界観を生きている、ということになる。

しかし「占星術」は、現代的な自然科学の成立よりも、ずっと古くにつくられたシステムなのだ。

元は自然科学と区別されていなかったが、道が分かれてもう久しい。

自然科学的な世界観を持った私たちが、突然「占星術」に触れると、どうなるか。

どうしても無意識に、自然科学的、現代的な世界観の中に、占星術のシステムを「あてはめよう」としてしまうのである。

物事の捉え方の基本が、自然科学的にできあがってしまっているので、そうなるしかないのである。

しかし、ご想像の通り、それはとにかく、はみだしまくる。あてはめきれない。それで、ちんぷんかんぷんになってしまう人も少なくない。あるいは「わけワカラン、これはおもしろくない」となってしまうこともあるようだ。

もとい、自然科学における統計学の手法を使って、占星術が「科学である」ことを立証しようという努力を続けている研究者もいる。ただ、少なくともいまのところ、占星術に統計学的な有意性があるという説は、定説とはなっていない。占星術は(少なくとも今のところ)、科学とはみなされていない。

私自身も、いまのところ、占星術は科学ではないと思っている。しかし、「科学ではないもの」は、この現代社会では、一体何と呼ばれるだろうか。

「インチキ」「オカルト」「詐欺」「こどもだまし」、あるいは「宗教」等と言われることもあるが、この揶揄は真面目な宗教からすると、不当なものと受けとられるだろう。多くの宗教は、占いを否定し、禁じている。

インチキやオカルトや詐欺は、社会的には「悪」である。人は誰も、自分が「悪をなす」ことを望まない。罪を認めた死刑囚でさえ、その手記の中では「自分は本当は悪人ではない」という話をしばしば語る。自分がやったことは正義だと主張する罪人も少なくない。人は、基本的にはみんな、善でありたいのだ。

実際、占いが悪であると攻撃する人もいる。決して少なくない。私はその放送を見ていないが、最近でも、あるテレビ番組が占いを糾弾した、というネットニュースの記事を見かけた。占いの記事を依頼してくださる編集者さんでさえ、ごくナチュラルに「私は占いは信じてないんですが、実は今回、占いのお仕事をお願いしたく…」と語る。

では、社会的には「悪」である占いは、糾弾されて消滅しているかというと、まったくそうではない。多くの人は、「現代的自然科学的世界観」のもとで、心の片隅に罪悪感やうしろめたさ、恥の意識を抱きながら、それに片目をつぶって、占いに親しんでいる。

この「世界観」の違いについて、本書はとてもやさしく、丁寧に、しかし理知的に、そして、溢れるパッションをもって語ってくれる一冊なのだ。本書を読めば、心の片隅にある罪悪感や恥の意識は、あくまで「知的に」解消されていく部分が少なくないはずだ。

また、星占いの「自然科学的な世界観にあてはまらない部分」をどう捉え、どう扱えばいいのか、ということの手掛かりも、たくさん見つかるだろうと思う。長いあいだの根の深い疑問が解消する人もいるだろう。

占いと「どう出会えばいいのか」ということが、本書には温かい血肉をもって語られている。

もちろん「出会い方」は、たくさんあっていい。たったひとつの正解があるというようなものではない。

ただ、たくさんあるなかのひとつであっても、本書のような言わば「占星術の世界へ旅に出るためのガイドブック」は、本当に貴重だと思うし、多くの人の役に立つだろうと想像するのだ。

ジェフリー・コーネリアス博士の講演も、とてもとてもうれしい。私は数年前、博士の著書を一年半くらいかけて辞書を引き引き、必死で読んで、面白い!!と感動したのだが、何しろ私はまったく英語が得意でないので、隔靴掻痒のきわみであった。面白い! …けど、ほんとにわかってんのかなオレ。という不安があったのである。あのもどかしさの一端が、本書ですくなからず解消された。けっこうわかってたんじゃんオレ(感涙)。

英語が得意な方は是非こちらもどうぞ。

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私が初めて鏡リュウジさんにお会いしたのは、20年近く前だと思う。たしか雑誌「東京ウォーカー」の対談が最初だった。

恥ずかしながら当時、私は鏡さんの著作などのお仕事を全く知らなかった。雑誌の占い記事等で名前はお見かけしていたが、それだけだったのである。あとでたくさんのお仕事を知り、自分の無知に恥じ入ったのをおぼえている。

あれから何度も対談や共著などでご一緒させて頂いたが、教えて頂くことばかりで、私は勝手に「ゼミの先生」のように感じている。私のような不勉強な生徒を持った覚えはないと言われそうだが、私にとっては、勝手ながら、本当に「恩師」なのである。

星占いの基本的なシステムをおぼえるだけなら、そう難しいことではない。その段階にあった頃の私には、「星占いを勉強する」という言い方が、どうもぴんとこなかった。

でも、その歴史や、歴史の中から生まれた様々な解釈、時代によって変遷してきた星占いというものの受け入れ方、占星術というものの文化的社会的浸透等々、あのホロスコープという星盤の向こうにある世界は、とてもとても広い。そこには「勉強」しなければ、入っていけない。

その広い世界の存在を教えてくださった恩師が、鏡さんだった。

「そういう世界の広がりがある」ということを教わっても、そこに実際に勉強を重ねて入り込んでいくことは、また別問題である。今のところ、私はほんの入り口付近で怠惰にもがいている状態に過ぎない。

これはとても恥ずかしい話で実は書きたくないのだが、書いてしまおう。鏡さんとの共著、平凡社新書「星占いのしくみ」を書かせて頂いたときに、この「占いはなぜ当たるのですか」をまず読むように言われた。その後私がたたき台として書き上げた原稿は、まるで「占いはなぜ当たるのですか」のコピーのようになってしまい、おしかりを受けたのだった(いや、編集者さん経由でやんわりご指摘いただき、後でお目にかかった時は笑って許していただいた。とてもお気遣いくださったのである。本当に優しい方なのである)。で、かなり書き直した。

もちろん、私には決して、パクろうとかそういうつもりはなかった(共著なわけで、当然本人に見せるのだから、そんなつもりがあろうはずがない)。問題の根幹はもちろん、私の不勉強にある。しかし、言い訳みたいになるが(というか言い訳なのだが(すみません))、強い力を持った本には「引きずられてしまう」ということがあるのではないか。頭をとられてしまうというか、「それ以外には、ない」と感じられてしまうのだ。

昨今では剽窃やパクリの問題がけっこう定期的に持ち上がっている。明らかに意図的な、悪意のものもあるのは事実だろう。しかし、中にはそんなふうに「もう、それしかない」という頭になってしまって、ずるずるアリジゴクに引きずられるように「そうなってしまう」ものも、結構あるのではないかと想像している。言い訳だが(すみません)。とにかく、あの体験はその後の仕事の上で、ずっと役に立っている。

なので私は、この本を読むと、ちょっと心がヒリヒリするのだが、それでもやっぱり、今回読み返してみて、その魅力に圧倒される思いがした。

ちなみに、鏡さんファンの皆さんは、著書の内容の深さは無論のこと、かの文体に魅了されている人も多いだろう。本書はそのあたりのフレッシュな魅力もてんこもりである。

是非。


あと、こちらもお勧め。