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藤井光さんに聞く「アメリカ文学の“音”って?」

目利きの翻訳家にテーマをしぼってインタビューする「この翻訳家に聞きたい」。第3回のゲストは、藤井光さん。デニス・ジョンソンの全米図書賞受賞作『煙の樹』、作者(=土星)と登場人物の奇想天外な戦いを描いたサルバドール・プラセンシアの『紙の民』など、次々と話題の本を訳している藤井さんにアメリカ文学についてお話を伺いました。なぜかダメ男の話も!

※2012年10月に掲載された記事の転載です。初出はブックジャパン


藤井光 ふじい・ひかる
1980年大阪生まれ。北海道大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、同志社大学英文学科助教。訳書にデニス・ジョンソン『煙の樹』、ウェルズ・タワー『奪い尽くされ、焼き尽くされ』、サルバドール・プラセンシア『紙の民』、ラウィ・ハージ『デニーロ・ゲーム』、ダニエル・アラルコン『ロスト・シティ・レディオ』、テア・オブレヒト『タイガーズ・ワイフ』、共訳に『クリス・ボルディック選 ゴシック短編小説集』がある。

■夫婦の最初の共同作業はなんと……

――(以下、石井千湖)サルバドール・プラセンシアの『紙の民』は、最初に折り紙外科医が紙の女を創って、それに命が宿って動きだした時点で、もう大好きだと思ったんですよ。

藤井 ガツンと来るプロローグですね。

――そのあと、おねしょが原因で妻に捨てられた男が出てきて、自分の悲しみを上から見ている土星(作者)と戦う。すごく笑えるし、切ない小説ですけど、読みながら「いったいどうやって訳したんだろう?」ってすごく気になりました。3つの視点が1ページに並行して書かれていたり、テキストの一部分が黒く塗りつぶされていたり、つくりが変わっているので。訳すのにどれくらいかかったんでしょう。

藤井 7カ月か8カ月くらいです。訳すこと自体は、そんなに大変じゃなかったんですよ。レイアウトは編集者に任せてしまいましたし、テキストが消されている部分は作者に完全版をもらいましたから。

――実は原書はどうなっているんだろうと思って、読めもしないのに英語のペーパーバックも買ってしまいました。日本版の装幀のほうが素敵だなと思ったのですが。

藤井 プラセンシアは本国で最初に出たハードカバーの次に日本語版の装幀が気に入っているそうです。原書のハードカバー版は、人の名前が消されている部分とか実際にパンチで紙に穴をあけていたりするんですよ。ペーパーバックではそこまで手間がかけられなかったんでしょうね。他にもいろんな言語の訳が出ているんです。僕がプラセンシアからもらったヘブライ語版は、右から左に文字が書かれているので大変そうだなと思いました。

――各国版を見比べてみたくなります。藤井さんは大学で英文学を教えながら、翻訳も手がけていらっしゃるんですよね。学生のころから研究者志望だったんですか?

藤井 いやぁ、何も考えていませんでした(笑)。大阪から北海道の大学に行って、なんとなく四年間過ごして、自分はまっとうな社会生活はできそうにないなと思ったので、そのまま大学院に進学したんです。結局、9年間北海道にいました。
 アメリカ文学を選んだのは、いろんな小説を読んでみて、一番自分に合っているんじゃないかと思ったからですね。どこか落ち着きがないところに惹かれたのかな。完璧に美しいわけじゃなく、ただ単に猥雑なだけでもなく、2つの要素が危なっかしくバランスをとりながら成り立っている文学のような感じがしたんです。
 大学院ではポール・オースターを勉強しました。オースターの詩について論文を書いたときに、柴田元幸先生が査読についてくださったんですね。

――他の大学の先生が論文を審査することもあるんですね。

藤井 論文というのは、提出先の機関が内容を見て、それに合う専門の先生に審査を回すんです。その縁もあって、柴田先生に博士論文も見ていただきました。博士課程を修了したあとは、日本学術振興会の特別研究員になって、東京に引越したんです。学術振興会の助成を受けるためにはどこかの大学に研究員として所属しなければならないので、柴田先生の現代文芸論研究室に受け入れていただきました。学術振興会の採用期間は3年です。最初の1年は東京で生活して、2年目はトロントとロサンゼルスに行って、3年目は日本に戻ってきて京都の大学に就職しました。

――初めて翻訳したのはいつごろですか?

