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スケープゴート -09-

―交流―

 

 数日後の出勤日。夕海は昼休憩にいつもの様に喫煙所へ行った。綿谷はもう来ていたようだ。そんな彼はというと、忙しなくゼリー飲料を喉に流し込んだ後にタバコを吸い始めた。

「あー、今日は俺のミスで客先に呼び出されてんだよ!昼イチで来いってさ!大変だよお」

「あら、ご愁傷さまです」

「ほんと、マジ、ありえないよ!なんでミスったかなー」

「こんな所に来る暇があったら、早々に向かった方が良いんじゃないんですか?」

「いやあ、ミスって落ち込んだから元気出そうと思って」

「ここで煙草を吸うのが元気が出るんですか?」

「野暮な事聞かないでよ!もう!じゃあ俺、もう行くね!」

 喫煙所から出てドスドスと音を立てて走り去っていく綿谷。一人残され、夕海はゆっくりする事にした。その間には喫煙所に訪れる人達が入れ替わる様に出入りしていく。そろそろ夕海も仕事に戻らないといけない。喫煙所を後にした。

 

 あのカフェで婚姻届のサイン・押印してから一か月程経ったある日、突然スマートフォンが鳴る。田中ちゃんからの着信である。

「あ、夕海?久しぶりー!」

「田中ちゃん、元気してた?」

「元気元気!あっ、それよりあたし、もう田中じゃないんで!」

「ああ、そうだったね。結婚したんだもんね」

「そう!あたしの名前は山本美咲になりました!よろしくね!」

「本当に結婚したんだねえ。でも、なんか今までずっと田中ちゃんて呼んでたから変な感じするね」

「そうだね!別に今まで通り田中ちゃんて呼んでも良いし!」

「じゃあお言葉に甘えて田中ちゃん呼びで!それより今日はどうしたの?」

「いや、旦那がさあ、婚姻届にサインしてくれた夕海と彼氏にお礼がしたいって言ってさあ!」

「ちょっと!彼氏じゃないってば!それに、私は別にお礼なんていいんだけど…」

「あんたたちまだ付き合ってなかったの?いや、旦那に夕海と彼氏の事話したら、気になるから会ってみたいって言うしさ。どう?近々どっかで飲まない?」

「確かに私も田中ちゃんの旦那さんにはきちんと挨拶はしたいけど、それって綿谷さんも誘わなきゃだめなの?」

「だって!婚姻届にサインしてくれた人だよ!ある意味仲人みたいな人じゃん!」

「まあ、確かにそう言われればそうかもしれないけど…」

「お願い!あたしも改めてお礼言いたいし!今度は置き去りにしたりしないからさあ!」

「んー、仕方ないなあ。私も田中ちゃんの旦那さんには挨拶しておきたいし。じゃあ一応誘ってはみるけど、あまり期待しないでね」

「オッケオッケ!日程とかも都合のいい日聞いておいてくれると助かる!旦那の仕事の都合であたしたちは土日が良いんだけど、そこも聞いておいて!」

「わかった。じゃあ綿谷さんに聞いたらこっちから連絡するね」

 電話を切り、夕海は頭を抱えた。今の綿谷との関係で夕海から綿谷を誘って出かけた事がないからだ。メッセージを送るか、喫煙所で話をするか、どちらかの方法で誘わなければならない。喫煙所だと、他にも出入りする人が居るので、デートのお誘いをしていると勘違いをされても困るのでメッセージを送る事にした。気が進まない夕海だが、どのような文面で送ろうか悩んだ。何度も書いては消す。文章を書いて、推敲して、何度も何度も迷いながら文章を考えた。変に勘違いされない様に、慎重に言葉を選んでメッセージを送らなければならない。

『以前、カフェで友人の婚姻届にサインと押印して頂いた件で、友人ご夫婦から飲みの誘いがありました。綿谷さんに直接お礼を言いたいそうです。土日で空いてる日があれば教えて欲しいとの事ですが、いかがでしょうか?』

 メッセージを送信する。すると三十分後に返事が返って来た。

『その飲みには荒木さんも行くの?』

『一応私も参加します。友人の旦那さんにご挨拶という事で』

『そっか!じゃあ俺も行くよ。これも何かの縁だしね』

『土日が良いそうですが、いつが良いですか?』

『うーんと、再来週末なら大丈夫かな。スケジュールを調整するよ。土曜日でお願い出来るかな?』

『わかりました。再来週の土曜日ですね。聞いてみます』

『うん、お願い』

 業務連絡として、簡潔にメッセージを終わらせる。すかさず夕海は田中ちゃんにもメッセージを送る。

『綿谷さんは再来週の土曜日が都合が良いって言ってるけど、田中ちゃん達は大丈夫?』

 小一時間ほどして返事が来る。

『再来週の土曜日はうちらも全然大丈夫だよー!じゃあこの間のカフェの前に十八時に集合って事で!』

『分かった、じゃあ綿谷さんにもそう伝えとくね』

『うん、お願い。じゃあまた再来週に会おう!』

 日時が決まったので、綿谷にメッセージを送る夕海。綿谷からの返信は早く、再来週の土曜日十八時のカフェ前集合で良いようだった。ともかく、スムーズに田中ちゃんと綿谷に連絡が出来てホッとした。当日の飲み会の事を思うと少し不安はあるが、まあ良いとしよう。夕海は一仕事終えたので後はゆっくり過ごした。

 

 飲み会当日。夕海は憂鬱ながらも午前中から夕方まではゆっくりと過ごし、待ち合わせの時間が近づいて来ると身支度を始めた。今日は田中ちゃん夫妻と綿谷が来る。少しお洒落でもしてみようかと思ったが、綿谷に何を言われるかわからないし、そこを突っ込まれたらたまったもんじゃないので普段着で行く事にした。待ち合わせは以前も行ったカフェの前。待ち合わせ十五分前に着いた。まだ誰も来ていないようだったので、そのまま待機した。すると遅れて綿谷が到着した。

