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スケープゴート -05-

―自由―

 

 

 数か月後、年も明け、夕海は有能な社会労務士のお陰で障害者年金も支給され、生活保護も継続して貰える生活になっていた。

全てが終わり、夕海はそれから半年は臥せっていた。

 

 全てをやり終えて疲弊しきってしまい、ベッドから起き上がることすら難儀になっていた。転院した病院にも通わなくなり、働きもせず、夕海は寝ては起きての繰り返しの生活を送る。夕海の中では、もう少しだけもう少し、と働くことを先延ばしにしたい思いが沸き上がっていた。今までの数年間、入院も含めて心から落ち着ける空間を手に入れたのだから仕様がないともいえる。むしろ、だからこそ何も考えず何もせずだらしなくベッドに転がっている時間が必要だったのかもしれない。

 そうしてまた半年が経ったころ、夕海はやっと身動きがとれるようになる。一年間薬を断っていた事もあり、今まであった呂律が回らず緩慢だった動きも以前のようになってきているようだ。漸く元の自分に戻れたと夕海は心から嬉しかった。暇な時間を利用し、読書や音楽鑑賞をしたりインターネットで友達を作りチャットや通話をし充実した日々を送れるようになった。夕海としては今まで欲しかったものが手に入ったのだ。

 しかしながら、生活保護という国から支援して貰っている身なので焦りも感じていた。なので、通院を再開することにした。これには理由があった。薬が体内から完全に抜けたと思っていた夕海だが問題があったのだ。それは夜眠れないこと。やっと手に入れた自由な生活の中で何故か眠れない。過去にあった事がフラッシュバックして寝付けないのだ。眠れたかと思えば両親や兄から受けてきた暴力の数々を鮮明に夢に見てしまう。眠れないではなく眠ることに拒否反応が出てしまっているのだ。だから病院へ行き主治医の佐藤に相談しようと考えてのことだ。

「体調はいかがですか?」

主治医から問われる。

「夜眠れなくて、昼夜逆転しているのでデイケアや就労支援に通おうと思っても出来なくて困っています」

「そうですね、荒木さんの場合は、一年程通院をされておらず断薬が自然に出来ている状態なので、まずは眠りに関するお薬を処方しましょう。眠りの他に何か困ったことはありませんか?」

「あとは、常に身体がだるく感じて、何事に対しても意欲が持てません。かろうじて読書などは出来ていますが…」

「荒木さんの場合は、昼夜逆転していることもありますのでその影響かと思われますが、少し元気が出るお薬をお出しした方が良いかもしれませんね」

 主治医はそう言い、処方箋を電子カルテに入力していく。主治医の佐藤はみだりに向精神薬や抗うつ剤を処方をしない。それに加えて、患者である夕海の言葉に耳を傾けて話を聞いてくれる医者だった。藤崎とは正反対のタイプ。なんとなく夕海は、このお医者さんは信頼出来るかもしれない。そう思っていた。

 

 こうして、定期的に通院を重ね、昼夜逆転した生活も薬のお陰か朝起きて夜寝るというサイクルに戻すことが出来た。それでもまだ、夕海は完全に復調しているとは言い切れなかった。数か月の入院生活と一年にも渡る怠惰な生活で体力が著しく低下していたのだ。当初夕海はすぐに良くなって働いて、生活保護からも脱することが出来ると思っていたが、実際にはそう簡単なものではない。

 

 そんな中、夕海はデイケアに通うことにした。デイケアとは、日中を病院内にある施設で過ごしOTのように色々な作業やレクリエーションをするというものであった。毎朝九時には到着し、夕方五時まで過ごす。デイに通ってくる人は精神科病棟から退院した外来患者が多い。患者同士のトラブルも多かったりするのだが、夕海は年配の男性に囲まれて麻雀をしたりして、そういう争いには出来る限り関わらないようにしてきた。そんな生活も一年を続けていると自然と体力も戻ってきた。入院前と同然かと言われたらそうだとは言えないが、自由な生活を楽しめる程度には回復していた。

 

