土星 - 山羊座と水瓶座の星

くっきりとした輪のある、ユニークな姿の土星は、天文ファンには大変人気があります。一方、星占いファンには、土星はあまり人気がありません。なぜなら、土星は「冷たく、暗い星」であり、「制限、宿命、時間の星」とされているからです。冷たさや暗さや制限は、確かに、あまり好まれません。「宿命」ときては、少々怖ろしいような気さえします。占いの世界では、土星を怖れ嫌う人も少なくないように思います。

でも、土星は本当にそんな「悪い星」なのでしょうか。

土星は「サターン」と呼ばれます。ローマ神話の農耕神サトゥルヌスがその名の由来で、ギリシャ神話のクロノスと同一視されています。農耕の神ですから、基本的には、農民を守る有り難い神様だったはずです。クロノスは「時間の神」であり、星占いで用いる7つの星(太陽・月・水星・金星・火星・木星・土星)のうち、最も偉大な星として扱われた時代もあります。
土星はこの7つの星の中で、最も動きが遅い星です。約29年ほどをかけて12星座を一巡します。「ゆっくり動く」ことの印象から、老人や重々しさ、時間そのものと結びつけられた、ということなのかもしれません。

土星を語る上でよく出てくるキーワードを、以下にご紹介しましょう。

厳格、禁欲的、憂鬱、粘り強い、ストイシズム、努力、制限、規則、メランコリー、学問、研究者、探究者、歴史、技術、秘密、老人、老師、忍耐、過去、自らに課すものの大きさ、時間、農夫、庭師、組織、伝統、遺跡、徴税人、評判の高さ、著名人、守護者、庇護者、年齢差、不満足、不動産、管理者、他人の所有物の管理、信頼、責任、義務、鉛、石、脚と膝、腎臓、etc,.

どうでしょうか。「悪い」イメージの理由が多少、おわかり頂けたのではないかと思います。
ここに出てくるものには、どれも、まったく軽々しいところがありません。重々しくて冷たい、といえば確かにそうなのですが、真の価値をもったものたち、とは言えないでしょうか。簡単には手に入らないし、容易には理解できないけれど、でも、人を惹きつけて止まないもの。少なくともここには、人を甘やかして溺れさせるような危険は、ありません。

土星が支配する星座は、山羊座と水瓶座です。この2星座の人々にとって、土星は「自分の星」です。もとい、水瓶座の支配星は現在、天王星とされており、土星は「副支配星」の地位を与えられることが多いようです。天王星が発見されたのは1781年のことで、星占いが生まれたのは紀元前ですから、最初の星占いの体系には、天王星は組み込まれていませんでした。私としては、土星と天王星を同じように、水瓶座の支配星として考えているところがあります。

山羊座と水瓶座の対岸にあるのは、蟹座と獅子座です。蟹座には月が、獅子座には太陽が、それぞれ、支配星として割り当てられています。月と太陽は地球から見上げた全天で、もっとも明るい天体です。一番明るい天体の世界の対岸に、「冷たさ・暗さ」の世界がある。これは、とてもイメージしやすいポラリティです。

星占いが生まれた地球の北半球では、夏は明るく暑い時間、冬は寒く暗い時間です。更に言えば、夏は作物が繁茂する実り多い季節で、冬は夏の間の収穫を計算しながら大切に食べていく、忍耐の季節と言えます。
自然の猛威にも色々なものがありますが、寒さと飢えは、人間にとって最も堪える条件ではないでしょうか。冬は、その悪条件を人間のあらゆる力で乗り越えていかねばならない時期なのです。

人間は自然の猛威に対抗し、自分たちを守り養っていくために、主に2つの方法を用います。
ひとつは、集団を作って、力をあわせて生きることです。
もうひとつは、頭と道具を使って、工夫することです。
前者は、山羊座的な発想と言えます。
後者は、水瓶座的な方向性と言えると思います。
このふたつのテーマを象徴する星が、土星なのです。

一見対照的でありながら、根っこを共有する2星座。

山羊座のイメージが「城」「城塞」なら、水瓶座のイメージは「宇宙船」です。山羊座のイメージが「組織」なら、水瓶座のイメージは「ネットワーク」です。山羊座が「不動産、歴史的遺産」を所有するなら、水瓶座は「人脈、情報力」を財とするかもしれません。
山羊座は過去の世界であり、水瓶座は未来を指向する世界とされ、両者は一見、正反対の世界です。