藤井 学部生のころから日本語訳がない小説を読むのが好きで、アメリカのマイナーな文芸誌に載っている短篇を訳したりしていました。大学からだと電子ジャーナルでダウンロードできるんですよね。「これは宝の山だ!」と思って。
 ただ、訳しているときは楽しいんですけど、出来上がったものを読むと失望することも多かったです。……そういえば、妻と一緒に訳したものをまとめて結婚式の引出物にしたこともあります(笑)。

――えっ、それは読みたい(笑)。どんな作品が収録されていたんでしょう。

藤井 一番気合いを入れて訳したのは、ラッセル・ホーバンの『ジンギス・カーンの幻の馬』(※未訳)でした。それ以外では、例えば日本では『地図に仕える者たち』という本が訳されているアンドレア・バレットとか、バリー・ロペスというネイチャーライティング系の作家のものとか。
 妻は日本史の研究者で英語よりも漢文を読むほうが得意なんですけど、面白そうだからやってみようということで、二人でやりました。内容については幸いだれもコメントしないでくれましたけど(笑)、生協で印刷を頼んだり、製本の段取りを打ち合わせするのは楽しかったですね。

■初の訳書は600ページ超の大作

――仕事として最初に翻訳したのは?

藤井 「モンキービジネス」の野球号(vol.1)でジェームズ・T・ファレルの「僕はブラックソックスを覚えている」というエッセイを翻訳させていただいたのが最初ですね。2008年、ちょうどトロントにいたときに刊行されました。僕が日本語でつくったものに、柴田先生が朱を入れてくださいました。
 その次に初めてまるごと1冊訳したのがデニス・ジョンソンの『煙の樹』です。ちょうど白水社の〈エクス・リブリス〉シリーズの第一弾として『ジーザス・サン』が出て、同じタイミングで原書が発表されて全米図書賞もとったんですね。編集者に「どうですか?」と声をかけていただいて引き受けました。もともとデニス・ジョンソンの大ファンでしたし、作品も全部読んでいたので。

――『煙の樹』はベトナム戦争を背景にした群像劇で、600ページを超える大作です。最初の訳書がこれって、かなりヘビーですよね。

藤井 苦労しました。まともな翻訳経験がないからはじめは何をどうすればいいか全然わからなかったし、ジョンソンは典型的な英語を使うんですよ。例えば『デニーロ・ゲーム』のラウィ・ハージはベイルート生まれで英語が母語じゃなくて、もともと外国語で頭に浮かんだものが英語に置き換えられて文章にされているように感じます。その場合、使われている英語に相当する日本語をイメージしやすい。でもジョンソンの英語は、日本語だと何にあたるのかよくわからないものが多くて。それで頭を悩ませて、訳し終わるまでに1年半かかりました。ものすごく鍛えられましたね。

――訳してみてよかったことはありますか?

藤井 作者本人に会えたのはうれしかったですね。ジョンソンがアイダホにある家を一週間開放したことがあって。その期間はだれでも来ていいよという感じで、彼の家の隣のガレージハウスやコテージに泊めてくれるんです。僕は翻訳の相談をしにいったはずが、なぜか丸太小屋を建てる手伝いをすることになったんですけど(笑)。
 そのとき偶然相部屋になったのが"McSweeney's”という文芸誌の編集者でした。で、せっかくだから「今あなたが面白いと思う作家を何人か教えてもらえませんか」と尋ねてみたんです。そうしたら、ウェルズ・タワー、ケリー・リンク、ディヴィッド・ミッチェル、クリス・エイドリアン、ブライアン・エヴンソン、そしてサルバドール・プラセンシアの名前を挙げてくれました。だから次にロサンゼルスに移動したとき、ご当地だと思って、プラセンシアの『紙の民』を読んだんですね。

――他の訳者のかたにお話を伺っても、偶然の出合いって多いみたいですね。

藤井 ずっと自分の好みで選んでいると世界がだんだん狭くなってしまって、予測通りのものにしか出合えなくなります。全然視点が異なる人から薦めてもらうと面白いんですよね。アメリカのAmazonのおすすめも参考にしています。
 知らない作家の本を選ぶときは表紙と作者名とタイトルしか見ません。基本的にジャケ買いです(笑)。文学が好きなので、何を読んでもそれなりに楽しめてしまう。のめりこむものはまた別にあるんですけれども。例えば音楽で最初はよくわからないアルバムでも何度も聴いているとよさがわかってくることってありませんか。本に対してもそういうメンタリティで付き合っているのかもしれません。

■アメリカ文学の「音」とは?