 しかし、自由を手に入れてから夕海は自分のやりたい事が見い出せないでいた。今までは家族から隠れるように生活し、アルバイトをしていたが今思えばなんであんなに必死だったのだろうかと思う。そりゃあ、食事は摂りたいし、アルバイト先のロス弁当がなければ夕海は食べるものがなかったから仕様がなかったのだが、今考えると食事のために働いていた自分に愕然とした。私には生きる目的がないのではないか?そう、気づいてしまったのだ。一般的に、夕海くらいの年齢の女性は男性とお付き合いをしたり、お洒落をしたり、趣味に娯楽に浪費して生きているのに夕海にはそれがなかった。というより、そういった願望を持つことすら許されなかった。

 自由とはなんだろう…。そう考えながら夕海は今までの自分の人生が酷くつまらないものに思えてきた。今まで得られなかったものをこれから享受することが出来るだろうか?自問自答をするも、夕海には何の欲望も沸き上がってこなかった。

 

 突然、転機は訪れた。ある通院日、夕海は主治医に現状を報告し、いつもの通り診察を受けていた。そんな中で主治医が言い始めた。

「荒木さん、最近は調子も良いようですしデイにも休まず通われているようなので経過は良いと思います。そろそろ社会に出てみてはいかがでしょう?フルタイムとは言いません。週に二・三日から、短時間の軽作業でもされてはどうですか?私は今の荒木さんにはそれが出来ると思います」

「また働けるんですか…?」

「はい、急に沢山の事をするのではなく、徐々にという意味ですけれども」

「そう…ですか…。そうですね、わかりました。何か探してみます」

 その日の診察はそれで終わり。主治医からは徐々にでもいいので働いてみよと言われた。夕海は正直、今の自分に働くことが出来るのか不安で一杯であったが、このままデイに通い続ける生活よりかは幾分か刺激にもなるし良いのではないかと考えた。そうなると職探しだ。夕海としては、障害者枠で働くことはどうしてもしたくないので、それを隠して働けるところ、職場の人間に詮索されにくく、人付き合いもしなくて良さそうなところを探すことにした。

 

 

 

―出会い―

 

 

 診察日から三ヵ月経過した。働くように勧められた夕海は、週に三日、一日四時間のアルバイトをすることにした。丁度良い条件の働き先も見つかり、なんとかかんとか雇って貰えた。仕事は物流センターのピッキング。午前二時間、昼休憩を挟んで午後二時間の勤務。一人でカートを押し、必要な物品を集めて箱に詰めるという作業。単純かつ、他人と関わりを持つのも最低限な環境で夕海は社会復帰した。

 働き始めると不思議なもので、社会に属している安心感が得られる。今まではデイに通っていても遊んでいたようなもので毎日が休日という気分だったが、今はその休日がとても嬉しく感じる。ゆっくり過ごし、好きな音楽を聴き、本を読む。だるい日は一日中ベッドの上でゴロゴロしているのもいい。悪くない生活を送っていた。

 

 夕海がアルバイトを始めて半年。いつも通り時は流れ、作業をし仕事を終えて帰ろうとした時、前を歩く男性が財布を落とした。

「あ、あの!財布落としましたよ!」

財布の持ち主である男性は振り返り、夕海が拾って差し出した財布を受け取った。

「ありがとう、本当に助かったよ」

そう言って立ち去って行った男性。夕海はその時の男性の顔をみてまつ毛の長い人だなぁと思いつつ、家路についた。

 

 その三日後、仕事終わりの夕海は後ろから突然声を掛けられた。

「お姉さーん!」

夕海は誰かを呼んでいる声が聞こえるなあと思いながら、そのままスタスタと歩いていた。

「ねーそこの君ーーー!」

しつこくまだ男性の声がしているので何事かと思い振り返ると、その男性は夕海の事を見ていた。

「…なんですか?」

 無言で男性が缶コーヒーを夕海に投げて寄越す。ふいに投げられた夕海だが、なんとかキャッチする。

「この間のお礼」

 男性は一言行って去って行った。

 夕海はお礼と言われても何のことかわからなかったが、男性の長いまつ毛が印象的だったので三日前の男性だと思い出した。変な人。そう思いながらも缶コーヒーは持ち帰った。

 

