12星座の話-その10:蠍座

天秤座の次は、蠍座です。

天秤座のテーマは「自分と人をいったん切り離した上で、そこに、橋を架ける」ことです。これによって、乙女座の段階で補足しきれなかった人々との関わりを、よりたくさん、より確実に結べるようになります。

その「確実さ」とは、たとえば「戦いの勝敗」や「婚姻届」「離婚届」や「ゲームのルール」「六法全書」や「肩書き」や「名刺」などです。

これらは、第三者の目にも、ありありと見えます。
「二人の関係」を第三者から問われたとき、天秤座の世界では、すぐに答えが出せます。
「あの二人は夫婦です」「我々は友人です」「彼は私の部下です」「続柄は親子です」等々、その関係を語るための言葉が、天秤座の世界にはたくさんそろっています。
これを聞いた第三者は、二人の関係をごく単純にイメージし、納得して、安心します。

たとえば。

女性と男性が駅のホームで話をしています。
そばにいて、ふと話が耳に入ってきたとします。
でも、いくら聞き耳を立て続けても、その2人の関係がどんなものなのかよくわかりません。
盗み聞きしている人は、あれこれ想像します。
敬語を使っているかどうか、年齢のつりあいはどうか、服装はどんな様子か、今何時で、このホームは上りか下りか。たくさんのヒントから二人の関係を推理しようとします。
二人の会話は親密なようで、どこかよそよそしいような気もします。複雑なことを話しているようですが、よく聞くと、単なるうわさ話や雑談のようにも聞こえます。
聞けば聞くほど落ち着かなくなり「この2人がどういう関係でいったい何の話をしているのか?」と、気になりすぎて、立ち聞き屋さんは乗るべき電車を取り逃がしてしまいました。

・・・などとというご経験はあるでしょうか。

特にゴシップ好きの人やドラマ好きの人でなくても「隣の人の会話がつい耳に入ってきて気になっちゃった!」という経験、おありの方は多いと思います。

よく話に耳を澄ましていると、その2人がどんな関係で、今どこに向かっているか、何が問題になっているか、どんな生活をしているのか、そんなことがだんだん解ってきます。

解ってくると、私たちは、納得したり安心したりします。
わからない間は、もっと聞きたい、と、耳がダンボになります。

「この2人、こんな関係なのか!」と安心できるのは、天秤座の世界の用語が耳に入ったときです。
逆に、落ち着かないのは、蠍座の世界の言葉だけでその話が進んでいたときです。

蠍座の世界には、人は、2人しかいません。
ときに、一人しかいない場合もあります。
そこでは、他人が解るような言葉は、ほとんど話されることがありません。
つまり、「第三者向けの言葉」が、ないのです。
なぜなら、蠍座は、天秤座の「次」の世界だからです。

天秤座では、ルールを決めて、お互いの距離を定めます。
わたしはここ、あなたはそこ。契約書を交わし、責任範囲を決め、お互いの肩書きを決定します。

そしていざ、実務に入ります。
するととたんに「例外」のオンパレードになります。
さっき交わした契約書にも、仰々しく受け取ったマニュアルにも、完全に該当するケースがどこにも載っていません。

多くの人が、このような経験をしているはずです。

そんなに細かく役割分担をしたら、この曖昧なハンパ仕事は誰がやるの?
いくら本業と関係ない会計ソフトだって、あっちの業界のソフトをウチの業界でそのまま使えるわけがないでしょう!
結婚すれば幸せになれると皆が言うのに、どうもちがう!