――音楽といえば「文學界」(2011年10月号)に書かれていた「ノイズと無音と無縁の文学」というエッセイが面白かったです。藤井さんが3冊の訳書、『煙の樹』『奪い尽くされ、焼き尽くされ』『紙の民』について、音を切り口に語っている。〈いたるところに猥雑な音がひしめくジョンソンの世界は、アメリカのノイズを最大限引受けることによって成立している〉とか。『煙の樹』は訳者解説でジミ・ヘンドリックスの『エレクトリック・レディランド』にも喩えておられましたね。

藤井 ジョンソンはジミ・ヘンドリックスのギターに影響を受けて書いている、とどこかで発言していましたが、まさにそんな音が文章にあるような気がしたんですよ。原文にそういう音が流れているのか、僕の限定された知識が似たようなものを思い出させているだけなのかわからないのですが。

――ウェルズ・タワーのデビュー短編集『奪い尽くされ、焼き尽くされ』は〈ほとんど無音といっていい〉というのもなるほどなあと。

藤井 例えば思春期の少女のコンプレックスや将来の不安をあぶりだしていく「野性のアメリカ」という短編には、ラジオからジャズが流れる場面があるんですけどね。音が聞こえかけてもぱたっと途絶えるというか、蓋がされてしまって結局ガラス越しに物語を眺めているような、不思議な世界の描かれ方です。

――で、『紙の民』は〈ノイズとも無音とも無縁〉で、プラセンシアいわく〈ザ・スミスの歌のようなものだ〉という。エッセイには出てきませんが、内戦下のベイルートが舞台の『デニーロ・ゲーム』も音楽的だなと思いました。〈一万の砲弾が降り注いだ街で〉というフレーズが繰り返しでてくるところとか。

藤井 作者のラウィ・ハージはたぶん僕が知らないアラブの詩などの伝統に根ざして書いているんだと思います。彼の文章は特殊なところがあるらしくて、編集者と相談しながらちょっとずつ直して完成させたそうなんです。イメージのつなげ方がシュルレアリスティックで、一文で想像が膨らむところも多い。

――藤井さんがこれまで読んだ小説で、音や音楽にまつわる面白い小説というと何がありますか?

藤井 音で思い出すのは、サミュエル・ベケットの『見ちがい言いちがい』とか。晩年の散文なんですけど、たんなる呟きがギリギリのところで鳴っている音みたいな感じがする。ベケットだから、難解で実験的なんですけどね。
 わかりやすいものだと、シャーマン・アレクシーの『リザベーション・ブルース』。ブルースの草分け的存在であるロバート・ジョンソンがネイティブ・アメリカンのリザベーション(居留地)にふらっと現れてギターを置いていく。で、ギターを受け取ったネイティブ・アメリカンの若者たちがバンドを組むという。文章自体にテンポが良くて、ただブルースが流れている、そんな面白い物語です。
 文章そのものが持つ「音楽性」に波長が合うかどうか、が最終的に僕にとっては重要なのかな、という気がしています。でも、その音って何なのかはすごくとらえにくくて、よく分からないけどこの文章ならいつまででも読んでいられる、という感覚としか説明できません。もうちょっと頭が良かったら、もっとうまく説明できるのかもしれませんけど。

――「文學界」のエッセイと「ブルータス」(2012/1/1・15合併号)の本特集の両方で取り上げておられたジェフリー・ユージェニデスの『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』には1970年代のヒット曲がたくさん出てきますね。映画「ヴァージン・スーサイズ」の原作ですけれども。

藤井 すごく好きな作品です。最初に読んだときは純粋にうまいし優れた小説だなと思っただけだったのですが、後々考えると自分にとっての影響は大きかったなと。
 僕のなかでユージェニデスはスティーヴン・ミルハウザーに近い系統なんですよ。1980年代にはリチャード・パワーズやポール・オースターがデビューしたり、ドン・デリーロが精力的に作品を発表していたり、ものすごく大きな視点からアメリカという国を捉え直す作家が出てきたのですが、ミルハウザーだけはそこからちょっと外れて、ノスタルジックなものを追いかけたり、細部を掘り下げたり、異質なものを持っていた。90年代初頭にデビューしたユージェニデスも、大きな話にはいかない。出身はデトロイト近郊ですが、そこからアメリカを論じるわけではありません。
 アメリカの作家の多くには、いつかグレイト・ アメリカン・ノヴェル(偉大なるアメリカ小説)を書くんだという強迫観念があるような気がします。アメリカとは何か自分で問わないと駄目だと思っている節がある。その結果、書くものがものすごく長くなる。
 ユージェニデスの小説はグレイト・ノヴェルだけど、グレイト・アメリカン・ノヴェルではない。彼以降、アメリカン・ノヴェルではない小説を書く作家が活躍し始めたという感じがします。プラセンシアもそうですね。プラセンシアはメキシコ出身ですが、『紙の民』は今までのマイノリティ文学とはちょっとちがう。新しい音が入ってきたなあと。