 家に着いてから夕海は缶コーヒーを飲んだ。凄く甘い缶コーヒー。砂糖がたっぷり入っている。その甘さと共に男性の事を思った。面倒くさい人付き合いはまっぴらごめんな夕海だが、男性の言動は好ましく思えた。何故だろう。良くわからないので、早々に寝ることにした。

 

 

 

* * *

 

 

「荒木さんていうんだっけ?何歳?」

 ある日の退勤時に声を掛けられた。まつ毛の長いあの男性だ。

「なんで私の名前を知ってるんですか?」

 怪訝な表情で夕海が問う。

「え、だって、作業始めには自分の名前と開始することを大きな声で言うじゃない」

 そうなのだ、ピッキングの際、新しく荷物を集める際には名前と入りますと言う決まりはある。確かにそうなのだが、夕海はこのまつ毛の長い男性とは倉庫内では会った事がない。

「でも、あなたはピッキングしていないですよね」

「ああ、俺、一応社員だし、結構倉庫内ウロウロしてるんだよね。君はピッキングしてるから見えてないかもしれないけど」

「そうなんですね。で、その社員さんが私の名前を知っているのは分かりました。でも、なんで私の年齢が気になるんですか?」

「わかんない?」

「は?なにがですか?」

「この間財布拾ってもらった時から可愛いと思ってたんだよ。んで、興味を持ったって訳」

「私は興味ないんで、それじゃ、お疲れ様でした」

 そう言い、夕海は踵を返し歩き進める。すると男性は走って夕海を追い越して夕海の前に回り込んできた。

「ねぇ、一回だけで良いからお茶でもどう?もしよかったら食事とか…」

 しつこいなあ。そう夕海は思っていたが男性は続けざまに言う。

「俺の名前は綿谷栄!歳は二十四歳!もちろんフリーです!」

「そんなこと聞いてません。それより退いてください」

「ああっ!そんな!せめてお姉さんの名前と年齢を教えてよ!」

「荒木夕海。二十六歳」

 面倒くさいので夕海は口早に答えた。そうしてぐいっと目の前にいる男性、綿谷栄を押しのけて歩き出す。

後ろで綿谷が何かを言っているようだが、夕海は無視して歩き続けた。

 

 帰宅した夕海は、それにしてもなんなんだろうあの男は…と思った。財布を拾ってあげただけであそこまで盛り上がることができるものなのか?というか、興味があるってそういうことだよな…夕海は鬱陶しさも感じつつ、男性に言い寄られた事実に関しては悪い気はしなかった。やはり夕海も女性なのである。しかしながら、半ば強引なガツガツ言い寄ってくる肉食系。戸惑いは隠せない。よく考えてみたら夕海は今まで恋愛などしたことがない。そんな暇もなければ余裕もなかったというのが正しいのだが。綿谷栄。缶コーヒーをくれた時は好ましく思っていたが、蓋を開けてみたらとんでもない男だったのだ。

 

 

―喫煙所―

 

 

 その日の夕海は体調が芳しくなかった。いつもならテキパキとピッキング作業をこなしているが今日はどうもそうもいかない。作業能率も普段より格段と落ちている。でも忘れてはいけない、夕海は今でも精神科に通院しながら週三日で働いている身である。普段から薬を飲みながら肉体労働をしているので体調が優れずどうしようもない日もある。

 昼休みになり、夕海は食欲がないので何も摂らず喫煙所へ行った。意外なことに夕海は今まで喫煙所には行ったことがなかった。なぜならば、喫煙所という場所は煙草を吸うという目的と合わせて喫煙者同士のコミュニケーションの場になりうるからだ。職場の人間との人間関係で面倒なことになりたくなかったので、今まで夕海は職場で煙草を吸ったことがなかったのだ。

 少し貧血気味なのか、真っ直ぐ立っていることも難しい状態だったので喫煙所の角で壁にもたれ掛かりつつ煙草を吸っていた。一吸いする毎に気分はマシになっていく気がしていた夕海だが、煙草で体調が良くなる訳でもなく気だるげに佇んでいた。すると遠くからドスドスとけたたましい音が近づいて来た。

 

バン!!