「ども!今日は飲み会、楽しみだね!」

「こんばんは、泥酔するまで飲むのはやめて下さいね」

「一応これでも飲み会慣れしてるからさ、自分の酒量は弁えてるよ!てか、この間のお友達夫婦!どんな人達なのかな?」

「田中ちゃんは割とアホな感じで話しやすいですよ。旦那さんは私も初めて会うので緊張します」

「そっかぁ、初対面で飲みとか合コンみたいだけど、昔良くやったなあ」

「宴会芸ばかりが身についてそうですけど」

「あ、やっぱりわかる?」

「ええ、見るからにですもんね」

「これでも、俺の一発芸は爆笑モノなんだからね!今日も期待しといて!」

「私はゆっくり過ごしたいので、そういうの、やめてください」

「えーケチ―」

「ていうか、初対面の人達の前でも宴会芸するんですか?もう社会人なんですからTPOは弁えて下さい」

「分かってるって!流石に俺も今日はそんなバカやらないよ」

 談笑している間に、田中ちゃんご夫妻もとい、山本ご夫妻がやって来るのが見て取れた。腕を組んで歩いて向かってくる。

「やっほー!今日は来てくれてありがとう!」

「初めまして、美咲の旦那で龍也って言います。よろしく」

「初めまして、荒木と申します。お話は田中ちゃん、いえ、美咲さんから聞いてました。よろしくお願いします」

「夕海さんでしょ!俺も美咲から話は聞いてたから初めましての感じじゃないんすよね。隣の方は彼氏さんっすか?」

「自分は綿谷栄と言います。以前カフェで美咲さんとは初めてお会いしたんですが、僭越ながら婚姻届にサインをしました。ご結婚おめでとうございます」

「ああ、話には聞いてるっす。ほんと、マジで助かりましたよ。ありがたいっす。てかお二人はカップルじゃないんすか?」

「違いますよ、私たちは職場が同じなだけで、社員とアルバイトという関係です」

「あ、そうなんすね!お似合いなんで付き合ってるのかと思っちゃったっす。それじゃ行きましょっか」

 挨拶もそこそこに、山本夫妻が予約している店に案内してくれるのでついて行く。待ち合わせ場所のカフェは繁華街にあるが、そこから少し歩いて飲み屋街がある。徒歩で五分位の所だ。どうやら海鮮メインの居酒屋に連れて行ってくれるらしい。遅れないように夕海は足を運ぶ。山本夫妻はべったりくっついて歩いているのでそんなに歩みは早くないのが良かった。綿谷もそのペースに合わせて歩く。普段はもっと早歩きの綿谷がゆっくり歩く所を見るのは新鮮だった。予約している店の前に着いた。店外には黒板で本日のおすすめやら、目玉料理、お酒のメニューが書かれていた。結構な人気店らしく、味も良いと評判らしい。夕海は単純に外食する事は楽しみだったので少しわくわくして来た。山本夫妻が先に店に入り、名前を名乗ったらスムーズに席へ案内された。案内されたのは個室のテーブル席であった。此処なら他人の目を気にせずゆっくり話が出来るので夕海も大いに気に入った。席の配置は綿谷と夕海が隣り合わせで、対面に山本夫妻となった。全員で最初のドリンクを注文する事になったが、通常飲み会とは一杯目はビールと相場が決まっている。夕海は綿谷にお酒が飲めないと言った手前、ビールを注文するのは憚られたが、お通しが届いたときに、龍也さんが生ビールを四杯注文してしまったので黙っておいた。元来夕海はお酒自体は飲めない訳ではないので問題ないのだが、精神科で処方されている薬を服薬している為、普段は飲まない様にしている。なので夕海はこのような事態に備えて、今日の服薬はしないでおいた。本来なら、自己判断で服薬を中止するのは禁忌ではあるが、薬を飲んだ上でのアルコール摂取よりマシだと考えたからだ。ただ、眠前の薬を飲むまでには酔いを覚ましておこうとは思って居た。注文したビールが届いたので飲み会は開始される。

「えーそれじゃあ、俺ら夫婦の為にサインしてくれてありがとうございます!かんぱーい!」

 龍也さんがそう言ったので残り三人も乾杯と続いた。早速だが、綿谷が驚いた様子で夕海の方を見る。お酒は飲めないと綿谷には伝えていたので驚いたのであろう。

「あれ、荒木さんてお酒飲めないんじゃないの?」

「普段は持病があるので飲まない方がいいだけで、別に飲んだから死ぬって訳じゃないんです。あと、おめでたい席なので場の空気を読んだだけです」

「そうなんだ!俺、荒木さんて下戸なのかと思ってた!誤解してたみたいだね。へへへ」

 そんな綿谷はスルーしてビールをちびちび流し込む夕海。本当は日本酒の方が好きなのだが、一杯目は我慢だ。そうこうして居る内に皆お通しで一杯飲み切る。二杯目からはみんなそれぞれの趣味でドリンクの注文を始める。夕海は日本酒、綿谷は継続してビールを。田中ちゃんはレモンサワー、龍也さんはハイボール。その他、料理の注文をする。四人で食べるので大皿料理で刺身の舟盛りや揚げ物、夕海は個人的な趣味でたこわさを注文した。料理が届くまで、ちびちびと呑む。

「そういえば、お二人の出会いってどんな感じだったんですか?」

 と綿谷が山本夫妻に問う。

「あたしらは、マッチングアプリで出会ったの!たっちゃんの写真見て、超タイプだったからあたしから猛アタックしたんだあ」

「俺も最初はそこまで意識してなかったんすけど、美咲の押しが強いのと結構可愛かったからつい…」

「へーそうなんですか。今はもう出会いもネットが主流になりつつありますもんね。アプリとかあるし。合コン行くよりお金掛かんなくていいですよね」

 綿谷は答える。

「いやー実は、マッチングアプリとかって男は有料なんすよ。だから、課金してたっす」

「ああ、解ります。出会いにお金掛かりますよね。でも合コンよりは気楽ですよね」

「そっすね、俺はトラックに乗ってるんで合コンとか行く暇がねえからアプリが丁度良いって感じっすね。美咲にも出会えたし」

 男同士で盛り上がる。

「夕海もさ、いい人見つけるならマッチングアプリが良いよ!女は無料だからね!選び放題!」

「田中ちゃんはそういうの向いてるかもしれないけど、私は良いよ。メッセージの遣り取りで疲れそうだもん」

「夕海ってば固いなー。まあ、そこが良い所でもあるんだけどね」

「いや!荒木さんはマッチングアプリなんてしなくても全然余裕っすよ!リアルで狙ってる人多いんですから!ウチの会社でも可愛いって評判で…」

 なんだそれは、初耳だ。夕海は思った。

「あーだから栄君は他の男に取られないように必死なのね」

 ケラケラ笑いながら田中ちゃんが言う。

「確かに、夕海さんは可愛いっすよ。まあ俺には美咲が居るんでアレですけど、普通なら男はほっときませんよ!」

「でも、俺の片想いなんですよねえ。どんだけアタックしても振り向いて貰えなくて」

 ヨヨヨと泣くようなそぶりを見せる綿谷。

「まあまあ、あたしが夕海の事色々教えてあげるからこれからの参考にしなよ」

「そうっすよ、諦めずに想い続ければいつか叶うっすよ」

 夕海本人を目の前にして、何故だか付き合うように仕向けられている。夕海は敢えてスルーし続ける。

「ねえ、夕海はどんな男がタイプなの?」

「あ、俺も荒木さんの好きな男のタイプ知りたいです」

「まずはそこからっすよねえ」

 急に話を振られた夕海はたじろぐ。何か具体的な事を言わないと納得されなさそうだ。仕方なく口を開く夕海。

「そうですね。特にタイプってのは判らないんですが、暴力的じゃない人が好きです。すぐ怒鳴ったり怒ったりする人が苦手なんで。男女問わず」

「あーそうだよねえ、暴力的な人は人間として関わりたくないよね!」

「じゃあ夕海さんは穏やかな男性がタイプって事すか?」

「そうですね、基本的に穏やかな方が良いです。落ち着いた言動の人とかですかね」

「男の包容力ってやつっすね」

「あーじゃあ栄君はちょっと頼りないね!年下だし、あまり落ち着きなさそうだもん」

 笑いながら田中ちゃんが口を挟む。

「えー俺ってそんなイメージですか?これでも落ち着いて来た方なんだけどなあ」

 頭を掻きながらバツが悪そうにする綿谷。

「でも、若いし、まだまだ伸びしろがあるって事でもあるし!めげずに頑張んな!」

 楽しそうな田中ちゃん。夕海としては避けたい話題ではあるが、皆が盛り上がっているので良しとした。

「そうですかね、俺にまだ伸びしろありますかね。まあ俺も争いは嫌いなんで暴力とか好きじゃないですね。でも、落ち着いた言動かあ」

「まあまあ、今日は細かい事気にせず飲んで飲んで!」

 田中ちゃんに勧められ、綿谷はビールを一気飲みする。

「ぷはー!そうですね、細かい事はどうでも良いですよ。ハートがモノを言うってこともありますしね」

「そうそう、割と好みの男性のタイプと付き合う人って違ってたりするしね」

「俺もそう思うっす。俺の場合は、ガツガツ来る女って苦手だったんすけど、美咲には負けちゃったすからね」

 はははと皆談笑しながら飲食を続ける。話をしていく中で、綿谷と龍也は意気投合したようだ。お互いに栄っちと龍さんと呼び合うように。そうしているうちに時間は二十一時頃。飲み会も終盤になり、次をどうするかという事になった。

「ここはあと少しで出なきゃいけないんすけど、よければ次どっかで飲みなおさないっすか?」

「良いですねえ。どこがいいかなあ。女性陣にも聞いてみないと!」

「あたしはどこでも良いよ!夕海は?」

 この流れで夕海だけ一人帰るのは憚られた。仕方なく希望を言う。

「とりあえず、個室ならどこでも」

「個室かあ…そうだ!それならカラオケはどう?」

 田中ちゃんが提案する。夕海としてはカラオケに行ったら歌を歌わされてしまうと思い怯んだが、男性陣達は同意しだした。

「そういや俺らもカラオケ久しぶりっすよ。行きましょ行きましょ!」

「俺もカラオケ好きなんで良いですよ」

 どうやらカラオケに決定のようだ。それではと皆身支度を始める。そんな中、レジでお会計をとなった時にひと悶着あった。

「ここは俺らの奢りっていうことでいいすよ!お礼の飲みでもあったわけだし」

「いえいえ、そういうことなら、俺が半分は出しますよ」

「栄っちは俺らの為にサインしてくれたからいいんだよ。気持ちだけ貰っとくわ」

「龍さん!それじゃあ俺もなんか申し訳ないですよお」

「いいのいいの!次のカラオケは割り勘てことで!」

 じゃあ、と渋々財布をしまう綿谷。夕海はこの遣り取りに割って入る事も出来ず傍観するしかなかった。

 