「こんなはずじゃなかった」。
天秤座の世界で生きていくと、だんだん心につもってくる言葉が、これです。

どうして「こんなはずじゃない」のでしょう。

国境線を決めて、お互いの地理を分けて、所詮は他人同士、解り合えるはずはないのだからせめてそこにコミュニケーションという橋を架けて、「自分」「固有」を尊重しましょう。これが天秤座の発想です。
それでうまくいくはず、と、関係者全員が合意したのです。

でも。
橋の上を人々が行き来するうち、どうにもうまくいかないことがでてくるのです。

どうせお互いの中には入れない。
他人の気持ちなど絶対に直接触れることはできない。
そうだったはずです。たしかにそうです。
相手の頭の中を開けてのぞくことも、相手の胸を切り開いてその感情に触ることも、不可能です。

不可能なはずなのに。

人と人とを切り分けたとたんになぜか、その不可能の方に、人の心は吸い寄せられます。
そして、その不可能なはずの行為がなぜか、生活の端々で実現してしまっていることに愕然とするのです。

天秤座の次に来る蠍座の世界は、「結婚式の後に来る2人だけの生活」に似ています。すべての結婚式はどんなに趣向を凝らそうと、ある意味「同じ」ですが、二人だけの生活の中で起こることは十人十色千差万別、実に様々です。「夫婦のことは究極には、当人同士にしかわからない」とは良く言われることですが、どんなに言葉で説明してみても、決して説明し得ない何事かがそこに、生じてしまいます。

この「決して説明し得ない何事か」こそが、蠍座の世界のテーマなのです。
結婚だけでなく、こうしたことは生活や人生の随所にあります。使ってみなければ解らない、食べてみなければ解らない、つきあってみなければ解らないこと。さらに、やってみて「解った」としても、それを第三者に解るように説明する方法はないのです。「あなたもやってみれば?」というしかありません。

なぜ「説明し得ない」か。それは、そもそも説明する必要が無いからです。

なぜ説明する必要が無いのでしょう。
それは、お互いが完全に一致するほどに解っていることがあるからです。
融け合ってしまったかのように共有しているもののことだからです。
二人とも同じ思いを抱いたら、もはや、説明する必要はありません。
説明が必要なのは、説明を受ける人間が、「外側」にいるからです。
2人の人間が両方とも、1つの事象の「内側」にいたなら、その事象のことを互いにとやかく説明する必要などありません。同じ景色を見たら、それで十分なのです。

蠍座は、「ふたりが同じ景色を見る」世界です。
この構造は、蟹座と少し似ています。
蟹座と違うのは、蠍座の世界が一度、天秤座の段階で「断絶」を経験している点です。
蠍座での「二人の融合」は、徹底的な断絶の「次」にあるのです。

命がけの、境界線の消え果てた「コミュニケーション」。

人は、野菜や肉を食べます。
野菜や肉は、もともと、植物や動物です。
それらは、生き物です。
モーツァルトを聴かせて育てた野菜は育ちがいい、などという説があるそうですが、そんなふうに、植物とも心を交わせると信じている人もいます。
ベジタリアンだろうが肉食だろうが、人は、他の生き物から命を貰い受けています。
自分の中に「他者」を取り込んでいます。
誰かを殺して、その命を貰い受けます。

恋愛をすると、文字通り気持ちは追いつめられ、死ぬか生きるかの騒ぎになります。
近づいて、身体を重ねれば、相手の身体の一部が自分の中に入ってきてしまいます。

死ねば遺産相続が起こります。
そこでは、その人が人生で生み出し獲得したものの全てが、他の人の手に渡ります。

子供を産むと、お母さんはしばしば、歯が脆くなります。子供にカルシウムをやってしまったのです。

人と人とは、隔てられると、近づきたくなります。
相手の心を、開けてみてみたくなります。
なぜか、相手の持っている最も大事な「命」に手を伸ばしたくなりますし、時に、自分の「命」や自分の大切なものを、だれかに無償で放り出してしまいたくもなります。
贈り物をしたり、お賽銭をしたりします。が、そこには本質的な「見返り」など、一切ありません。

蠍座のテーマとされるのは「性、死、遺伝、相続、破壊と再生、生命力」などです。

これはつまりそういうことなのです。

整然と切りわけられたどこまでも美しい天秤座の世界では、どうにも説明のつかない関わり。日常生活においては慎重に隠蔽された「関わり」。
まさにその「関わり」こそが、生命を生み出します。