 

 喫煙所のドアが開かれ、誰かが入ってきた。入ってきたのはそう、あの男、綿谷栄だった。綿谷はハァハァと息を切らしながら突然やってきたのであった。

「偶然だね、こんな所で会うなんて!!」

「…………」

 夕海は何も答えず、黙って煙草を吸い続ける。今はそれどころじゃないのだ。体調が悪くて誰かと話をする余裕もなくなっている。そんな夕海の反応を気にせず綿谷はいつもと様子の違う夕海に気付き声を掛ける。

「荒木さん、今日何だか元気がないね。体調でも悪いのかい?もしそうなら、医務室があるからそこで休むと良いよ」

綿谷はそう呼びかけるが夕海は何も答えない。いや、答えられないのだ。そうしていると、夕海の意識はそこで突然途絶えた。

「荒木さんっ!?」

 夕海の意識が途絶える寸前で、綿谷の叫び声が聞こえた気がした。

 目を覚ますと、夕海はベッドに横になっていた。傍らには何故か綿谷が寄り添っている。一体何が起こったのだろう。夕海は状況を把握するため身体を起こす。辺りを見まわしてみると、部屋にはベッドが三台程置いてあり、その中にある一台のベッドに夕海はいるということだ。なんとなく状況が分かってきた。ここはおそらく職場の医務室で、どうやら夕海は自分が倒れてしまったらしいということを。

「荒木さん、大丈夫?気分はどう?」

綿谷が心配そうに顔を覗き込んでくる。

「私、倒れてしまったんですね。どうやらここへも運んで頂いたみたいで…ご面倒お掛けして申し訳ありませんでした」

「そんなことより、身体の心配をしなよ。別に君をここに運ぶのも大した問題でもない。ただ、体調が悪いなら無理せず休んで欲しい」

「すみません、こんなことになってしまって」

「謝る必要はないよ。人間なんだから体調が悪いときもあれば、倒れてしまうことだってある」

「いえ、私がしっかり体調管理をしていれば良かったんです」

そう言うと夕海はベッドを降り、倉庫内に戻ろうと歩き出す。

「ちょっと!さっき倒れたばかりなのに仕事する気?」

「まだ退勤時間ではないですし、もう大丈夫です」

「やめときなよ!早退しても良いし、何も無理して仕事することないって」

綿谷の静止を振り切り、倉庫内に向かって夕海は歩く。後ろで綿谷が何かを言っているが、夕海は気にせず歩みを進めた。
 

 

*  *  *

 

 

 その日の仕事は何とか根性を振り絞って乗り切った。夕海はその事に安堵し退勤の準備をする。荷物を纏めて、身支度を整えてから再度喫煙所に向かう。普段なら仕事が終われば即、家路につく所だが、倒れた事とあり少し休みたかったのだ。そう思い喫煙所に入ると、中にはまた綿谷が居たのであった。

「お疲れ様、体調大丈夫?まさかあのまま戻るとは思わなかったよ」

「お陰様でなんとかなりました。お昼は助けて頂いたのにお礼も言わず、すみませんでした」

「そんな事、別にどうでも良いし、大丈夫、俺、そんな事気にしないタチだし!それよりこれから帰るの?」

「ええ、まぁ、一服して少し休んでから帰ろうと思っています」

「ところで煙草、何吸っているの?あ、ハイライトじゃん!男らしいね!」

「そういう貴方こそ、吸っているのはセブンスターじゃないですか。そちらも十分おっさん臭いですよ」

「いやー、色々な銘柄を吸ってみたんだけど、最後にこれに辿り着いたっていうか?結構匂いにこだわりあんだよね」

「そうですか」

 そんな会話をしつつ、夕海は煙草を肺一杯に吸い込み、吐き出す。お昼に倒れてから体調は依然、芳しくない。ただ、仕事が終わった安心感からか、少し気分は良くなって来たみたいだ。後は無事帰宅するだけ。そうするだけなのだが、なんだが喫煙所での綿谷との遣り取りが嫌ではなかったのでもう少し居る事にした。