 居酒屋から出て、カラオケ屋の道のりで四人は飲み屋街を歩いて進む。カラオケ店は何店舗もあるのだが、土曜日の夜という事もあって人が多いのか空いてるカラオケ店を探すことにした。山本夫妻が先導して、綿谷と夕海は並んで歩いていた。対面の方から五人組の若い男性達がすれ違う。若い男性達はかなり酔っ払っているのか、千鳥足で足元もおぼつかない。山本夫妻はサッを避けるので夕海達も同じ進路を取った。その瞬間だった。若い男性の一人がふらついてきて綿谷にぶつかってしまったのだ。綿谷がこけそうになるのを夕海は咄嗟に支える。危ない所だった。

「オーコラア!何ぶつかってきてんだよ!」

 若者の内の一人が叫びだす。すると先を行く山本夫妻も異常を察知したのか駆けつけてくる。

「おいてめえら、なにいってんだよ!舐めた口きくんじゃねえぞ!」

 龍也が割って入って来る。夕海はというと、怯えてしまって動けなくなっている。喧嘩になる前に止めないといけないのに何も言えない。田中ちゃんも止めようとはしていない。このままだと殴り合いにまで発展してしまうかと思われた。

「龍さん!いいんです!俺がちゃんと前見て歩いてなかったんですよ!」

「本当か?栄っちはぶつかられた方じゃあねえのかよ。そもそもこいつら足元もおぼつかないんだぜ?」

「でも、俺もちゃんと気を付けてなかったから仕方ないんですよ。お兄さん達もごめんなさい。俺が悪かった。折角気分良い所で水を差してしまって本当に申し訳ない!」

 深々と頭を下げる綿谷。

「お、おう、分かってるならいいんだよ。ちゃんと前向いて歩けよ!このボケナスがあ!」

 捨て台詞を吐いて、若者五人組は去っていく。とりあえず夕海としては大事にならずに済んでホッとした。

「栄っちー、おめえは甘えよ!あんなガキ共に頭下げてやる必要ないだろうがよ」

「龍さん、出過ぎた真似してごめんよ。でも、酔っ払いだし、俺らも気分良く居たいし、何より龍さんの手を煩わせたくなかったんだ」

「いや、俺は良いけどよ、お前が良いんなら俺もそれで良いよ」

 綿谷はあっという間に若者五人と龍也を諫めた。その様子をみて初めて夕海は凄い人だと思った。どちらも徒に気分を害する事なくその場を収めたのだ。夕海と言えば、足がすくんでしまって声も出せない状態だったというのに。

「美咲さんも、荒木さんも、ごめんね。俺の所為で雰囲気悪くするところだった」

「あたしは別にいいよー!だって、いざとなったらたっちゃんがボコってくれると思ってたし!」

 田中ちゃんが龍也を止めなかったのはそういう事だったのか。改めて綿谷が居てくれて良かったと思う夕海。

「私も別に大事にならなかったので気にしませんよ」

 何とか言葉を捻りだす夕海だが、心底ホッとしたのは夕海本人であった。しかし、咄嗟に感謝の言葉も言えないほど夕海にとっては大事だったのだ。普段から刺激が少ない生活をしていたので忘れていた感覚。他人からの暴力が頭を過ぎったのであろう。気を取り直して一行はカラオケ店を探す。丁度良く空いているカラオケ店を見つけたので入ることにした。

「時間はフリータイムでいいっすか?」

 龍也は夕海達に向かって問う。

「そだね!時間気にして飲んだり歌うのもめんどいし!」

「俺も大丈夫ですよ」

 夕海としては、公共交通機関が動いている内に帰宅する事が出来れば良いので、とりあえず提案を受け入れる。

「私もそれでいいです」

 カラオケ店の部屋へ通される。アルコール飲み放題のフリータイム。注文はタッチパネルで行う方式のようだ。夕海は居酒屋でお酒を飲んだのでそれを覚ます為にソフトドリンクを注文する。他三人は各々の好みのアルコールドリンクを注文し、カラオケは始まった。

「龍さん!なんかラブソング歌って下さいよ!折角結婚したんだし、美咲さんへの愛の歌でも!」

「お、栄君、良い事言うね!ねーたっちゃん歌ってよ!」

「あん?仕方ねーな!歌ってやるよ!」

 そう言って龍也が歌い始める。田中ちゃんはうっとりと聴き入って、綿谷はタンバリンで盛り上げる。夕海は烏龍茶をちびちび飲みながら聴いている。一曲目から盛り上がったので龍也もさっきの若者との騒動の事はすっかり忘れてご機嫌なようだ。続いて綿谷が盛り上がるロックな歌を熱唱し始める。意外と歌は上手いというか、声が大きくてうるさい歌い方ではあったが、なかなか聴かせる。次に田中ちゃんが龍也へのアンサーソングを歌っていよいよ次は夕海だ。夕海は歌は嫌いではないし、入院中のOTでもカラオケをしていたので、適当に歌いなれた曲を入れて歌う。綿谷がタンバリンで盛り上げてくるのが正直うざったかったが無視して歌った。各々、歌も歌い、お酒も飲み続けて盛り上がっていく。しかし、夕海としてはそろそろ帰りたい所ではある。早く帰宅しないと公共交通機関が動かなくなるし、あまり長居するのも生活サイクルが崩れると思ったからだ。しきりに時間を気にする夕海に気付いたのか、綿谷が夕海に声を掛ける。

「荒木さん、もしかして終電時間気にしてる?」

「ええ、帰るにはもうそろそろ出なくちゃいけなくて」

 話を聞いてた田中ちゃんが割って入る。

「えー!夕海帰っちゃうの?今日くらいさ、オールしようよ!折角なんだし!」

「でも、終電なくなっちゃうし…」

「そんなのタクシーでもなんでも使って栄君に送って貰いなよ!うちらは最初からそのつもりだよ!」

「そうだよ、帰りは俺が責任を持って家まで送るよ。久々に美咲さんと遊べるんだし時間なんて気にしないで良いよ」

「夕海さん帰っちゃうんすか?もうちょっとだけでも美咲の為に居てやって欲しいっすよ」

 三人からこう言われてしまうと非常に帰り辛い。仕方なく夕海は終電で帰るのは諦めた。それからは夕海以外の三人が歌って盛り上がってアルコールを摂取する。山本夫妻はどうやら酔っ払いすぎてベロベロになって来ている。綿谷はと言えば涼しげにビールを飲んでいた。夕海は中座して喫煙ルームに行く事にした。最近のカラオケ店は禁煙の部屋が多いので喫煙ルームに行かないと煙草が吸えないからだ。すると綿谷もついてくる。喫煙ルームに二人で入り、煙草に火をつけ吸い始める。