――今までのマイノリティ文学と何がちがうんでしょう。

藤井 旧世代のマイノリティ文学の場合、書き手が移民なら母国とアメリカの間で葛藤する。二世なら親の国と自分が生まれ育った国のうちどちらの文化を選びとるか、どちらが自分の居場所かといったことが主流のテーマになっていました。でも新しい世代の作家からはあまりそういう問題意識は感じられない。自分のルーツになっている土地を取り上げても、全部幻想的になるんですね。寓話っぽいというか。

――そういう意味では村上春樹さんも近い系統かもしれませんね。日本を舞台にしていてもどこか幻想的。

藤井 彼らは村上春樹さん的な発想は吸収していると思います。プラセンシアは村上春樹の作品は全部読んでいると言っていましたし、『デニーロ・ゲーム』の次に訳した『ロスト・シティ・レディオ』の作者のダニエル・アラルコンとメールのやりとりをしたときも、ちょうど英訳が出たばかりの『1Q84』を読んでいると書いていました。

――新世代のマイノリティ作家は、ルーツを書かなければという観念から自由になったということでしょうか。

藤井 旧世代に束縛があったかどうかはわからないけど、小説に対する新しい見方が出てきたという感じです。けっこう混沌としていますね。ちょっと前はメインストリームの作家と、それほど注目されないマイノリティが分かれていたけど、良い意味で境界線をまたぐ作家が出てきたなと。
 アラルコンはペルー生まれで、3歳のときに家族で渡米して、そのままアメリカで育った人です。『ロスト・シティ・レディオ』は内戦が終わって10年経った架空の国家を舞台にしています。その国はペルーっぽいのですが、なぜ架空になっているかというと、戦争の記憶を消すために地名を全部数字にしてしまったという設定なんですね。昔からの地名を知っている人がだんだんいなくなっているなかで、失踪した人々を探すラジオ番組「ロスト・シティ・レディオ」が立ち上がる。同じような番組が実際にペルーにはあったみたいなんですけれども、「ロスト・シティ・レディオ」を放送しているラジオ局に一七九七という村から行方不明者リストを持った少年がやってくる。そのことをきっかけに番組のパーソナリティの女性のなかにいなくなった夫や戦争についての記憶がぶわーっと甦ってくる。すごく硬派な物語です。
 こうした物語を書くなかで、新世代の作家たちには「母国語」へのこだわりが薄いように感じます。従来であれば、英語か母国語か、どちらで創作するのかという問題は、本人の存在意義にも関わる根本的な問いだったのかもしれません。それがアラルコンになると、「何かを表現したいときに英語のほうが表現の選択肢が多いから、自分は英語で書く」と言うんですね。アイデンティティがどうというよりも、言語が純粋に技術的な問題になっている。そうした感覚は、似た状況にある新人作家たちにも共通しているように感じています。アメリカか母国か、という選択ではなくて、その二つの中間に別の世界を切り開いていくような、そんなメンタリティがあるのかもしれません。

――『ロスト・シティ・レディオ』を音楽に喩えると?

藤井 そうですねえ……。アラルコンのあの世界は、アーニー・ディフランコみたいな感じですかね。アメリカの女性ミュージシャンで、指にテープで固定した爪でギターを演奏するんですよ。激しい音と静寂のコントラストが、すごく緊迫感がある。