「俺、今から外回りなんだよね。これから怖い取引先に行って来る訳。で、行く前に一服と思ってね。社用車では吸えないし、どこかのコンビニに車止めて煙草吸うのもアリかと思うんだけど、ウチの会社そういうのに厳しいんだよねー。困ったもんだ」

「綿谷さんは営業職なんですか?」

「え、俺?営業もさせられているし、なんでもやらされているよ。新卒二年目だから会社の方針で色々やってみろってね」

「へえ、そういうものなんですか」

 自分から話を振った割に、興味無さ気に夕海は答える。そうしていると綿谷が何かを思いついたのか勢いよく喋り続けた。

「そうだ!荒木さん帰り送って行ってあげるよ!外回りのついでだし、体調悪そうだし、俺は荒木さんと二人きりになれるし!」

「いえ、そんな、いいです。悪いので歩いて帰ります」

「いいからいいから!乗ってきなよ!帰りも楽だし、お互いにwin-winじゃない!そんなに遠慮しないでさあ!しんどい時はお互い様だし!」

「そう…ですかね?私は綿谷さんに怪しい所に連れ込まれないか不安でしかないですが…」

少し夕海も笑いながら軽口を言ってみた。

「ううむ、それも魅力的だけど、俺、一応仕事あるから!そういう事はしません!ていうか、したくない訳でもないけど。でも、まだ俺ら、そういうの早いと思うんだ…」

と赤面し本気で照れる綿谷。綿谷の言動に振り回されつつも夕海はなんだか流されてしまった。

「そういう事でしたら、お言葉に甘えて送って頂きます。こちらとしても有難いですし」

やったー!二人でドライブデートだあ!そうと決まったら待てない!これ吸い終わったら早速出よう!」

 

 

*  *  *

 

 

 会社の敷地内にある駐車場に向かうと、一台の軽自動車があった。社用車だ。

「軽で悪いけど、これに乗ってくから!ああ、後部座席は荷物が散乱してるけど気にしないで乗って!」

乗車を促されたので、素直に夕海も乗り込む。綿谷は既に運転席に座っていて、エンジンを掛け始めた。エンジンが掛かると車内にラジオが流れる。

「ちっ、今面白いラジオしてないや。いつもと時間が違うからなあ」

独り言ちた綿谷は、夕海が座っている助手席の方に身を乗り出してダッシュボードを開けた。がさごそと中を漁り何かを見つけたようだ。ロックミュージシャンのCDだった。それを迷いなく、カーステレオにCD挿し込むと音量を上げる。ガンガンと流れる音楽に夕海はうるさいなあと思いながらも黙って座っていた。綿谷は音楽を気に入った様子で車を発進させる。

「荒木さんの家ってどこだっけ?」

ガンガンと鳴り響く音楽の中で綿谷は問いかけてきた。

「割と近いんですよ、徒歩三十分程度の所にあります。山吹町の二丁目あたりで停めて貰えれば十分です」

音楽に負けないよう、夕海は大声で答える。

「え、マジで?そんなに近かったの?」

「ええ、たかが三十分分、されど三十分。正直、体調が芳しくなかったので助かります」

「ねえ、そんなの車で三分位で着いちゃうじゃん。なんかつまんない。あのさ、ちょっとドライブしてもいい?折角だしさ」

夕海は正直、綿谷とそんなに深く関わり合いを持ちたくないのだが、喫煙所での会話からの流れでつい同調してしまった。

「ええ、私は座れていて、身体が楽なので多少は良いんですけど、綿谷さん、仕事は良いんです?」

まずい、なんでわざわざ付き合ってしまうのか…と夕海は思う。喫煙所の効能なのだろうか、夕海は綿谷に対して今までよりガードが緩くなってしまっている。そして、綿谷は嬉しそうに答える。

