12星座の話-その4:牡牛座

牡牛座の前は、牡羊座です。
そして、牡牛座の次は、双子座です。

つまり、牡羊座のテーマが最後までめいっぱい歩き尽くされたところで
ぽん!
と飛び移る先が、牡牛座です。
ゆえに、牡羊座が内包している根元的な生命力を、牡牛座は「継承」しています。
その一方で、牡羊座の仕組みから必然的に出てくる問題を、解決しようとする世界でもあります。
どの星座も、前の星座の問題点を解消する、というテーマを担っています。
ですが、物事の中にはかならず、前向きな面とそうではない面があります。
ゆえに、前の星座の問題点を解消する過程で、別の新しい問題が浮上することになります。
この新しい問題を得て、次の星座への飛躍が準備される、ということになります。

牡羊座のしくみは、前回の記事に書いてみました。
魚座の段階で「自分」と「他者」の境界が失われるような、混沌とした真実の空間の中から、突然、流星が飛び出すように「個」が生み出される。時間のない場所から、時間が飛び出してくる。そんな、純粋で新しい「時間の体験」が、牡羊座のテーマでした。

火の星座である牡羊座は、エネルギーそのもののような存在です。
火は、個体としてつかむことはできません。
牡羊座で生まれたむき出しの生命力は、飛び出す勢いが強いため、あちこちにぶつかります。
「むき出しのエネルギー」は熱く美しいため、美や熱を求める色々な存在が近寄ってきますが、そのエネルギーは「むきだし」であるがゆえに、近づくとぶつかってケガをすることもあります。あるいは、エネルギー自体も、むき出しのままでは無軌道にあちこちにぶつかり、やがて減衰してしまいます。
これが、言わば「牡羊座の問題」です。

むき出しの状態で時間のなかに産み落とされたエネルギーは、とても不安定な状態です。
その不安定さに倦み疲れ、力自体が失われてしまうのでは、本末転倒です。

たとえば、ただロウソクに火をつけただけでは、少し風が吹いただけですぐに消えてしまいます。
これを解決するには、「むき出し」を、なにかの器に入れれば良いはずです。
むき出しのロウソクを、ガラスの筒で覆えば、風に吹き消されることはありません。
もっと安定的に、より強い火の力を用いたければ、竈やストーブなどの「うつわ」を用いることもできます。

むき出しのエネルギーを入れておく「うつわ」の世界。
これが、牡牛座の世界です。

牡牛座の記号は、○の上に三日月のようなものがのった形をしています。
この三日月のようなモノは一般に「牡牛の角」と言われますが、上記のごとく
「エネルギーを受け止めるうつわ」
と解釈されることもあるそうです。
牡牛座は、牡羊座の生命力を受けとって活かす「うつわ」なのです。

12星座を人間の生育サイクルになぞらえると、そのスタート地点にある牡羊座は、おぎゃあとうまれた赤ん坊の状態です。
これに続く牡牛座は「五感で自分と世界を認識する段階」にあたります。

自分の右手で自分の左手を触って「これが自分」と感じ、ベビーベッドの枠をさわって「これは自分じゃない」と感じます。そんなふうに、まずは、自分と自分でないものを弁別していきます。

牡羊座の段階では「自分」が中心にありますが「自分でないモノ」にはあまり焦点が当たっていません。その点、牡牛座では「自分」を器でかたどることで、「自分でないモノ」がはっきりしてきます。

こどもはなんでも触りたがり、なんでも口に入れてしまいます。食べられるかどうか、もさることながら、そうやって身体全体のセンサーを使って、世界のあたらしいものごとと「出会っていく」のだろうと思います。牡牛座はまさに、「五感・身体性を通して世界と出会う」星座なのです。


味覚、ニオイ、視覚、触覚。
身体の様々な機能を使って、快・不快にはじまるいろいろな感覚を、自分の中に蓄積していきます。
牡牛座のテーマを教科書で読むと
「感性が豊かで、オイシイものがスキで、美しいモノ、かわいいものがすきで・・」
と、すべて「五感」に関係した要件が並びます。

さらには、「経験」が重要です。
牡牛座は、自らの経験を蓄積し、その蓄積を通して「世界」を認識します。
「うつわ」だからこそ、その中にエネルギーだけでなく、経験や知識、記憶や感情をどんどんため込んでいけるのです。

牡羊座的な「自らは自らである」という生命力そのもののようなエネルギーと、そのエネルギーが必要とする「うつわ」の機能。
この2つを縦糸と横糸のようにして織り上げるところに、牡牛座の世界は成立しています。