蠍座のもうひとつのテーマは「負債」です。
でもこの表現はあまり良いセンスの表現とは思えません。
蠍座の世界のテーマをムリに天秤座の言葉で言い表したような、不器用な言いぐさです。

自分が持っていても命がないものが、相手に手渡したとたんに命を持つ場合があります。
古老が持っている魔法の宝石は、そのままでは何の効力もありませんが、ある日冒険者が現れてそれを借り受けてはじめて、魔法の扉を開くのに役立ちます。
蠍座の世界での「受け渡し」は、ちょうど、そんな調子です。
これを「古老に対する冒険者の負債」と呼べるかどうか。私はそうは思いません。

トールキンの「指輪物語」を原作とした、映画『ロード・オブ・ザ・リング』は大ヒットしました。あの物語について、知人が「みんながほしがるものを一生懸命捨てに行く話」と表現しました。……確かにそうです!
あの話は、蠍座の世界の話だ、と私は考えています。
みんながそれを欲しがるのは、それに強大な力がそなわっているからです。でも、それを手にした瞬間、その「力」は暴走して、人を飲み込んでしまいます。
性的な魅力、お金の力、暴力、権力など、すべて人間の欲しがる「力」は、あの指輪のようなものです。これらの「力」は、他者を支配する力です。私たちはだれもが、自覚するとしないにかかわらず、密かにそれを願っているのです。他人を支配し、自分のものにし、飲み込んでしまいたいのです。

蠍座は、実は、そうした「だれもが欲しがるけれど、手にすればとても危険な力」を扱う世界です。

蠍座の人については「集中力があり、執着が強く、情が濃い、専門家向き、洞察力に富む」などと言われます。

ここまでを読んで下さった方には、その理由が、なんとなくわかって頂けるのではないかと思います。

生命力の源である、死や性などの「受け渡し」は、かくされたものにアクセスする力です。

死や性や遺伝や相続、借金などは、この世界を動かす強い強い原動力であるにもかかわらず、日常生活からは完全に隠されています。
そして、それをちらちらと、あるいは赤裸々に見せる映画やドラマが「うそっこ」として人々に好まれています。
忌避しながら、見えないように隠しながら、人はそれに強烈に惹かれているのです。

それは、悪趣味でもなんでもありません。
人が生きていくための根源的な、ゆえに危険な力が、そこに隠されているからです。

天秤座の「取引」は、ちゃんと度量衡を計算して行われるギブアンドテイクです。
でも、蠍座では、そうではありません。
相手を滅ぼすほどに受け取り、自分を失うほどに与えます。
徹底的に没入し、死んだと思ったような状況から、思いがけなく命を得て新たに再生します。これは、スピリチュアルなことでもオカルトなことでもありません。
排泄物が肥料になり、あらたな植物がすくすく伸びる、ただそれだけの、誰もが経験している、ごくふつうのサイクルです。
でも、それが排泄物だった、ということを、人は見たくもないし、知りたくもないし、忘れていたいのです。そして一方で、時々はそれをそっとチラ見して、匂いも嗅いでみたいのです。
そんな「人が見て見ぬふりをしてやっぱり見たいと思っているなにごとか」が、ちゃんと何らかの形で消化され、組み込まれているような作品や、仕事や、営為や、表現は、人の心を不思議な力で惹きつけて放しません。そこには、命が生まれてしまうからです。

蠍座の世界をどんどん歩いていくと、命の本質に触れて、生きたり死んだりする刺激を味わえます。
でも、その本質に触れていくと、ブラックホールに吸い込まれるか、どこかに密閉されてしまうような苦しさにとりつかれます。全てのことが腐って、再生して、腐っていくのですが「2人の人間しかいない」ような空間に息が切れてくるのです。

この受け渡しは、個別にしか行われ得ません。
自分と相手にしか通用しない言葉だけで話しているとき、その場をいつか耐え難い苦痛の沈黙が襲います。

そこで、また「ジャンプ」が起こります。
蠍座の次、射手座の世界への飛躍です。


(「筋トレ」メールマガジン(2006/11/30号)より、改稿)