「いいのいいの!折角だし、それにこの機会を逃すわけにはいかないしね!あと、仕事も大丈夫。取引先からも来いとは言われてるけど、時間指定されてないから!」

「怖い取引先な割に、時間には五月蠅くないんですね」

クスッと笑いつつ夕海も答える。と同時に、どうしても調子を合わせてしまう。

「取引先が怖いってのは、担当者の顔が強面でスキンヘッドだからって意味なんだけどね。実際話すと超感じが良い人なんだよね」

笑いながら綿谷はハンドルを操る。

「ねえ、丁度桜の季節だから、花見と行きませんか?」

あ、もうだめだ。完全に主導権は綿谷へ渡ってしまった。

「あ、良いですね。私、桜好きなんですよ。色合いも佇まいも」

「よしっ!決まった!それじゃあ、俺のとっておきの場所があるから!ここから車で十五分位で到着するよ!」

「へえ、それは楽しみです」

 「あ、そうだ、途中コンビニで飲み物とか買っていく?桜を観ながら飲み食いも良いもんだよね」

「ああ、それはとても良いですね。ここ数年間お花見なんて縁がありませんでしたから。正直楽しみです」

「そうなんだ!じゃあ今年初の花見は俺と一緒ってことだね!なんか嬉しいな」

「そのようですね。でもお花見って、誰と見に行くかが重要ではないでしょう?確かに、良い思い出にはなりますが」

「荒木さんの思い出の一ページに俺登場!へへへ、なんか良くない?」

「一人で観る桜も、私は好きですけどね」

「あ、あそこにコンビニがあるから入るね」

颯爽と車を走らせて、コンビニの駐車場内に入る綿谷。

「お互い好きなものを買って行こう」

「ええ、そうですね」

 

 夕海は体調が悪いので暖かいお茶のペットボトルを一本だけ選んでレジへ行く。なにやら綿谷はサンドウィッチやらホットスナックを大量に抱えている。大食漢なのであろうかという程に…夕海は先にレジで会計を済ませると、綿谷から車の鍵を受け取って車の中に戻る。少し後から、綿谷は買い物袋を抱えて車内へ戻ってきた。

 

「お待たせ、もうすぐで着くからさ。それじゃあ、出発進行!」

 

 エンジンを唸らせながら、綿谷はとっておきの場所へ向かう。コンビニから五分程度だろうか、車窓から見える景色は段々と山深くなっていく。どうやら目当ての桜は山の方にあるらしい。迷いなく車を走らせる綿谷は、夕海から見てもなんだが楽しそうであった。その表情をみて、夕海も悪くない気分になってきた。そうしていると、どうやらお目当ての桜の名所に到着したようだ。

「さあ、着いたよ!ここはめっちゃ桜が綺麗なんだ。他の人にもあんまり教えてない場所」

「見渡す限り山が観えるんですが」

「少しだけ山道を歩くんだ。そこを抜けたら、桜があるってこと!てか、荒木さん、歩くの大丈夫?そういや体調悪くて倒れてたんだよね」

「今更なことですね。歩く距離にもよりますけど、桜も観たいし…それにここまで来て桜を観ずに帰るのも野暮ってものでしょう?」

「ごめん、ほんと、今更過ぎて!荒木さんとドライブも出来て、花見も出来るからって俺、張り切りすぎちゃった」

ははは、と笑いながら頭をかく綿谷。

「そんなことより、早く桜の所まで案内してくださいよ。これでも私、期待してるんですから」

「あっ、そうだね、じゃあ重い荷物は車内に置いて、持って行くものは俺に渡してくれる?運ぶから」

そう言われて、夕海は鞄を車内に置いておくのは心もとないので持って行く事にした。ついでに、ペットボトル一本のお茶も自分で持つことにした。綿谷からしたら、良い所をみせたいのだろうが、特に重いものを夕海は持って行く必要がない。むしろ、綿谷がコンビニで購入した荷物の方が大分重そうだ。