この2星座が同じ星に支配されている、ということは、矛盾するように思えるかもしれません。
ですが、山羊座が問題にしているのは過去に立ち返ろうとすることではなく、過去から受け継いだものをより力強い形で未来に生きのびさせようとすることです。過去は、未来への材料なのです。
水瓶座が目指す未来もまた、過去の経験という土台の上に成り立っています。新しく高度な技術ほど、「基礎」の強度が問われます。

過去を目指すから未来を見ないのではなく、未来を見るから過去をないがしろにする、ということではないのです。
むしろ、過去を見ようとすればするほど未来への思いが強まり、未来に向かおうとすればするほど、過去が重要になってくるのです。

冬を越える集団、人が集まって守るもの。

山羊座が城塞であり、組織であり、権威の星座である、ということは「人間が集団となって、辛い冬を生きのびる」というテーマに全て繋がっています。

農耕民族はたくさんの人数で広い畑を耕し、みんなでその作物を分け合って、冬のために貯えます。そして、冬のさなかにそれを食いつぶしてしまわないよう、しっかりマネジメントしながら生活していくのです。

だれか一人食いしん坊がいて、貯蔵している食糧を全て食べてしまったら、みんなが冬を越せず、集団が死に絶えてしまいます。そんなことが起こらないよう、きちんと集団でルールを決め、みんなが決め事を守るようにしなければなりません。

こうしたことが、山羊座の土星的な部分、「制限」や「冷却」、「時間」などのテーマと結びついているのだと思います。これらはすべて、人間がこの自然の猛威に対してどう対処できるかという、知恵の名前なのです。

ルールは、一度決めればそれでいい、ということにはなりません。何度も失敗を重ねながら修正し、「これで必ず上手くいく」という決まりを策定できます。様々な経験が無ければ、ルールをみんなが幸せになれるような最適なものにすることはできないのです。時代が変わればルールも変わっていきます。経緯を大切にした上で、ルールは厳格に変更され、運用されなければなりません。山羊座の世界は、こうしたことをしっかり管轄します。

さらに、暖かい冬もあれば、寒さが続く冬もあります。暖房用の燃料を用意するならば、暖かい冬を見込んで少なめに用意するよりは、厳冬を警戒して多目に準備する方が、望ましいはずです。
山羊座ー土星に出てくる「悲観」とは、この「厳しめの見通し」を言うものです。決して、非現実的な消極性を言うものではありません。自他を確かに守るための予測が、山羊座ー土星的「悲観」なのです。

集団には、小食な人も、大食らいの人もいます。全ての人を心から満足させるのは、なかなか難しいことです。ルールは必ずしも、全員を完全に満足させません。たとえば昔の「政略結婚」のように、集団組織を守るためには、個人の幸福が犠牲にされる場合もあります。

山羊座のテーマとして「伝統的な芸術」が挙げられることがあります。民衆に愛され大流行しながら数年後には忘れ去られるような流行音楽がある一方で、何百年も受け継がれて親しまれるような音楽があります。どちらが優れているということではありませんが、少なくとも山羊座的な世界では、「長い時間の風雨に耐え、受け継がれ続ける美しさ・喜び」が大切にされます。はやりすたりの目まぐるしいサイクルの中でもなぜか、生き残ってゆくもの。山羊座の世界では「変わらぬもの」が大切にされます。自然の猛威は無情にも、どんなものでも「風化」させていきますが、山羊座はその風化の威力に、断固として立ち向かおうとする世界だからです。

山羊座の対岸は蟹座、蟹座を支配する星は月です。月は夜空を明るく照らしますが、その光は強くなったり弱くなったり、不安定です。山羊座は、そうした不安定さに対抗すべく、冷たい石でできた堅牢な城の中で、暖炉や蝋燭の炎を「燃やし続けよう」とするような世界といえるかもしれません。
山羊座も蟹座も同じように、「人を守る」役割を担う世界です。蟹座は自分一人の甲羅で、その内側に大切なものを守ろうとします。山羊座はみんなの力を結集させ、みんなを守ろうとするような、ダイナミックな世界なのです。この「みんなの力を結集させて、みんなを守る」ための厳格さ、誠実さ、緻密さ、一貫性は、すべて土星の世界に属しています。

水瓶座-土星的な「自由」とは何か。

水瓶座は自由の星座であり、革新の星座であり、テクノロジーの星座です。山羊座のような「組織」とは全く別の発想で自然の驚異に対抗しようとします。
ここまで「同じ支配星を持つ星座」を2星座ずつご紹介してきましたが、隣り合っているのは山羊座と水瓶座だけです。隣り合う星座同士は、ある問題解決を示します。牡羊座から魚座へと、逆時計回りに連なっている12星座は、星座から星座へとコマを進めるたびに、その直前の星座の「問題解決」をしている、と考えられるのです。

