表参道日記-3: ギャラリーオーナー・村越さんと、同潤会アパートのこと。


ポスターを買ってから、何度か、ギャラリーを訪れる機会があった。
いつも応対してくれるのは渡部さんであったが、ある日、ギャラリーのオーナーである村越美津子さんにお会いすることができた。
村越さんと渡部さんと、もう一人、お客さんが丸いテーブルを囲んで話し合っているところに、私は行きあった。

奥の展示台に本が何冊か置いてある。
そこに「桃紅」というタイトルの、芥子色の本を見つけて手にとった。
書家で版画家、篠田桃紅のエッセイだった。

大正生まれの破天荒な芸術家が書いた文章は、端的で力強く、きりりと鋭角に引いた黒い眉を思わせた。
私は面白い本を読むと周囲のことが全く気にならなくなってしまうのだが、このときも立ったまま本の中に没入してしまった。
しばらくして、立ち読みを続ける私に「おかけなさいよ」と言ったのが、村越さんだった。
三人で談笑している女性達の中に、私も座らせて頂いた。

「この方が、あの、加藤さんにみすずの本が…っていうお話をした方です」

と渡部さんが言うと、村越さんは

「ああ、貴方がそうなのね」

と私を見た。

私は、村越さんや渡部さんの上品であかるいやりとりを前にして、自分がとても小さくなったような気がした。本当の「大人の女性」を前にして、自分が女子中学生のような、ごく幼い者である気がした。
二人を見ていると、自立するとか、大人になるとか、知性を身につけるとかいうことは、決して、ガツガツガリガリしたものじゃないんだ、と思えた。こんなふうに、音楽のように優雅で自由で軽やかなものなのだと思った。
この「自由」の土台となる強靱さは、今の自分には、ない。

大人の中に不意に交じった子供の緊張感の中、私は何とか会話に交じっていき、幸運にも、この建物にまつわるお話を聞くことができた。

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この表参道ヒルズがある場所には、元々「同潤会アパート」があった。
私が以前、古くてカッコイイと思いながら通り過ぎていた、あの建物だ。
同潤会アパートは、震災にはじまり、震災に終わった。

「同潤会」とは、関東大震災のときに設立された、住宅供給のための組織のことなのだ。同潤会アパートと名前の付く建物は、ここ以外にも、都内にいくつもあった。

先の東日本大震災と同様、関東大震災の時にもたくさんの人が家を失った。
東日本大震災のあとは、すぐに公費で仮設住宅の建設がはじまった。

しかし、関東大震災の時は、違った。
人々は焼け野原に、めいめいに独自のバラックを建てて住んだ。政府もこれを公認し、バラック用の建材を提供したりした。
が、あくまでこれは一時的な建物である。
同潤会アパートは、震災の義援金で本格的に建てられた、震災復興住宅だったのだ。

義援金で建てられた建物、というと、質素で実用第一のような建物だったのかな、と想像してしまう。
でも、同潤会アパートはそうではなかった。
鉄筋コンクリートのアパートは、バウハウスなど西欧建築の流行を取り入れた、まさに「時代の最先端」をゆく姿に設計され、当時の若者達の憧れの的となったのである。当時のニュースでは「たまご色の三階建て、ホテル式のモダンなアパート」と紹介された。単身者用から家族用まで様々の部屋が作られ、江戸川アパートのように女性専用のものもあった。鉄筋コンクリートは火に強く、同潤会アパートは、東京中を焼き払った太平洋戦争の空襲をも生き延びた。

戦争が終わり、時代が下がって、住宅地だった表参道は華やかな繁華街へと変貌した。
それに伴い、居住用だったアパートに、徐々に店舗が入居した。
解体直前、私があの界隈を歩いていた頃まで、ギャラリーやブティックや雑貨屋や美容室などが入り、オシャレで美しい表参道のランドマークとなっていた。

とはいえ、昭和二年に完成したアパートは徐々に老朽化し、再開発の話が何度も浮上した。しかしその度に、ここを住処とする人々の事情や愛情で、話は立ち消えとなった。

そんな折、阪神淡路大震災が起こる。
悲惨な都市の被害を目の当たりにして、人々の意識は大きく変わった。
震災を契機に、同潤会アパートの取り壊しと再開発への動きは初めて、本格化した。

でも、同潤会アパートは、古くなって危ないから、といって、簡単に取り壊していい建物ではなかった。夢や憧れや物語や思い出が詰まっていることもあるが、それ以上に「今も美しい建物」だったのである。
同潤会アパートを愛する人々と再開発を担う建築家・安藤忠雄の間には、何度も交渉がもたれた。