「私は、鞄とお茶だけなので、持って頂かなくて結構ですよ」

「あ、そう?実は俺、自分の荷物で両手塞がるんだよね…」

バツが悪そうに微笑む綿谷。

桜が咲いている場所は、駐車場から歩いて十分も掛からなかった。向かう間は、獣道のような道を草花を掻き分け歩き進める必要があったが。その獣道を抜けた所には立派な桜が咲き乱れていた。四方に無数の桜が植わっており、開花していた。あまりの光景に夕海はうっとりと桜を眺めてしまっていた。三分程だったであろうか、夕海は言葉も出ない状態でそこに立っていた。

「どう?めちゃくちゃ凄いでしょ、ここ。地元でも知っている人はあんまりいないんだよ」

「はあ、言葉を失っていました。こんなに桜が咲き乱れている所を観るのは初めてで…」

 おもむろに綿谷が荷物をガサゴソと漁りだす。どうやら購入した商品を取り出しているのだろう。唐揚げ棒を取り出して、もぐもぐと食べ始める。同時に飲み物のコーヒーを開けて、ゴクリと飲む。何を思ったか、唐揚げ棒をもう一本、夕海に向かって差し出してきた。

「どう?荒木さんも食べない?」

実際、夕海は食欲かないので何も食べ物を購入しなかったのだが、綿谷が満面の笑みを向けて差し出して来たそれを断るのも悪いと思い受け取る。

「ありがとうございます。頂きます」

「どういたしまして!他にも色々あるからさ!体調悪そうだったけど、食べられるようなら食べて。人間、食事が摂れている間はなんとかなるもんだし!」

どうやら、大量に購入していた商品は、夕海にも分けるつもりで選んでいたようだ。

「なんか、奢って貰ってすみません。あと、ご心配有難うございます」

 そんな綿谷の気遣いがとても心地良く感じられて、夕海も快くお礼を言えた。受け取った唐揚げ棒を口に運ぶ。さっきまで食欲なんてなかったのに、何故か自然と食べることが出来た。そうしている間に綿谷は、唐揚げ棒を食べ終わり、次にサンドウィッチを取り出した。迷いなく開封し、サンドウィッチを食べる綿谷。夕海がよく食べる人だなあと視線を向けていると

「あ、荒木さんもいる?」

 サンドウィッチを差し出して来た。

「あっ、別に催促するつもりじゃなかったんです。ただ、沢山食べる人だなあって思って」

「あはは、俺、腹減るとダメなんだよ。だから、いつも何か食べてないと身体がついてかないんだよね」

「その割には身体引き締まってますよね。よく太りませんね」

「こう見えて俺、ジムにも通って鍛えてるから!良かったら筋肉見せようか?」

「何言ってるんですか、こんな所で脱いだら犯罪ですよ」

「てことは、見たいんだ?」

「そういう意味ではないです!」

「俺の身体に興味があるの?」

などとふざけ合う二人。周囲に咲いている桜を観るのもそっちのけで楽しそうに談笑する。そよそよと風が吹いて桜の花びらが舞い散る。そんな中で二人は話し続ける。

「もう、冗談ばかり言ってないで、もっと普通の事とか話せないんですか?」

「ダメダメ!俺ってば常にふざけてないと死んじゃうから!そういう病気なの!」

どこまでが冗談なのか夕海には判別し兼ねるが、割と真面目に綿谷は答えているのである。もちろん、綿谷は一人の大人として社会人である訳なので、取引先の担当者とは真面目に話をしているのであろう。しかし、綿谷の事だから冗談交じりに取引先の人とも話をしているのも容易に想像出来た。夕海はこの人は凄いコミュニケーション能力が高いんだなあ…と思った。

「俺の事なんかよりさ、荒木さんの事もっと知りたいんだけど?色々教えて欲しい!なんか趣味とかある?」

「趣味というか、休日には読書したり音楽を聴いたりするのが好きですね。あとは、だるいときはベッドでゴロゴロしてたり。あんまり外には出ないですね」

「へー、インドア派なんだね。俺も割と家で過ごすの好きだよ。でも、やっぱり外に出る方が好きかな。今日みたいにドライブしたり、景色を眺めたりね。キャンプや旅行とかも良いよね!荒木さんはそういうの好きじゃないの?」