「いやー龍さんも美咲さんも面白い人だね。特に美咲さんは荒木さんとは正反対のタイプだから、二人が友達ってのが意外なくらい。でも案外そんなもんだよね、友達って」

「そうですね、私は田中ちゃん程バイタリティはないですし、こういうのもあんまり経験ないんで結構刺激的ではありますね」

「俺はこういうの慣れっこだけど、荒木さんは今日大丈夫?送るのは勿論責任を持つけど、体調とか崩してない?」

「ご心配ありがとうございます。ここに来てからは烏龍茶オンリーですし、酔いも覚めて来てるので大丈夫です」

 そう言い、しばらく沈黙が続く。

「そういや、ここに来る途中はごめんね。俺がもうちょっとしっかりしてたら良かったんだけど」

 直ぐにあの若者たちとのいざこざの事だと夕海は気づく。

「いえ、気にしてませんよ。でも、意外でした。あんなに簡単に事を収めたので…正直凄いなって」

「酔っ払いあるあるだよ。俺なんて大したことないって」

 珍しく謙遜する綿谷に夕海は口を開く。

「でも、正直私、ああいうの苦手だったんで助かりました。何も言えないし出来なかったから」

「女性はあんなのに関わっちゃいけないよ。それもあって俺も咄嗟に言っただけなんだから。荒木さんも美咲さんも居るしね」

「何やら田中ちゃんは龍也さんにボコッて貰えるから良いとか言ってましたけど…」

「龍さん喧嘩強いんだろうね。俺もそれは思ったから、騒ぎになるとまずいと思ったんだ」

「そうなんですか」

 綿谷は夕海が思って居るより思慮深いようだ。夕海としては本当に助かったのでこの件に関しては感謝しかない。

「ま、今日は野暮な事は言いっこなしで楽しもうよ。俺もっと荒木さんの歌聴きたいし!」

「私もそれなりに楽しんでますよ。歌はまあ、気分で歌いますけど」

「うんうん!」

 ご機嫌な様子の綿谷。夕海は今日は変な軽口を叩いて来ないので綿谷と二人きりになっても自然体で居られる。

「じゃあ私、お手洗い行ってから戻るんで」

「うん、俺は先に戻ってもっと盛り上げとくね!」

 深夜零時を過ぎた頃、山本夫妻は泥酔して前後不覚の状態。どうやらまともなのは、夕海と綿谷だけのようだ。

「龍さん!ちょっと!起きてくださいよ!そろそろお開きにしましょう」

「ああ、おう、そうだな。俺もちょっと酔っ払いすぎたかもな」

「田中ちゃん、ふらふらしてるけど大丈夫?」

「ごめんごめん、楽しくてなんか飲み過ぎちゃったみたい」

「じゃあ、今日はここら辺でお開きにしましょうか」

 綿谷が言うと、山本夫妻も首肯した。そこからは夕海と綿谷で二人をカラオケ店から連れ出し、タクシーに乗せる。田中ちゃんが住所を言えたようなのでタクシーも発進する。夕海と綿谷はそれを見送った後、二人きりになる。

「じゃあ俺らも帰ろう。荒木さんの家は山吹町だよね、通り道だからタクシーに相乗りで」

「そうですね、夜道を歩くのは危険ですし、お言葉に甘えます」

 二人もタクシーに乗り、帰路につく。タクシーで夕海の家までは五分位だった。まずは夕海が下りて、それから綿谷宅へ向かう。夕海の自宅アパート前に着いた。

「じゃあ、私がここまでのメーター料金お支払いしますね」

「ああ、いいよいいよ。どうせ、俺タクシーで帰るつもりだったから俺が払うよ」

 ここで押し問答しても、タクシーの運転手さんに迷惑になるだけなので夕海は綿谷の言う通りにした。

「それじゃあすみません。よろしくお願いします。では、今日はお疲れ様でした」

「お疲れー、またね」

 夕海を置いてタクシーは去っていく。タクシーが見えなくなるまで見送る夕海。そして自宅へ入る。今日は遅くまで起きているので、生活サイクルが崩れてしまわないかと心配ではあったが、幸いお酒は覚めていたようなので眠前の薬を飲む。入浴は翌日に後回し。部屋着に着替え、水をコップ一杯飲み布団に入る。しかし中々入眠出来ない。居酒屋、若者五人組、カラオケと刺激が強かったようなのでおそらくまだ脳が覚醒状態なのであろう。中々入眠出来ないので夕海は仕方なく起き上がった。翌日にお礼のメッセージを送ろうと思って居たが、今送っておこう。そう思い、田中ちゃんと綿谷にメッセージを送ることにした。

『田中ちゃん、居酒屋ではごちそうさま!龍也さんに挨拶出来て良かったよ!また機会があったら遊ぼうね』

『今日はお疲れ様でした。送って下さり有難うございました。また職場でお会いしましょう』

 それぞれにメッセージを送信した。それでもまだ眠れないので、読みかけの本を持って布団に入る。部屋の電気は消し、ベッドに付いている僅かな灯りで本を読む。そうしている内にいつの間にか夕海は眠った。

 

 数日間、夕海の体調は優れなかった。おそらく飲み会で服薬しなかった事とアルコールを摂取したせいであろうと夕海は考えた。それでも欠勤する事なく出勤していた。倦怠感と焦燥感を感じながら仕事をしている夕海は正直余裕などなかったのだが、それでも仕事に穴を空ける訳にはいかないので頑張った。いつも通り出勤し、始業前・昼休憩・退勤時には喫煙所に立ち寄る。既にルーティン化している行為だ。そこには綿谷が居たり居なかったりではあるが、数日体調が悪い事もあり、綿谷ともあまりまともに話せていない。当の綿谷は夕海の体調不良に気づいてはいないようではあるが、それは別に問題ではない。一週間もしたら夕海の体調も良くなり、以前と同じように生活が出来るようになっていた。とある日の喫煙所。

「残暑も厳しいから今の時期のピッキングって辛いでしょ。ちゃんと水分補給してる?」

「ええ、水分補給もですけど、塩分も摂らないといけないのでタブレットも舐めてます」

「倉庫内はエアコンあるけど、それでも暑いからね、気を付けてね」

「そうですね、綿谷さんも外回りとか多そうなのでお気をつけて下さい」

 何気ない会話。いつも通りだ。

「そうだ、良かったら今週末に一緒に海にでも行かない?今の時期は泳げないけど、足をつける位なら出来るし、もし良かったらだけど」

「そうですねえ、でも私、実は今夏バテ気味で仕事以外で外に出かけたくないんですよ。家でゆっくりして居たいので」

「ふーん、そうなんだ。しっかり飯は食わなきゃいけないよ。暑いからって飯を疎かにしてたら室内にいても体調崩しちゃう事あるし」

「あー、確かにエアコン掛けて家にこもって居ても昼間の日差しが入って来て暑いんですよねえ。南向きの部屋も良し悪しですね」

「そうだよ、まあでも、体調崩さないで居られるに越したことはないからお互い気を付けよう」

「ええ」

 八月の下旬、残暑も厳しい中でも仕事はある。今夏は猛暑であったので、職場の者皆、熱中症対策は徹底している。とはいえ、倉庫内でも何人か熱中症で仕事を休む者が見受けられた。夕海も熱中症対策は万全のつもりだが、実際は夏バテで食事も疎かになって来ていたので更に気を付ける事にした。そうしてなんとか夏を耐え、秋を迎える。

 

 いつも通り、職場の喫煙所で煙草を吸っている夕海だが、田中ちゃんからのメッセージが届いていた。

『久しぶり!元気してた?うちらは二人とも熱射病になって倒れてたけど、今は元気だよ。涼しくなってきたからまた一緒に遊びたいんだけど、どう?』

 田中ちゃんからの遊びの誘いだ。夕海はどうしようかなと考えつつスマートフォンを凝視しながら煙草を吸っている。すると綿谷が覗き込んでくる。

「なんかすげえスマホ気にしてるじゃん。誰かからのメッセージ?」

「ああ、田中ちゃんです。涼しくなったので遊ぼうって言われてて。でも、何をして遊ぶのか分からないので、まずそこが気になって」

「美咲さんからか!美咲さん達、夏場は熱中症になったってね。俺、龍さんから聞いたよ」

 なんと、綿谷は龍也と連絡先交換していたようだ。

「龍也さんと連絡取り合ってたんですか。知らなかった」

「まあね、月イチ位で近況を話したり、たまに飲みに行ってるんだ」

「そうなんですね。私は出不精なので田中ちゃんともあんまり遣り取りしてないですよ」

「だろうね、たまに飲みに美咲さんが来るんだけど、荒木さんからメッセージが無いってボヤいてたよ」

 はははと笑いながら綿谷は言う。

「ねえ、美咲さんと遊ぶんなら俺も一緒に行っても良いかな?遠出するんだったら車出すし、何より女性二人で出かけるのも何かあった時が大変だからさ」

「そんな事言われても…。田中ちゃんの都合もあるし」

「じゃあ、龍さんに言って根回しして貰おうかなあ」

「わざわざ龍也さんを通すぐらいなら私から一応、参加したいって事で田中ちゃんに伝えますよ」

「マジで!ありがとう!」

『遊ぶのは良いけどどこかに行くの?あと、綿谷さんも一緒に遊びたいって言ってるけどどう?』

 そう田中ちゃんにメッセージを送る夕海。証拠として、綿谷にも送信画面を見せて納得させる。

「田中ちゃん次第なので、返事が来たらまたお伝えしますよ」

「オッケーオッケー!多分、美咲さんなら良いって言ってくれる筈だから!」

 夕海の知らない所で飲みに行ったりメッセージの遣り取りをしているらしいのでかなり親しくなっているのであろう。田中ちゃんと遊ぶのは吝かではないが、綿谷がついて来るのは正直面倒くさい。それでも、仕方ないと割り切る。まだ田中ちゃんの意向を聞いてないので一縷の望みを掛ける夕海であった。田中ちゃんからの返事を確認出来たのは仕事が終わってからであった。