山羊座の世界では、人間が集団となり、組織を作り、経験で培った知恵を継承して自然の猛威に対抗する、という作戦がとられました。
この作戦は非常に有効で、世の中で多く用いられます。
でも、この作戦の中では、個人個人の個性や意向が時々、抑圧されることがあります。前述の「政略結婚」などはその典型で、集団の利害のために個人が犠牲になることは、たとえば現代の会社組織などでも、決してめずらしいことではありません。「人身御供」「詰め腹を切らされる」「トカゲのしっぽ切り」「火中の栗を拾う」「猫に鈴をつけに行く」等々、ビジネスの世界でよく用いられる諺にも、そのことがよく表れています。
山羊座のしくみに含まれるこのような不都合を解消しようとするのが、水瓶座の世界です。

水瓶座は自由と理想を掲げる星座です。
そこでは、人は友情で結ばれあいながら、互いの自由を侵すことがありません。個人が集団の犠牲となることなど、あってはならないのです。
また、継承される知恵を「そのまま」では受け継ぎません。常に何か新しい改良の方法がないか、模索しています。
古いものを守るだけでは、本当に「守る」ことはできない、と水瓶座の人々は考えるのです。

ただ、面白いことに、水瓶座の世界は「完全な個人主義の世界」というのとは、ちょっと違います。むしろ、人間が集団で生きていく、ということは、水瓶座でも大前提なのです。
水瓶座の対岸を見ると、そこは獅子座です。獅子座は太陽に支配された世界で、個人が個人として最も輝く、自己表現と自己主張の世界です。
一方の水瓶座は冬の世界で、人が一人ぼっちでは決して生き抜いていけない、ということを熟知しています。夏の暑い盛りならいざ知らず、厳寒の冬には、人はつながりあい、寄り添いあって生きていくしかありません。

でも、人は集団になると、妙な具合に変わってしまいます。ひとりひとりなら「優しいいいひと」なのに、集団になると突然、傲慢になったり、不思議な興奮に支配されたりします。たとえば、川が増水して橋が壊れたとき、その橋を再建するのに「人柱を立てる」といったことは、人間が集団にならなければ、起こりません。「集団の利益のために個人を犠牲にする」発想は、人がたった一人で生きている状況では、生まれようがありません。「人を犠牲にしてもよい」という、「悪」を含むような合理性がたちあらわれるのは、人間が集団になった時だけです。

水瓶座の世界では、そうした、人間の「集団」の悪癖を客観視しようとします。どんな人間も尊重されるべき「個」であり、そこを抑圧することはできないのです。犠牲を出してはならないのです。これが、水瓶座-獅子座の共有する価値観です。

では、どうすべきなのか。
たとえば、ある川の周辺に耕作に適した土地が広がっていた場合、近くの村々の人々はその土地をできるだけ広く自分たちの領地にしたいと考えるでしょう。そのために村同士がいがみ合い、戦いを続けていくような状況に立ち至ったとします。
水瓶座的な発想に至ると、ここに「灌漑」の可能性を模索し始めるのです。みんなで川を奪い合うのではなく、水路をひいて、いわば「川を増やす」わけです。
技術や工夫、システムの構築などによって、問題を解決し、自然の猛威に対抗しようとする発想とは、たとえばこういうことです。実際、水瓶座の「水瓶」というモチーフは、古代メソポタミアの灌漑技術と関係があるのではないか、という説もあります。
より多くの人々を自然の猛威から守るために、水瓶座の世界ではしばしば、こうした「ハードウェアやソフトウェアによる解決」が模索されます。地球上で大戦争が起こったら宇宙船に乗ってほかの星に移住するのはどうか、といった案は、いかにも水瓶座的です。

現代的には水瓶座の支配星は天王星とされ、天王星は天空神ウラヌスの名を与えられています。ですが、現代の占星術の世界では、これはウラヌスではなく、プロメテウスのほうがふさわしいのではないか、という議論があるようです。プロメテウスは、神々から火を盗んで人間に与えた、とされる神様で、一説には人間自体、プロメテウスの手で作られたともいわれます。「火」とは、テクノロジーであり、テクノロジーを通して与えられる強大なエネルギーです。・・・とまあ、この話はのちほど、天王星の稿で改めて考えてみたいと思います。

