表参道日記-6: 表参道を歩く人

村越さんは、今は夕方のはやい時間にギャラリーに歩いてやってくる。
表参道はいつも、人で賑わっている。
そのなかには、雑誌やフリーペーパーや、中には卒論をまとめたりするために、たくさんの人がインタビュアーとして立ち、道行く人の声を集めようとしている。

「今は、家から12、3分でここまでこられるから、しょっちゅう表参道でインタビューされるの、写真を撮って、話を聞かせて下さい、って。取材なのね、いろいろな。こないだなんか、5日連続でそうだった。
ある雑誌か何かで、『夫婦で、結婚したばかりのときと、今の写真を並べて掲載させて下さい』という記事があって、それは面白いと思ったから協力したの。
でも、こうやってしょっちゅう声をかけられるのは、どうしてかな、と思うのよ」

私は、「ああ、こういうふうに大人になればいいんだ」と思えるような大人に、なかなか出会えないからじゃないかと思います、と答えた。
ああ、こういうふうに歳を取っていけばいいんだ、と、勇気がわくような人に、なかなか、出会えないからだと思います。

「そう、そう言われるのよ。このあたりでも、高齢の人たちはたくさんいるけど、かならず、集団で動いているのよね。私は単独で歩いていて、そういう人は少ない、と言われるの。
私はいつも、個人として動いているから、歩き方から、いつもしゃんとしようとうとしているから。」

そのあと、村越さんはこう言った。

「今でも、先のことばかり考えているのよね、来年のことばかり、11月の、秋のことばかり考えているの。展覧会も、ちゃんとやりたいの。」

年齢は聞かなかったけれど、村越さんはたぶん、70代をこえているはずである。でも、村越さんは、いわゆる「老人」ではない。

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頑張るとか、夢を持つとか、努力するとか、目標とか。
あるいは、自己実現、成長、縁、等々、私たちは日々、いろいろな抽象的概念に照らして、自分の人生の形をつかもうとする。
でも、ほんとうに、人生ってそういうものでできているんだろうか。

何かを得たいと思い、それを手に入れようと頑張ったとき、目指したものがちゃんと手に入る場合もある。
でも、多くの場合は、「手に入れたい」と思ったものとは、別のものが手に入るしかないんじゃないだろうか。
これをもって「努力が報われなかった」と感じる人もいるだろう。
でも、「努力」って、そんな、自動販売機にお金を入れるようなことなのだろうか。
自動販売機にお金を入れれば、まず間違いなく、欲しいと思ったものが出てくる。お金が足りなければ、出てこないし、お金が十分以上ならば、おつりと一緒に品物が出てくる。
努力と、それへの「報い」とは、コインと自動販売機の品物のような対応関係になっているものなんだろうか。

私は、そうじゃないと思う。
村越さんのお話を聞いていて、村越さんが憧れたり、目指したり、努力したりした部分と、村越さんが「手に入れたもの」のきらめきとは、一対一に対応しているという感じがしなかったのだ。
でも彼女は、間違いなく自分の想いに従って動き続け、情熱を注ぎ続けて来た。

努力すれば、夢が叶う、と言う人もいる。
努力したって報われない人の方が多い、と言う人もいる。
私は、どちらについても、漠然とした違和感を感じていた。
私たちは偶然の出会いをコントロールすることはできない。
でも、動いている限り、いつかはなにかに出会ってしまう。
その「なにか」が、なんなのかは、前もっては、わからない。

村越さんの物語は、冒険物語のようだ、と思った。
冒険者はいつも、何がくるかを予期してはいないのである。
でも、冒険者は、冒険をやめないのである。

Galerie412
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矢内原伊作「ジャコメッティ」

宇佐見英治「見る人」

(終わり)