『紅葉でも見て、美味しいものでも食べようかなって。栄君も来たいの?あたしは良いよ!夕海が嫌なら栄君なしって方向で!』

 決定権は夕海にあるという内容の返事だ。なんと悩ましい。田中ちゃんが良いと言うなら…。と思って居たのだが、綿谷の参加については最終的に夕海に決めろと言っている。そして、タイミングが悪いことに今夕海は職場の喫煙所に居る。勿論綿谷も何故か居るのだ。

「美咲さん、なんて?返事来てるんでしょ?」

「田中ちゃんは良いらしいですよ。ただ、私が嫌なら綿谷さんは抜きでって事になりますけど」

「あらー、荒木さん、もしかして…」

「田中ちゃんが良いと言ってるし、仕方ないので私は我慢します」

「うっひょー、やったあ!で、何して遊ぶの?」

「なんか紅葉見て、食事でもって話です」

「そっか!もし良かったら俺がセッティングしようか?車も出せるし!」

「それは田中ちゃんに…」

「だったら早くそう伝えてよ!」

 前のめり気味に綿谷が言うので仕方なく田中ちゃんにメッセージを送る。

『綿谷さんが遊びの計画たてて車を出すって言ってるけど大丈夫?』

「はい、送りましたよ」

「あいあい、ありがとう。あっ、龍さんにも連絡しとかなきゃね!大事な奥さんを連れ回しちゃうんだから」

 そう言いながらスマホ取り出し、ぽちぽちとメッセージを打つ綿谷。夕海はどうにでもなれという気持ちで居た。折角田中ちゃんと遊ぶのに、綿谷というおまけがついてきてしまっては、あまり深い話が出来ないのでがっかりした。帰宅してからまだ返事は来ていないが、夕海は田中ちゃんにメッセージを送る。

『綿谷さんが来たら、うちらの病気の話とか出来ないからちょっと嫌なんだけど、まあ仕方ないよね』

 小一時間したら、田中ちゃんから返事が来た。

『栄君が計画たてるのは賛成!夕海の言いたい事はわかるよ。たっちゃんと三人で飲みに行った時も口滑らせないように注意してたし、たっちゃんもそこは隠してくれてるからバレてはないんだけどね』

『私は綿谷さんに過去の事も病気の事も話すつもりがないから、そっち経由で知られるのは困るかも』

『安心して、栄君も深くは聞いてこないし、飲みはアホな話してるだけだから』

『そう、ならいいんだけど…』

『でもさ、夕海。栄君じゃないにしても、いつか彼氏が出来たら夕海の過去とか病気の事とか話さなきゃだよ。あたしはたっちゃんに全部話した上で結婚したわけだし』

『え、引かれなかった?』

『たっちゃんはそんなに気にしてなかったよ。そうか、大変だったなってそれだけ。あたしの体調の悪い時も心配して看病してくれるし』

『そっか、田中ちゃんは良い人に巡り合えたんだね』

『何言ってんのお!夕海だって栄君が居るじゃん。すぐに付き合えとは言わないけど、いい経験にはなるんじゃない?少しは考えてみたら?』

『確かに、少しは頼りになる所はあるけど、私自身が他人に心を開きたくないのかもしれない』

『まあ、確かにね。恋愛は気楽だけど、普通、結婚までってなったら家族の話も出てくるし。話したくない事も話さなきゃだもんね』

『田中ちゃんは龍也さんに家族の事とか、病気の事って付き合ってすぐに打ち明けたの?』

『あたしの場合は、最初は話してなかったけど、体調崩しがちだったし、一人で病院にも行けなくなったから、たっちゃんに連れて行って貰ったんだ。それで』

『そっか、病院て言ったら精神科に行くもんね』

『そうそう、でも、たっちゃんは何も言わずにただ付き添ってくれて、病院終わっても普段通りだったから』

『そういうものなのかなあ』

『意外とそういうものかもしれないよ。あたし達の場合はだけどね』

『まあ、付き合うとしたら綿谷さんて変な約束もさせられたし、誰かと付き合うならあの人な訳だけど、私は言いたくないな自分の事』

『夕海は夕海のペースで良いと思うよ。それより、遊ぶの何時にする?』

『あ、そうだね。田中ちゃんは何時がいい?』

『私は土日なら何時でも良いよ!』

『分かった。綿谷さんにそう伝えとく』

『うん、お願い!詳しく決まったら連絡頂戴!』

『了解』

 田中ちゃんとのメッセージが終わったので、夕海は綿谷に連絡を取ろうかと思ったが迷った。翌日仕事でもあるし、喫煙所で済ませる手もある。何より自分からメッセージを送るのが躊躇われた。何故かは分からないが、自分から連絡をしたくなかったのだ。という訳で、田中ちゃんからの連絡事項は翌日に持ち越す事にした。

 

 翌日の昼休憩。いつも通り喫煙所に夕海と綿谷は居た。

「田中ちゃんは土日なら何時でも良いって言ってました。詳しい日時が決まったら私から伝えますんで宜しくお願いします」

「もう、プランは決まってるから日時だけだね。俺は基本的に仕事がなきゃ土日は休みだけど、今週末とかどう?今仕事が一段落して落ち着いてるから休めるんだよね」

「土曜日にします?日曜日にします?」

「そうだなあ、荒木さんは来週の月曜日は出勤?」

「ええ、そうですけど」

「じゃあ、土曜日にしよう。日曜日に出掛けて疲れが溜まったら、月曜日に影響しちゃいけないし」

「お心遣いありがとうございます。では田中ちゃんに言っておきます」

「うん。あとそれとさ、俺も美咲さんの連絡先知っときたいんだけど、どうすれば良いかな?ほら、待ち合わせ場所とか落ち合う時の連絡手段として」

「綿谷さんは龍也さんと繋がってるんですから、まずは龍也さんに相談されたらどうですか?」

「あ、そうだね。一応、美咲さんは龍さんの奥さんだから龍さん通すのが筋だよね」

「その方が、良いようですね」

「わかったよ!じゃあ龍さんに話してみる!」

 そう言い、スマートフォンを取り出し何やらメッセージを打っている。おそらく龍也へのメッセージであろう。正直夕海は伝達係をするのも面倒だったので都合が良い。龍也から許可を貰い、田中ちゃんの連絡先を知れば、こうやって夕海が間に立つこともなくなる。それに三人で飲んだりしているようだし、別に夕海抜きでも良いのではないかとは思うが、それはまた別の話だ。今回は田中ちゃんと綿谷の三人で遊びに行くという事なので田中ちゃんへの連絡手段を綿谷に得て貰うのは夕海にとっても悪い事ではなかった。そう思って居ると綿谷のスマートフォンの通知が鳴る。

「龍さんに聞いたら、美咲さんの連絡先を教えて貰えたから、俺から連絡しとくよ」

「そうですか、手間が省けて助かります。その他連絡事項があれば、個別に連絡して頂ければ助かります」
 仕事を終え、帰宅した夕海。田中ちゃんと綿谷からメッセージが来ていた。田中ちゃんからは、綿谷との遣り取りが始まった事の報告であった。綿谷からはというと、

『土曜日の朝九時に荒木さんの家まで迎えに行くね。まずは美咲さんをピックアップしてからになるけど、早い時間に出てランチ食べて後は適当にブラブラしてお開きって感じなんで!』