土星は孤独な思索の星とされます。水瓶座は自由と自立の世界です。自由と孤独はその意味合いの上では、あまり矛盾はしていません。でも、孤独であることは本当に「自由」なのでしょうか。むしろ、人間は孤独であるときほど、不自由を感じるものではないか、とも思えます。インターネットによるコミュニケーションがこれだけ広まり、多くの人が簡単に「つながる」ことができる世の中なのに、なぜか人々は今、細かく分断され、孤独を深め、常に監視されているかのようにおびえながら暮らしているように見えます。「生きづらさ」という言葉がごく一般的に用いられ、多くの人が寂しさを感じているように思えてなりません。

人は人とともにあると思えるときこそ、本当に「自由」になれるのではないか。そんな気がしてなりません。
水瓶座は自由の星座なのですが、友情の星座であり、ネットワークの星座でもあります。山羊座に対して水瓶座が否定するのは、集団がヒエラルキーとなり、組織が上下関係と権力によって固められるという点です。「人間集団」それ自体にNOと言っているわけではないのです。
たとえば、もともとフラットであるはずの「ママ友」関係に、いつの間にか「ボスママ」が出てきて君臨する、といった現象が起こります。人間は集団になるとなぜか、上下や優劣を決めあって、そこで支配・被支配の関係を作り、格差を広げようとする習性があるようです。このことはある意味、山羊座的です。
水瓶座の世界は、そのことに疑問を呈してゆくのです。人間があくまで寄り添いあいながらも、それが権力関係や支配関係に陥らないためには、どうすればいいのか。水瓶座はそのことを、あくまで土星的に、ストイックに考えていく世界だと言えます。

しばしば、生真面目であることと、リアリストであることは、整合しない場合があります。「理屈ではそうかもしれないけれど、現実はそうはいかないよ」とは、古今、あらゆるシチュエーションでおなじみのセリフです。
でも、土星はその両者を担っています。厳格であり、真面目であり、論理的であること。そして同時に、現実を直視し、決して現実に背を向けないこと。山羊座と水瓶座は、この土星の条件を、それぞれのやり方で展開し、発展させる場だといえるかもしれません。

山羊座の世界ではしばしば、人間をありのままに見つめ、その弱さや泥臭さを否定せずに受け入れる、という態度がとられます。
水瓶座の世界では、青臭い理想論や決して未来をあきらめない夢見る心が守られます。
こうした深いやさしさは、山羊座・水瓶座-土星的な世界が、本質的にはいつも「すべての人々」に向かおうとしていることの表れなのかもしれません。

「集団」と「孤独」という、一見相反するように見えるテーマも、土星という星の本質を考えてゆくと、深い所で交差します。私たちが本当の孤独を感じるのは、どんなときでしょうか。たとえば集団から切り離されたようなとき、自分一人が集団に溶け込めずにいるようなとき、私たちは孤独を感じます。また、「リーダーは孤独だ」「王者の孤独」などと言われます。集団を率いる者は、馴れ合いや同化を避け、一人孤高を保たねばなりません。「孤独」「孤高」は、常に、集団のそばにあります。ただ独りぼっちで遊んでいることと、仲間はずれにされることとは、別のことです。後者の孤独は、人間を深く傷つけます。

土星は、学問的探究や深い思索を扱う星です。「メランコリー」は真に学究的な態度に向かう精神のありかたと言えるかもしれません。自分一人の日々の生活のことだけをみつめるならば、学究も思索もそれほど、必要とは思われません。否、自分一人のことだけを考えている場合でも、学問と思索と哲学が必要になる場合があります。それは、死に向き合った時です。

他者に出会った時。出会った他者と離別したとき。他者でできた集団の中に身を置いた時。集団から離脱した時。死を前にした時。
こんなとき、私たちは「新しい自分」に出会います。自分という個性が決して「自分」というものだけでできてはいないことを悟ります。他者との関係の中で、大きな世の中において、私たちは様々に塑像されます。関わる相手が変わり、身を置く場所が変われば、自分が変わってしまうのです。「自分」とはそれほど当てにならぬ、不確かなものです。他者もまた、そのとおりです。私たちは関係性の中でできている。そのことを悟るカギを象徴するのが、土星という星なのかもしれません。

目の前に見えているこの世界の「向こう側」にある世界、自分以外の人々の人生で埋め尽くされた、この広い世界。そして、そこで様々に変わりゆき、歳を重ね、人生を終える自分自身。
理解不能のように思えるこうした広い広い、深遠のようななにごとかに、どんなに時間をかけてでも向き合おうとする態度こそ、土星的な生き方だといえるのではないでしょうか。

(※ 次回「太陽と月 - 獅子座と蟹座の星」は、2018年10月更新の予定です。)