――それはぜひ聴いてみたいですね。

■ダメ男の声が一番入り込める

藤井 実はダメ男の話をしようと思って今日はきたんですよ(笑)。

――ダメ男がお好きなんですか(笑)。

藤井 好きですね。『煙の樹』の兵士たちも、『紙の民』に登場する男たちもダメダメな感じでしょう。ああいう人たちが自虐的になったり、かといって自分を変える気もなくダラダラしているところが、僕はありありと想像できるんですよね。同じ人生を経験しているわけではありませんが、訳すときの声として一番入り込めるのがダメ男の語りなんです。
 『紙の民』で土星が元カノと電話しているところがあるでしょう。上段に土星、下段に彼女の台詞が書かれている。あの部分がすごく好きなんです。土星は彼女に裏切られてうじうじ落ち込んでいるんですけど、急に〈ひどい女だ〉と切れる。でも、彼女に〈わたし抜きでこの本をやり直して〉と言われると、文句を言いつつもそのとおりにする。そういう根の弱さも好きですね。僕自身があの立場にいたら、土星とまったく同じ行動に走るだろうと断言できます。
 『奪い尽くされ、焼き尽くされ』の「下り坂」という短編の主人公もダメですよ。こんなところで喧嘩して何になるという場面で喧嘩する。突発的に暴力に走って、叩きのめされて、自分自身を憐れみながら満足するという。
 デニス・ジョンソンが京都に来たとき、初長篇の『エンジェルズ』(※未訳)の一部を彼が朗読してくれました。『煙の樹』にも登場する、人生の坂を転げ落ちていく男が、警察に逮捕されるのを待ちながら単純作業の仕事をしているという、これぞジョンソン的ダメ男が登場する場面だったんですけれど、ジョンソンは朗読を終えてから、声を詰まらせて「俺はこいつが大好きなんだ」と言っていました。僕もそれと似た感覚を、そうした登場人物たちに感じるのかもしれません。

――他にダメ男小説でおすすめのものは?

藤井 うーん、レーモン・クノーの『文体練習』はどうでしょうか。男2人がコートにもうひとつボタンをつけたほうがいいとか、位置はどうするかとか、ものすごくどうでもいいことを話しているところに感情移入してしまいます。
 あとは小説じゃなくて作家ですが、デニス・ジョンソン本人はダメ男ですね。生活能力が皆無で、奥さんが毎日「やるべきことリスト」を渡してくれるんですけど、そのリストをどのポケットに入れたか忘れてしまうとか。

――それはすごいダメ男ですねえ。藤井さんご自身はどうですか?

藤井 僕はもうちょっとしっかりしているかなあという認識なんですけど、自分もそうなっていたかもしれないというのをひしひしと感じます。今まっとうに生きていられるのは妻のおかげです。

――まっとうな社会生活はできないと思っていたとおっしゃっていましたものね。

藤井 文系男子のメンタリティの一番ネガティブなところですね(笑)。世の中に対して大した根拠もなく屈折してしまっているというか。

――これまでの訳書はほとんど藤井さんから持ち込んだ作品なんですよね。

藤井 自分なりに「これはすごくしびれた」と思った小説があったときにお話しすると、編集者が「じゃあそれをやりましょう」と言ってくださるという感じで決まることが多いです。僕は恵まれていると思います。

――藤井さんのアンテナにひっかかるポイントってどこですか?

藤井 訳したくなるのは、視点をひとつに限定しない小説が多いかもしれません。自分に見える世界について語りながら、それ以外の全然ちがう物の見方があるということも自覚しているような。ダメ男が自分の言い分を繰り広げつつ、そんな自分のダメさ加減を笑わずにいられない、というのは、その典型と言えます。

――『煙の樹』以外はみんな本邦初訳の作家のデビュー作ですね。

藤井 そうですね。ついに自分よりも年下の作家の小説も訳してしまいました。テア・オブレヒトの『タイガーズ・ワイフ』です。オブレヒトはユーゴスラビア生まれで、史上最年少の25歳でオレンジ賞を受賞しました。これまた東欧のマジックリアリズムと戦争というテーマが絡んだ面白い小説です。あとはポール・ユーンという韓国系の作家や、ダニエル・ムィーニュディーンというパキスタン系の作家のデビュー作も準備しています。
 初訳でもデビュー作でもないものもあるんですよ。ロレンス・ダレルが晩年に書いた『アヴィニョン五重奏』全5巻(第1巻は河出書房新社より2012年11月13日発売予定)を訳していて、2015年くらいまでには終わる予定です。

――すごい。忙しいでしょうに、お話を伺っていると、とても楽しそうに見えます。

藤井 ええ、幸せです(笑)。どうして翻訳がこんなに好きなのかわかりません。自分がさして優れているとも思わないです。でも、物語を届ける場所の近くにいられることがうれしいんでしょうね。


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