『了解しました。よろしくお願いします』

 簡潔に返事をする夕海。遂に本決まりになった。土曜日は綿谷が居るが、田中ちゃんとの時間を楽しもうと思う夕海であった。

 

 土曜日当日。早朝から起きて出かける支度をする夕海。身支度も整えて準備も万全で待っていると、外から車のクラクションが鳴る音が聞こえる。それと同時に、田中ちゃんからメッセージが届いた。

『今夕海の家の前に居るよ!栄君がクラクション鳴らしたの聞こえた?』

『今すぐに出るね』

 簡潔に返事をしてから玄関先へ向かう。忘れ物はないかと一瞬思ったが早朝より準備していたので大丈夫だと判断した。靴を履いて、玄関の扉を開け鍵を掛ける。急いで階段を下りて綿谷の車へ向かう。田中ちゃんは後部座席に座って居たのでそちらへ乗ろうとすると田中ちゃんと綿谷から助手席に乗るようにと身振りで促される。何もこんな日に綿谷の隣に座りたくないのだが夕海は渋々それに従う。

「おはようございます。なんで私が助手席なんですか?田中ちゃんと後ろが良かったんですけど」

「おはー!夕海は栄君の隣って決まってんの!細かい事は気にしない気にしない!」

「荒木さんがどうしても嫌なら後ろに行って良いんだよ」

 二人にこういわれると、後部座席に移ったらまるで夕海が綿谷を避けているようだし、逆に意識しているとも取られかねないのでそのまま助手席に収まる。

「別に構いませんけど、田中ちゃん!変に気を回さないでね!」

「変な気って何―?あたしはただ、なんとなく言っただけなんだけど」

 ぷぷぷと笑いを堪えながら田中ちゃんは言う。

「大丈夫!助手席に座った位で俺も彼氏面なんてしないし!でも、嬉しいのは事実だけどね!」

「はいはい、もう良いんで出発しましょう」

 綿谷は車のエンジンを唸らせる。目的地に向かう。

「そういえば、今日は何処に行くんですか?」

「なんかねーロープウェイに乗って山に登るんだって!それで紅葉見て、ランチはオイスターバーらしいよ!ね!栄君!」

「美咲さん、俺より先に言わないで下さいよー。でも、美咲さんの言ってる通りで山に登って紅葉見てからランチだよ」

「そうなんですね、今日は天気が良くて良かったですね」

「そだねー、あたしも今日楽しみにしてる!」

「車で一時間位で着くから、途中トイレとか気軽に言って下さい」

 目的地までの道中は田中ちゃんと綿谷と三人で談笑した。途中でトイレ休憩を挟みつつ、十時半頃現地へ着いた。駐車場へ車を停めてから、三人は車外へ出た。

「おー凄い大きい山だねえ!」

 田中ちゃんが辺りを見回しながら言う。

「ここら辺は紅葉スポットなんで、二人とも知ってるとは思うんだけど、ベタ過ぎたかな?」

「私は初めて来ます。結構緑が深くて空気も良いですね。地元を思い出します」

「あたしもあたしも!初めて!地元が山ばっかりだし、なんか懐かしいねえ」

「そっか、二人とも市内出身じゃなかったんだ。じゃあここ来て正解ですかね」

 綿谷は満足げに頷く。そして、三人で並んでロープウェイの受付まで向かう。

「大人三人往復で!」

 綿谷が元気に受付のお姉さんに向かって言う。受付の人はスムーズに大人三人分の往復切符も用意して綿谷に手渡す。

「栄君!あたし払うから!」

「あ、私も出します」

「良いんですよ!俺、女性に負担は掛けない主義なんです!」

「でも、あたしは人妻だよお?何もないのに奢って貰って良いの?」

「私は奢って貰う理由がありません」

「今日は無理言って、俺も混ぜて貰ったんで!ここ位は俺持ちってことにしましょうよ!それに、龍さんの奥さんなんだし大切にしないといけないでしょ!俺が龍さんに怒られちゃうし!荒木さんは俺が居るの嫌なのに来てくれたからせめてものお礼って事で!」

 ここまで言われては、二人とも財布をしまうしかなかった。綿谷から切符を受け取って、乗り場へと行く。土曜日だからかカップルだらけで居心地が悪い。丁度上りのロープウェイが到着したところだった。タイミング良く三人は上りのロープウェイに乗り込み、席へ座る。後ろからカップル達が乗って来てぐらぐらと揺れる。カップルの中の女性達がきゃー怖いなどと黄色い声を上げている。全員乗り込んだら、出発した。片道二十分で到着らしい。夕海は揺れるロープウェイが正直怖かったので黙って二十分やり過ごす。綿谷と田中ちゃんは談笑している。漸く山頂付近に到着したので、乗客は皆降り始める。地味に降りる時が夕海にとって一番の恐怖体験となった。到着してからカップル達がドスドスと降りるのだが、その振動でロープウェイがこの上なく揺れる。きゃー怖いなんて言いつつ本当はぶりっこしていたカップルの片割れの女性達は平気な顔で揺れるロープウェイから降りて行く。本当に怖ければ夕海の様に身動きが取れなくなる筈だ。そんな中、綿谷と田中ちゃんは立ち上がり降りようとしている。遅れないように勇気を出して夕海も続く。

「ねー夕海、あんたさっきロープウェイ乗ってた時ずっと無言だったけど、どうしたの?」

「あ、そういえば荒木さんずっと何も言わなかったね、体調でも悪いの?」

「いや、あの、カップル達が揺らすから怖くて…」

 吹き出す田中ちゃんと綿谷。

「なにあんた、ロープウェイが怖かったの?」

「いや、まあ確かに揺れは強かったよね。荒木さん、もしかして遊園地の絶叫系の乗り物ダメなタイプ?」

「降りる時に揺らされたのが一番怖かったよ。私は最後に遊園地に行ったのは幼稚園の時だったので絶叫系がダメかはわからないです」

「そうなんだ、私は絶叫系大好き!」

「俺も俺も!今度遊園地行くのもいいですよね!」

 のんきな二人に嘆息する夕海。それよりも紅葉だ。周りを見渡すと何と見事な景色ではないか。遊歩道が整備されているので歩く事にした。色とりどりの景色に感動する三人。お弁当を持って来て食べれば、とても美味しく食べる事が出来たであろうが、少し肌寒いのでランチを別の場所にしたのは綿谷の英断だったと言える。

「地元を離れて随分経つけど、山は良いね、気分が落ち着くし凄い綺麗だし」

「あたしもなんか懐かしくなっちゃった。でも、もう地元には帰りたくないけどね」

 田中ちゃんと談笑する。

「二人とも!ここ!ここから見て!」

 綿谷に促されて見てみると、大きな湖が見えた。大きな赤い橋も掛かっており絵になる風景。夕海も田中ちゃんも無言で写真を撮り始める。そんな中綿谷は自動販売機からお茶とコーヒーを買ってきて二人に手渡す。

「凄い絵になりますね」

「そうだね、俺は何度も来てるけど、ここからの眺めは最高だよ」

「あたしの地元は山だらけだけど、ここは絶景だわ!」

 三人は言葉を交わす。十分に紅葉を堪能するために、綿谷が提案する。

「あそこの橋まで行ってみますか?」

「そうだね!あたし行ってみたい!」

「折角なので私も行きたいです」

 一行は橋の上を目指して歩き始める。二十分程歩いて橋の上へと辿り着く。周りは山があり、その中にぽつんと大きな湖。橋の上から周りの景色を眺めると、これまた先程とは別の景色が見えて新鮮だ。夕海も田中ちゃんもまたスマートフォンを取り出し写真を撮る。湖を覗き込むと吸い込まれそうな程だった。魚も泳いでいるのがみてとれた。こうして十分に山と景色を堪能した三人は下りのロープウェイに乗るために来た道を戻る。下りのロープウェイは混んでなかったので揺れが少なかった。夕海と田中ちゃんは熱心にお喋りを楽しみ、綿谷もそれに参加してくる。片道二十分掛けて麓まで戻ると、駐車場に向かう。時間はもう十二時半を過ぎていた。

