見出し画像

スケープゴート -07-

―迷走―

 

 

 渡辺さんに相談してから、夕海は綿谷と少しギクシャクしてしまっていた。渡辺さんがあんな事を言うものだから、夕海は変に意識をしてしまい余計におかしな言動になっていた。綿谷もそれには気づいては居たが、別に気にしていない様子でいつもの調子で話掛けて来る。彼のそういう所には助かっている夕海だが、自分自身がコントロール出来なくて煩悶としていた。

「それで、課長がさー、IDカード作ってくれって言って来たのは良いんだけど、送られて来た写真がさあ入社時のものなんだよね。課長ってば今は頭ツルツルなのに、入社時の写真がフサフサでどうしようかと思ってさー。笑えるし、その写真使って今現在の課長として認識されるのか疑問に思って困ったんだよねー」

 いつも通りケタケタと笑いながら綿谷は言う。夕海はと言えば、綿谷と一緒に居るというのに上の空で窓の外を見ていた。

「あ、すみません、聞いてませんでした。課長がーってお話でしたよね?」

「うん、課長は今ハゲなのに、IDカード作るのに入社時のドフサの写真を送って来たの!ウケない?」

「あはは、それは困りますよね」

 なんとか返事をする夕海。

「荒木さん、最近変だよね。話しかけても上の空で…なんか悩みでもあるの?」

「いえ、特にそういう事ではないんですけど…」

「そっか!まあ、テンションが上がらない時は誰にでもあるよね!でも、悩みがあるなら俺で良かったら聞くよ!いつでも言ってね!」

 目下、悩みの原因はそう言う綿谷との関係の事なのであるが…。本人は知る由もない。

 

 とある土曜日。夕海は平日しかシフトを入れていないのでアルバイトは休みだ。いつもの通り、音楽を聴きつつ読書をしていると、スマートフォンに通知が来た。綿谷からのメッセージであった。

『もしもし、私リカちゃん。今あなたの家に向かっているの』

『何の冗談ですか?』

 夕海が返事をするも、何も言ってこない。それから三十分位経って、またスマートフォンの通知が鳴った。またしても綿谷からのメッセージだ。

『もしもし、私リカちゃん。今あなたの家の前にいるの』

『だから、なんですか?』

 夕海はイライラしながら返事をする。そうしていると、いきなりスマートフォンの着信音が流れ始める。慌てて電話を取ると、

「あ、オレオレ、栄でーす!」

「さっきからなんなんですか?変なメッセージを送ってきて、それに電話まで」

「荒木さんの部屋から見えるかなあ?俺今、荒木さんの家の前に居るんだよ」

 そう言われ、カーテンを開けて外を見る。すると見た事のあるラシーンがアパートの外に停まっていた。

「え、なんで?どうしたんですか!?」

「いや、なんとなくドライブしてたんだけど、会いたいなあって思って。これからどっか一緒に行かない?」

「ちょっと待って下さい!いきなりそんな事言われても困ります。今日はゆっくり過ごそうと思っていたし、外出するならそれなりの準備が」

「俺、外で待ってるからゆっくり準備していいよ!じゃあ、待ってるから!」

 ツーツーツーと電話が切れた音がした。全く何なのだ彼は!そう思いながらも待っていると言われたら、準備をして彼の元へ行かなければならない。いつも強引なのは綿谷の専売特許だ。夕海は毎回振り回されるだけ。仕方なく、急いで準備をして綿谷の元へ向かう。コンコンとラシーンの窓を叩いて綿谷に合図を送る。綿谷は転寝していたのか、ハッと目を覚まして夕海の方を見る。すると笑顔になって、運転席から降りてきた。助手席側に回って、夕海の為に助手席のドアを開ける。促された夕海は何も言わず、助手席へと納まる。ゆっくりとドアを閉めて綿谷は運転席へ戻ると、CDをカーステレオに挿し込んだ。何やら今流行りの恋愛ソングが流れ始める。夕海はなんだか嫌な予感がした。

 

 ラシーンは少しスピードを出して走っている。運転している綿谷といえば他愛のない話をしてくる。いきなり呼び出されて、車に乗せられ何処へ連れていかれるのか、夕海はまだ綿谷から聞かされていない。

「今日は一体なんのつもりですか?会いたいからって、アポなしでいきなり家の前まで来ないでくださいよ!」

「ごめん!会いたいってのも本当なんだけど、実はライブのチケットが余ってさ!本当は友達と一緒に行く筈だったんだけど、インフルエンザになっちゃって一緒に行けなくなって…」

 おもむろにライブのチケットを夕海に一枚手渡して来る。どうやら、とあるポップスミュージシャンのライブチケットのようだ。夕海としては嫌いではないアーティストだったので別にそれは構わない。だが、

「じゃあ、それならそうと、メッセージの段階で言ってくれたら準備もして待っていたのに!」

「えー、だって荒木さんは普通に誘ったら断るじゃーん」

 膨れる綿谷。確かにそうだ。ここ最近夕海は綿谷との関わり方が判らないで居たので微妙な距離感で接していた。綿谷もそれには気づいては居たが特に何という事もなかったが、気にしていたようだ。

「なんか、最近の荒木さんがよそよそしくて気になってたんだ。何か悩みがあるのかなあとか思ったけど、そういう事、君は言ってくれないじゃない?だから思い切ってライブに連れてく事にしましたー」

 得意げに綿谷は言う。

「そんな気を遣って頂かなくても良かったのに。それに私は今までも最近も特に悩みがある訳ではないですし、普通でしたよ」

 平然と嘯く夕海だが、綿谷に見透かされている事に対してはバツが悪い思いだった。

「でも、そうですね…、気分転換にライブに行くのは楽しいかもしれません。ちゃんと段階を踏んでからの話ですけど」

「ははは、ごめんごめん。今回は本当偶然でさあ、一緒に行く奴が突然行けないってなってチケットもう一枚どうしようかなって思ってたら閃いたんだ。これは荒木さんを誘ってライブに行けという神様の思し召しだってね!」