結果、建物は一部「復刻」されることになったのだった。

つまり、この建物は「古い建物が残された」のではなく、「古くからある姿を残すために、新しく作り直した」ものだったのだ。
階段の手すりや各所の部材などは、古いものをそのまま使っている。だから、一見古い建物のように思えるが、実際は、全て取り壊してしまっていたのだ。

村越さんは、同潤会の面影をこの場所になんとかして残そうと努力した、その中心人物だった。交渉が進み、話がまとまり、同潤会アパートがいよいよ取り壊されるというとき、村越さんと渡部さんは、部屋の重たいドアを持ち出して、別の場所に移した。
このドアが、あのガラスのドアの前に置かれたドアだった。
昔のとおりの、同潤会アパートのドアだった。

「ここにギャラリーを開いたのは、私が初めてだったのよ、第一号」。

村越さんは最初、このアパートの一室を購入し、数年間ご夫婦で住んだ。
そのあと、住まいは移転されたけれども、デザイン事務所としてご主人が使ったり、人に貸したりして部屋を使ってきた。
そしてちょうど、息子さんが小学校に上がるころ、ここを借りていた人が他へ移って部屋が空いた。
村越さんは「息子が学校に上がったら、なにかしよう」と決めていた。
そこで、この空き部屋を、ギャラリーにすることにしたのだった。

「最初は、ギャラリーと言うんじゃなくて、集まり場だったの。遊び場ね。うちにあるものを持ってきて並べて、ここで子供と遊んだりしてたの」

その後、たくさんの出会いがあり、幾多のアーティストや、文化人や、お客さん達がここを訪れた。
側にあった本を開いて、渡部さんが言った。

「村越さんは、矢内原さんと宇佐見さんの対談の司会もなさったんですよ」

本は宇佐見英治著「見る人」、みすず書房。
その中の「対談 ジャコメッティについて」の章扉に「司会 村越美津子」と書かれていた。
私は、息をのんだ。
それでは、矢内原伊作はここに来たのだ。そして、この村越さんと、話をしたのだ。

たとえば、ビートルズのファンにとって、ビートルズのメンバーが一度でも訪れた場所は、聖なる場所のように感じられるだろう。ストーンズのファンならストーンズ、プレスリーのファンならプレスリーに、直接会ったという人物に出会ったなら、その人物が特別な人のように感じられると思う。縁日で300円で買った指輪でも、それが片思いの相手がくれたものなら、無限大の値打ちが発生する。
また、逆の現象もある。
たとえば、連続殺人犯が日ごろ着用していたカーディガンが、いくらクリーニングしてあったとしても、それを進んで「羽織りたい」と思う人は、そう多くはない。
人間は、「接触」の中に、なにごとかを感じ取るようにできている。
そこに、連続性を感じるようにできている。

あの、ジャコメッティのモデルをしてあの本を書いた矢内原伊作がここにいて、目の前にいる人が、彼と親しかったのだということを知って、私はほとんど、気が動転した。
私の動揺をよそに、村越さんはその頃のことを何気なくすこし語り、やがて他の画家のことを語り、そのあと、こう言った。

「場所はいつも、女が作るのよね。男の人は、その場所に来るのよね」

場所をつくる。
失われた古いアパート、その場所に今も建つ、古い面影を残した空間。

私は子供の頃から家庭の事情で引越ばかりしていて、「地元」や「帰る場所」を持たないで生きてきたところがある。
「場所」はいつも、駅のホームのようで、通り過ぎるためにあった。
「場所を作る」ということは、自分とは無縁だという気がした。
だからこそ、「場所を作る」とはどういうことなのだろう、と思った。
自分の知らないそのことが、とても気になった。

ここは、どんな場所だったのだろう。
矢内原伊作が来た場所。

ギャラリーを辞去したあとも、私は村越さんやあの場所の記憶の中にある物語が、強烈に、気になった。
この「気になる」は、推理小説の中程まで読んで取り上げられたような「気になる」であり、さらに、高校生が「あの男の子がちょっと、気になるんだよな」と言うときような「気になる」だったかもしれない。
気になって気になって気になって、見つけた宝箱に手をつけずに、みすみすあの表参道の片隅に置きのこしてきたような気がして、とうとう、私は決心した。

自分が一番苦手で、やりたくないことを、やることにしたのである。
私が一番苦手なこと、それは、「インタビュー」だ。


(4につづく)