「じゃあちょっと遅くなったけど、ランチに行きましょう!ここから三十分位の場所に美味しいオイスターバーがあるんですよ」

 綿谷は急いで発進する。どうやら予約などはしていないのであろう、ランチタイムの時間に滑り込むようにしてオイスターバーに到着した。お昼時なので混んでいるが、十五分程待って居たら席が空いたようだ。このオイスターバーには、生牡蠣は勿論、焼き牡蠣、その他ガーリックソテー等、アレンジメニューと共に牡蠣以外の海鮮料理も充実していた。ランチのコースがお得らしいので、三人はコースにした。

「いや、マジで超美味しんだけど!栄君、良い店に連れて来てくれてありがと!」

「割とここ、隠れた名店なんですよ。産直の海鮮類をお手頃価格で食えるし!」

「私もこんなに美味しい牡蠣食べたの初めてです」

 三人はコース料理を順調に食べ進めあっという間に食べ終わった。食後のドリンクもランチコースのセットに付いていたのでドリンクを飲みながら三人で話す。

「いやーほんと、栄君に任せて正解だったわ!今日はめっちゃ楽しいし!」

「意外にもこんなに楽しいとは思ってませんでした」

「あはは、美咲さんありがとう。荒木さんは俺の事どういう風に思ってたの?」

 苦笑しながら綿谷は言う。

「いえ、紅葉とか、グルメとかそんなに頓着なさそうに見えたので」

 夕海は笑いを堪えつつ言う。

「あ、酷いなあ!そういうの偏見だよー!」

「ま、栄君にデートプランニングの能力があるのが分かって安心したよ。夕海、付き合うならデートは楽しいよ!」

「だからなんでまた、そっちの方向に持ってくのよ!折角楽しい気分が台無しじゃない!」

「俺と付き合う事考えるのってそんなに嫌なの?傷つくなあ」

「あ、いえ、そこまでではないんですけど、そういう煩わしい…いや、なんていうか…」

 あっはっはと笑う田中ちゃん。綿谷はいつもの調子で軽口を叩いていたようだ。一瞬、真面目になった夕海も馬鹿らしくなってしまった。

「ねえ、もうそろそろ出ない?あたし煙草吸いたいんだけど!」

「そうですね、出ましょうか」

「私はここの支払い、自分でしますからね」

「えー気を遣わなくて良いのにー。俺が出しますよ」

「まあまあ、栄君、夕海は奢られるの好きじゃないみたいだし、あたしもここは自分で出すし」

「えー、なんか悪いですよお。龍さんに叱られないかなあ」

「たっちゃんは大丈夫だから!あたしも栄君に負担掛けるの悪いと思ってるし、ここはね?」

「むう、分かりました」

 結局、支払いは各自行った。急いで車に戻り煙草を吸う三人。

「いやー満腹だわ。で、栄君、これからどうすんの?お開き?」

「そうですねえ、美咲さんや荒木さんはどうしたいですか?」

「あたしはちょっと服とかみたいかな?夕海は?」

「私は別にないけど…」

「たまにはブラブラするのも良いと思うけど?夕海は欲がなさすぎよ!」

「買い物なら俺、荷物お持ちしますよ!」

 とりあえず、夕海を置き去りにして会話を進める二人。ここまで来たら、流れに身を任せるしかない。

「あ!そうだ!ウチに来ない?スイーツとか買ってウチで映画観たりしようよ。たっちゃんも帰ってきたら夕飯も一緒に食べられるし!」

「それ良いですねえ!結構歩いたし、ゆっくりできますもんね!ナイス案ですよ美咲さん!」

「そうそう、ついでに服もチラッと見て、買い物してからって事で!」

「田中ちゃんの新居にお邪魔した事ないから私も行ってみたいかも」

「ね!夕海もそう言ってくれてるし、決定ね!」

 煙草を吸い終わり、デパートまで車で向かう。田中ちゃんの服も買い、デパ地下スイーツや他のお菓子を買い込む。ついでにと、夕飯用にお惣菜も買い込んだ。そこからは綿谷の車で田中ちゃんの家まで向かう。田中ちゃんの家はオートロックのマンション。エレベーターは勿論ある。部屋まで案内される二人。

「お邪魔しまーす」

 夕海と綿谷の声がシンクロする。

「どうぞ!遠慮せず寛いでね!」

 ダイニングキッチンがあり、リビングとその他二部屋あった。

「じゃあ、適当な所に座ってて!今コーヒー淹れるから!」

 初めてお邪魔した家なので少し居心地が悪い二人。田中ちゃんに促されて座ってはみるが落ち着かない。リビングの真ん中にはテーブルが置いてありソファもある。テーブルの隅の方に夕海は座り、対面に綿谷が座る。そうして居る内に田中ちゃんが手早くコーヒーを淹れて持ってきた。

「ごめんねえ、ゴチャゴチャしてて。まさか今日ウチに集まるとは思わなくて!なんか恥ずかしい!」

 コーヒーを受け取り飲み始める。綿谷はミルクと砂糖をたっぷり入れてかき混ぜる。暫くは談笑する三人であったが、映画を一本観終わった所で一服する事にした。煙草を吸いつつ先程観た映画の感想を言い合ったり雑談しているとあっという間に十八時前になっていた。

「龍也さんはまだ帰ってこないの?」

「たっちゃんは今日は帰ってこないよ!友達と釣りに行ってる!だから今日はいつ帰って来るか分かんないんだよね。そろそろ連絡はあると思うんだけど」

「にしても、腹空きましたねえ。でも、龍さんナシで食うのもアレですよね」

「待って、連絡してみる」

 そう言って田中ちゃんはスマートフォンを手に持ちメッセージを送る。タイミングが良かったのか、龍也からの返事がすぐあった。

「なんか、釣った魚を友達の家で食べながら飲むって!今日は帰ってこないかも!」

「ありゃ、それは淋しいねえ」

「龍さん帰ってこないのか、残念だなあ。色々話したかったのに」

「てことで、うちらも夕飯食べようか!なんなら泊まって行っても良いし!」

「夕飯は食べるけど、私は泊まれないよ。薬が家にあるし」

「あ、そっか!じゃあ、ゆっくりしてってよ。帰りは栄君が勿論送ってくれるだろうし」

「任せて下さいよ!」

 そうして、夕飯となった。デパートで買った数々の総菜を温めてお皿に並べる。汁ものは田中ちゃんの手作りで追加された。三人ともデパ地下グルメを堪能して、雑談をする。テレビを観ながらお喋りをしているとあっという間に時間が過ぎた。そろそろ二十一時だ。夕海はもう帰らないといけない。

「じゃあ今日はここら辺でお開きって事で!」

 田中ちゃんが言う。挨拶もそこそこに夕海と綿谷は田中ちゃんの家を後にする。二人で車に乗り込み夕海宅へ向かう途中、綿谷が話しかけてきた。

「いやー、今日は本当楽しかったね。でも、荒木さん的には美咲さんとの遊びのつもりだったから俺、邪魔だったでしょ。ごめんね。次の機会は俺出しゃばらないからさ」
「そうですね、でも、今日は楽しかったので良いですよ。それより、何分位で私の家に着きますか?」

「んー車だと三十分位だね。それより、俺との事なんだけど…」

「なんでしょう」

 構える夕海。

「前に言った事、撤回させて貰って良いかな?」

「どの発言をですか?」

「付き合うなら俺がリザーブさせてってやつ。今考えると逆に荒木さんを縛ってるし、プレッシャー掛けてるみたいで良くないって思い直したんだ。それに、俺はお試しなんかじゃなくて付き合えるなら真剣に付き合いたいから」

「その件ですか。そうですね、私もお試しとか不誠実な付き合いは考えてなかったので丁度良いです」

「俺も、真っ当にアピールして、荒木さんに認めて貰いたいからね。やっぱまだガキなんだな、俺って」

「そうですね、お試しにとかリザーブとか軽いノリでお付き合いがしたいって人なんて不誠実の塊そのものですから」

「ははは、だよね。ごめんなさい。でも、気持ちだけは本気なんだ。そこは解っていて欲しい」

「本気…ですか。本気ならお試しとかリザーブとか言わないと思うんですけど」

「いや、本当にごめんなさい。俺、つい前のめりになり過ぎててさ。でも、美咲さん達見てたら俺もちゃんと一人の人間として、大人として荒木さんに見て貰いたいって思ったから。だから撤回します」

