日生劇場「昔の日々」@2014/6/7(土)

夜公演終了後、演出家のルヴォー氏のアフタートークのメモ(ネタバレ注意)。

※あくまでわたしの備忘録のメモです。
ルヴォー氏、通訳された薛さんの言葉のままではありません。
勘違い、記憶違い、意訳もありますのでその点はご了承ください。

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まずは今回の戯曲について。
通常の戯曲は物語が道や場合によっては川のように流れる。
普通は道や川のように、流れを切らないため、筋を通す橋のようなものがある。
が、ピンターの戯曲はこの橋を取ってしまっている。
これは長い時間の物語を、圧縮する方法である。

これは世界を新しい目で見つめるということ。
例えば写実的な絵画がピカソなどのキュビズムになったようなもの。

以前、ルヴォー氏がシェーンベルクのコンサートを聴きに行った時の事例でも話してくれた。
シェーンベルクが12音階を発見する前とした後の曲を休憩前後で両方上演するコンサートがあったそう。
19世紀的な音楽と、馴染みのない新鮮なロマンティックな音楽。
これらは似たような(同じ?)メロディを違った表現で表したように思ったとのこと。

このコンサートを聴いたのはベケットの演出を手伝っていたころ。
ベケットも不思議、わかりにくいと言われるが、19世紀的なものから違う表現に変わったということなのではないか。

現代、今、というものは過去と手を結ぶことで現代たりえた。
過去はてがかり。

新しい表現形式がなぜ必要なのか、産みつづける必要があるのかということは、みなさんの中に答えがあるのではないか?
モノを見慣れるとそのモノを見られなくなる。
慣れてくると注意力がなくなる。

新しい表現は世界の大きさに目覚めること。

そして現在ココにいるということは、稽古場で繰り返し行っていること。
「本当にココに居ますか?」
これは相手の言うことを初めて聴くように耳を傾けていますか?知っている台詞を流して聴いていませんか?ということ。

ここでピンター作「背信」の男女の二行の台詞を例に挙げて説明。

舞台での現在形とはどういうことか。
起きたここと切れない、過去の起こったことが写る窓。
毎秒の個人の歴史。
感情の素。

劇場に人が集まるということは、歴史を祝う美しいこと。

「昔の日々」は書き換えた過去の記憶が現実に追いつく話で、三人の間の何かが壊れた話。
ピンター作品は過去を押し戻そうとする物語だが、最後には現実が追いつく。

最後に、先日観劇した俳優さんの質問から、今回の舞台美術の理由についての説明。

基本、ルヴォー氏のビジュアル的なものは日本の影響を受けている。

今回は能の舞台。
何年か前に京都で能を観た。
30年間旅をした男の物語だったが、能舞台を斜めに10分くらいかけて横切ることで、30年の旅路を表現していた。
そんな想像力が演劇にはある。
過去が奥底から表面に浮かび上がる。
テレビのように簡単には向き合えない。

今回、三人芝居で日生で上演するにあたり、舞台を前に出さないといけないと感じた。
視線、焦点を集中させ、導く必要があるとも感じた。
なので舞台のエッジを光らせ、ググッと集中させる動きのあるオープニングにした。
何かが攻めてくる動き。
そして二幕ではさらに集中させた。

--- ここまで

約20分ということでしたが、ユーモアたっぷりで身振り手振り付き、とてもチャーミングにお話くださいました。
ルヴォーさんのお話を聴かせていただくのは東京芸術劇場のイベント以来二回目ですが、とても聞き取りやすい、わかりやすい説明をされる方だと思います(それでも単語がわからなくて、薛さんがいないと困るんですが(^^;;)。

観劇後に配付された演出ノートでは、ルヴォーさんはこの作品を、女性二人は一人の女性の内面(一人の人の二面性)として捉えたと書いてありました。
わたしは殺してしまった友人になりきった妻と夫なのかなと思って観ていたので、なるほどー!と感じました。
これから買ってきたパンフレットを読んで、作品をもう一度楽しみたいと思います。

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あと、ルヴォーさんがTwitterで流してた写真で、舞台背景が青空のものがありましたが、舞台では灰色の空でした。
初日から照明を変えられたのかしら?

https://twitter.com/davidleveaux/status/475125537854083072

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