牡牛座は単に楽しんでいるのではなく、自らという命が、この世でどのように生きていけるのか、を、最も基本的な「主観」のベースで模索し、実現していく星座です。

サルの社会を研究する「サル学」という分野がありますが、あれは、日本で独自の発達を遂げたという話を聞きました。
欧米では、サルなどの動物は人間とは違っていて、個体識別をすることはなかったそうなのですが(やっても記号程度)、日本の学者は、猿山を研究するとき、サル1体1体に「あだ名」をつけて、その個性を見ながら調べたのです。しっぽの色や身体の大きさなどの特徴から「アカ」とか「デカ」など、いかにも素朴な名前をつけたわけですが、名前をつけたとたん、それぞれの個としての存在感が起ちあがり、互いの関係性もまた、鮮やかに浮かび上がってきます。
その結果、サル社会の構造やシステムみたいなものが、次々と明らかにされたのだということです。(この話はすみません、うろ覚えです(爆)。立花隆「サル学の現在」をご参照下さい)

日本は「牡牛座の国だ」という説を読んだことがあります。
サルの特徴をとらえてあだ名を付ける。これは、すなわち、サルを擬人化して捉えているということです。人間のように見えている、人間になぞらえている、ということです。
自分の身体的な経験を通して、サルの行動を捉えようとするわけです。
これはとても牡牛座的だな、と思います。

「名前」もまた、「うつわ」の一種と言えるかもしれません。
たとえばインターネットでは、匿名のコミュニケーションが行われますが、匿名で対話するときと、実名で対話するときとでは、その人の個性やキャラクターがまったく変わってしまうことがあります。
もちろん、どちらも「その人の一面」なのだと思いますが、私たちは自分を入れる名前や居場所、組織や衣服などの「うつわ」を変えたとき、行動や生き方までが変わってしまうものなのです。
同時に、他者に対しても、あだ名や評価を与えたとき、その捉え方が決まります。
個人としての名前という「うつわ」を与えたら、その相手はもう、サルだろうが、ネコだろうが、立派な「個人」なのです。

「五感の星座・身体性の星座」といっても、牡牛座が知的でないということではありません。
どの星座にも、その星座固有の知性があります。知性の傾向やスタイルはそれぞれ、違っています。
牡牛座は、経験と体感を経て知を蓄積し、その中から叡智を生み出す、という方法を採ります。ですから、牡牛座の人々の語ることには、あつぼったい説得力があります(ただ、少し話が長くなりがちです)。

現代社会では、あらゆる場面で「客観性」を求められます。
人間のやることが細分化し、膨大な関係性の中に「個」の活動が成り立っているために、そうなるのかもしれません。

でも、本来、生き物にとって最も大事な視点は「主観」です。
「主観的」イコール「偏っている」という受け取られ方あるようですが、そもそも主観が最も尊重されるのでなければ、そして、主観が磨き上げられるのでなければ、人間が生きているというそのことは、どこに置かれればよいのでしょう。
この真実を、腹の底から担うことができるのが、牡牛座という星座です。

牡牛座をどんどん歩いていくと、感覚を通した情報がどんどん集まってきます。
快いモノ、不愉快なモノ、冷たいモノ、あたたかいモノ、オイシイモノ、まずいモノ。
美しい風景、愉快な考え方、清らかな心の人、ずるい心の人、暖かい季節、寒い季節、それぞれに必要なもの。
いろいろな感覚を通して、牡牛座の人々は他者に接触し
「自分と同じ生命を持つ存在なのだから、相手も、自分と同じように感じているはずだ」
と考えます。

すると、なにか、もやもやとした不足感が首をもたげます。
物理的な感覚、目の前にあって触れられるモノ。
この世界が、なんだか窮屈に見えてくるのです。
どういうわけだかわからないのですが、目に見えない壁のようなものが感知されます。
「うつわ」の外側の、更に外側に、「なにか」があるような気がするのです。
これが、牡牛座の最後のあたりで感じられる制約です。
牡羊座で個としての生命力がほとばしり、牡牛座でそれを入れる器があらわれて、器を「個」として、つまり「自分」として認識し、自分の身体と外の世界との境界線を確かめたとき、はじめて新しく沸き上がってくる思い。

これがなにか、ということが、今度は双子座のテーマとしてたちあらわれます。

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ちなみに、ここで「○○座の人」といっているのは、その星座に太陽やアセンダントを持っていたり、その星座にたくさんの星が集まっていたり、そのホロスコープのアセンダントルーラーが入っていたり、など、その人を表す重要なポイントがある場合を意味すると考えて下さい。通常の12星座占いは「太陽のある星座」を指しますが、個人のホロスコープでは、私たちがいろいろなかたちでたくさんの「星座」を生きていることがわかるのです。


(「筋トレ」メールマガジン(2006/5/31号)より、加筆改稿)