「はあ、そうですか。私は別にどうでもいいですけど」

「どうでもいいか。そっか」


 

 ははは、と笑う綿谷。しかし、夕海にとっても綿谷の気持ちの変化は有難かった。夕海も僅かではあるが、綿谷との未来を考えては居た。試しに付き合うなんて出来ないが、付き合うなら綿谷という重荷がなくなったのでスッキリした。そうして夕海の自宅アパート前に到着した。

「じゃあ、おやすみ!」

「お疲れ様でした。おやすみなさい」

 家に着いた夕海は部屋着に着替えリラックスするために暖かいお茶を淹れる。帰り際の綿谷の言葉で綿谷に対する気持ちが楽になった。これからもフラットな状態で上手くやっていけそうだと思った。早朝から出かけて居た事もあり時間も遅いので、寝る前にシャワーだけ浴びて床につく。今日は色々な事があったが、綿谷のプランニングと田中ちゃんの提案で濃厚な一日になった。身体は疲れていたが、心地よい疲労感と共に眠りにつくことが出来た。

 

 それから幾日か、夕海は今まで通りの日常を過ごした。アルバイトへ行き、家に帰る。休日はゆっくりと過ごす。たまに田中ちゃんとメッセージを送り合ったり、お茶したり。特にこれと言って特別な事はなかった。季節は冬になり、その年の冬は頗る寒かった。それでも夕海は欠勤せず、出勤していた。いつもの喫煙所で綿谷と話をする。

「会社でついにインフル感染者が出たみたい。濃厚接触者も居るし、倉庫内にも感染者出たらしいから気を付けた方が良いよ」

「そうなんですね、時期が時期なんでマスクはしてますけど予防接種を受けていないので気を付けます」

「社員は会社から補助が出てるから予防接種も受けてる人多いんだけど、罹らない訳じゃないからね。俺も一応予防接種はしてるけど」

「うーん、私は予防接種はどうしようか考えてます。受けてる方が罹った時に重症化しないで済むそうですし、受けたくはあるんですが」

「そうだよね、今年はどうなるかねえ」

 とりとめのない会話。いつも通りだ。

「そういえば荒木さんはクリスマスに予定ある?」

「特にないですけど、二人きりで会おうとか言う提案でしたらお断りします」

「ああん、察しが良すぎていやん」

「でも、クリスマスですか。確かにぼっちはアレだし田中ちゃんと遊べたらいいかなって思ってます」

「あーそれいいね。でも、新婚さんだから美咲さん達の都合はどうなんだろうね?」

「それなんですよね。こちらから誘っても迷惑になっちゃいけないし、まあ、私はマイペースに過ごしますよ。クリスマスも年末年始も」

「何もする事ないなら俺と遊んでくれても良いのに」

「クリスマスなんて、二人きりで過ごしたら、貴方すぐ勘違いしちゃいそうじゃないですか。そういうの面倒なんで」

「勘違いなんてしないよ!ただ、淋しい者同士で遊ぶのも良いんじゃない?って話だよ」

「そもそもクリスマスって何をする日です?キリスト教徒のお祭りじゃないですか。私はそういうの興味ないんで。せいぜいケーキの種類が多くなるので買うくらいですかね」

「じゃあケーキを一緒に食べようよ。何号が良い?」

「号単位で聞かれても、二人で食べるのならホールケーキはいらないでしょう?」

「なんか、ピース単位だとしょぼくね?写真映えしないし、SNS映えしないじゃん!リア充アピールしたいよう」

「まあまだ二週間も先の事なんで、気が向いたら前向きに考えます」

「そう、そうだね、結論を急いでもね!急いては事を仕損じるから!」

 そろそろ昼休憩は終わるので、二人とも最後の一本に火をつけて吸う。煙が漂う中、クリスマスの予定について夕海は考えてみる。一人でケーキを一ピース買って、ローストビーフにフライドチキン。ぼっちだと虚しいだけだなと思った。だからと言って綿谷と二人きりで過ごすのも考え物だ。勘違いしないにしても、

期待させてしまうのではないのでないか?そう懸念してしまう夕海である。なるべくそんな風にならないように、言動も気を付けて居るのに台無しにしたくない。

「じゃ、仕事に戻るんで」

 煙草の火を消し、喫煙所の出入り口に向かう夕海。

「あ、ちなみに俺のクリスマスから年末年始の予定だけど、いつでもバッチリあいてるから!」

 一緒に喫煙所を出て来た綿谷から改めてしょうもない情報を得て、夕海は嘆息した。

 

 クリスマスまであと一週間。再三、綿谷から誘いの声がかかっていたが、夕海はいつもどおり躱していた。

『夕海はクリスマスどーするの?』

 田中ちゃんからメッセージが届く

『今のところは特に予定ないんだよね。田中ちゃんは新婚だしディナーでも行くの?』

『うちはね、お披露目も兼ねてパーティーするよ!そんでね、夕海もどうかなって思ってるんだけど、どう?』

 パーティーとなると人が多く集まるのかな、と夕海は少し躊躇する。皆、お酒を飲むだろうし気疲れしてしまいそうだ。返信内容を考えていると田中ちゃんから更にメッセージが届いた。

『でね、渡辺さんにも声掛けてみてるのー!まだ返事は来てないけどー』

『渡辺さん!久しぶりに会いたいねー。パーティーはどこかお店でやるの?』

『たっちゃんの友達が経営してるバーでやるの!てか夕海、栄君と予定あるのかと思ったのにー』

『またそういう事言うー。田中ちゃん、綿谷さんに何か変な事吹き込んだりしないでよね?』

『変な事なんて何も言ってないよ!まあ、相談には乗ってるけど、でも変な事は言ってないから安心して!』

『ならいいんだけど。そっかー田中ちゃんのパーティーかー。バーでやるんだったらお酒飲むんだよね。薬とかあるしどうしようかなあ』

『夕海はソフドリで良いじゃん。烏龍茶とかトマジューもあるよ。料理はなくて、スナック系のおつまみが出るんだけど、夕海が来てくんなきゃたっちゃんの友達だらけになっちゃうからなんかアレなんだよね。あたし地元の友達ブッチしてるし』

『うーん、なら顔を出すくらいならしようかな』

『オッケ!じゃあ、送り迎えは栄君に頼むから!』

『ちょっ、なんで綿谷さんが出てくるの?私は住所さえ教えてくれたら一人で行くよ』

『だって、栄君にも声掛けてんだよね。夕海が参加するなら栄君も来るだろうし!』

『ええ…。まあ考えように拠っては二人きりにならなくて済みそうならそれもアリか』

『夕海も栄君からしつこく誘われて困ってるなら丁度良いと思うけど』

『じゃあ、ちょっとだけ顔みせるだけって感じで参加するよ』

『ありがとう!詳しい日時は決まってからまた連絡するね!』

 田中ちゃんとの遣り取りは一応終わったが、また綿谷がおまけに付いて来る。どうやっても避けられない事が夕海を落胆させる。なんで休みの日まで綿谷と会わなければいけないのか?送迎も頼むと田中ちゃんが言っていたが、それもおせっかいと云うものだ。とりあえず、パーティーには参加はするが、行き帰りの綿谷の送迎は断ろうと決心した。夕海としては二人きりになるのはもうごめんだ。田中ちゃんは渡辺さんにも声を掛けていると言っていたので、パーティーで渡辺さんに再開出来るのは楽しみではある。パーティーなので、お洒落をしなければいけないのだろうか?多分、皆着飾ってくる筈だ。夕海はパーティー用の服を持っていないので用意しなければならない。痛い出費だが、田中ちゃん達をお祝いするのだからと納得する夕海。

エッセイ中心でノンフィクションの創作を中心に書いていきたいと思います。 昭和58年生まれなので、時代的に古いかもしれませんがご興味あれば! 機能不全家庭・暴力被害・LGBT・恋愛・インターネット・いじめなどなどetc もしよろしければ、拙文ご一読頂ければ嬉しいです。