「え、いや、好きじゃないとかじゃなくて、そういう機会がないだけで、嫌いではないです」

 ふむふむと綿谷はメモを取る仕草をする。

「ふーん、そっか!ところで荒木さんは実家暮らし?それとも、一人暮らし?」

「一人暮らしです」

「あー、そうなんだ。俺、今はまだ実家に住んでるんだけど近々実家を出る予定でさ。一人暮らしを始めるにあたって、かなり不安なんだよね。やっぱり家族と離れると淋しいかなとか、家事とか、色々不便になるじゃない?荒木さんは淋しいとか感じたりした?」

「私は特にそういう事はなかったですかね。1人暮らしは不便な部分もありますけど、要は慣れですかね」

「へえ、そういうもんなんだ。でも、俺なら家族が居ないのが絶対淋しくなりそうなんだよね。家族が多い中で育ったのもあってね。俺、上に二人姉ちゃんが居るんだよね。二人とも俺の事可愛がってくれたし、末っ子の長男だからか、両親からもかなり甘やかされて育ったのは否めなくて。だから、そんな俺が果たして一人暮らしなんて出来るのかが超不安なんだよ」

 苦笑しながら綿谷は話す。

「荒木さんには兄弟居ないの?」

「兄が一人居ますよ。今は一人暮らしをしていて実家には住んでいませんが」

「おおー、お兄ちゃんがいるんだ。俺、昔から妹が欲しかったんだよね。居たらめっちゃ可愛がってたと思う。荒木さんも甘やかされたクチ?」

「いえ…、私と兄はそんなに仲良くなかったので…」

「ご両親は健在なの?」

「ええ、一応。多分」

「そっか、一人暮らしを始めたら忙しくて家族ともあんまり連絡取ったり出来なくなりそうだしね。あー、俺まだ自信が持てそうにないから暫くは実家暮らしで良いかなあ…」

 そう言うと、綿谷はコンビニ袋からフランクフルトを取り出して食べ始める。そんな綿谷を横目に、夕海は家族関係の事をこれ以上突っ込んで聞かれたくないなあと思い話題を変えようとした。

「話変わりますけど、綿谷さんは普段会社でどんな仕事をしているんですか?さっきは何でもやらされてるっていうお話でしたが」

「いやあ、本当に色々だよ。外回りしたり、内勤して書類に囲まれて四苦八苦したりね。それに、極稀にピッキングしたりもしてる。派遣やアルバイトの子たちが大量に欠勤した時ヘルプで入るんだよ」

「そうんなんですね!じゃあ、私ともピッキングエリアですれ違った事があるかもしれませんね」

「それはあり得るね!でも、ピッキング中は集中してるから気づかないかもしれないけど。現に俺は、財布を拾って貰うまで荒木さんの事知らなかったもの」

「まあ、そうですよね。私も普段は集中して居るので、同僚の顔や声なんて目にも耳にも入りませんから」

 上手く話題を変えられたことに安堵し、夕海も穏やかに微笑む。

「あ、でも!今度からは俺、ピッキングする事あったら荒木さんを探して声掛けるよ!その時はよろしく!」

「業務に関するお話でしたら良いですけど、基本ピッキング中は私語は厳禁ですよ。綿谷さんと話してたら関係ない話しちゃいそうだし、それで私が怒られるのは嫌なので無視させて頂きますね」

 あははと二人で笑う。悪くない。この程度の距離感なら夕海としてもストレスになることはないのだ。それから、桜の写真を撮ったり、綿谷が買ってきたものを二人で食べたりしながらお花見の時間は過ぎて行った。二人にとっても楽しいひとときであった。

エッセイ中心でノンフィクションの創作を中心に書いていきたいと思います。 昭和58年生まれなので、時代的に古いかもしれませんがご興味あれば! 機能不全家庭・暴力被害・LGBT・恋愛・インターネット・いじめなどなどetc もしよろしければ、拙文ご一読頂ければ嬉しいです。