 夕海は深くため息をつく、

「そういうの良いですから。所でどこまで行くつもりなんですか?」

「車で二時間程の場所に野外ライブ会場があるから、そこに行きます!オールスタンディングのライブだよ!」

 へえ、そうなんだ。そう思った夕海だが、これから二時間も綿谷とくだらない話をしなければならない事実に辟易した。

「まあ、細かい事はどうでも良いです。どうせ貴方にそういうのを求めてもまともな返事はくれませんし」

「え、なにそれえ、俺ってば割と繊細なのよ!気にしいだからもっと優しくしてよー」

「はいはい、”優しく”ですね、了解です」

 そうして二人はライブ会場への道のりを車で進んでいく。途中でトイレ休憩を挟みつつ、コンビニで飲み物を買い、車内では益体もない会話をしていると二時間の道のりはあっという間に過ぎて行った。

 十六時頃にライブ会場に到着した。会場は十八時、ライブ開始は十九時からなので時間に余裕のある二人は車をコインパーキングに停めてから、周辺をブラブラする事にした。幸いライブ会場の近くには繁華街があり、暇潰しにはもってこいだ。一通り繁華街を眺め歩いて二人はチェーンのカフェに入る。

「はー、一息つけた!」

 カフェの喫煙室の椅子にドスンと座る綿谷。夕海もテーブルを挟んで綿谷の対面に腰を下ろす。

「これからライブだってのに、今から疲れてたらもちませんよ」

「えー、でも荒木さんだって楽しんでたじゃない。それに普段から俺はジムに通ってるって言ったでしょ?これ位なんでもないよ」

「あーそうですか」

「にしても、今日は天気も良いし、野外ライブには持ってこいだよね。ちょっと天気が良すぎて暑いのがアレだけど」

 綿谷はそう言い、二人は煙草に火をつける。現在の時刻は十七時。

「そういえば、ライブの開場は十八時ですけど並ばなくて良いんですか?場所取りとか色々あるでしょう?」

「いやー、別に最前列で絶対見なきゃいけない訳でもないし、ゆっくり準備して開場時間過ぎてから入っても大丈夫だよ」

「そういうものなんですか?意外とこだわらないんですね」

「チケットがあれば必ず入れるし、小さい箱でのライブでもないしね。音響とかは多少は気にするけど、場所はこだわらないよ」

「そういえば会場は何人位のキャパなんですか?」

「五万人!勿論、キャンセルがあるだろうし、そんなに人は来ないと思うけどね」

 アイスコーヒーを飲みながら答える綿谷。それを聞いた夕海は気持ちが萎えて行っていた。夕海は人混みが大嫌いなのだ。大丈夫だろうかと不安になっている夕海の表情に気付き、

「大丈夫大丈夫!人が多くて危ない事になっても俺が身を挺して守るから!」

「そう…ですか」

 煙草を一吸いし、煙を吐き出す。守ると言われても、人が多い事には変わりがないので夕海は嬉しくもなんともない。つい、はあ、と溜息をついてしまった。

「じゃあ、やめとく?荒木さんが本当に嫌ならライブなんてどうでも良いし。予定変更してまったりデートとかでも俺は良いんだよ」

「いえ、チケットが勿体ないですし、行きます」

 どうせライブなんて二時間程度、その間立って居るだけで良い。音楽と歌声を聴きながらただ時が過ぎるのを待てば良い。そう自分に言い聞かせて答えた。

「まあ、そんなに構えなくても案外楽しめるかもしれないよ?食わず嫌いせずさあ」

 本当にこの人は…、無責任に決めつけてくる。当の夕海はライブなんて今まで一度も行った事もないので未知の世界でしかないのに軽く言い放つのだ。

「普段から聴いてるんで楽しみではあるんですけど、ライブが初めてなんで場の雰囲気について行けるかが心配なだけです」

 強がってみせる夕海。

「まあ、そうかもねー。ライブ会場独特の雰囲気とかあるしねー」

 飲み干したアイスコーヒーの氷をストローでカラコロと突きながら綿谷は答える。

「物販とか興味ある?買うなら早めに行って並んでた方が良かったんだけど、もうこんな時間だし…」

「いえ、そこまでは考えていませんでした」

「そっか、よかった」

 そろそろ開場時間が近づいてきたので二人は身支度を整えてカフェを出る。カフェを出てから十五分程度歩けばライブ会場だ。二人は肩を並べて歩く。その間に綿谷は、今まで参戦したライブの事や今回のライブで楽しみにしている楽曲の事について語りながら足を運ぶ。夕海もそれなりに相槌を打ちつつ、歩幅の広い綿谷に付いて行く為に頑張って早歩きで歩調を合わせる。

 ライブ会場に着いたのは十八時過ぎ。会場周りには既に長蛇の列が出来ていた。あまりの人の多さに夕海は内心げっそりとしてしまっているが、綿谷は慣れた様子で列の最後尾に向かって行く。それに遅れないように早歩きで付いて行く。列の最後尾に着いてからは入場までの間を二人で待つ。順番に列は流れて行って三十分掛けてやっと会場内に足を踏み入れることが出来た。会場内は人が多く、行きかう人々とぶつかりそうになる。すると綿谷が突然夕海の手を握ってきたので何事かと思った。

「はぐれたらいけないから!」

 そう言って夕海の前を歩き進めて行く。流石にライブ慣れしているのか、上手く人混みを避けてスイスイと歩いて行く。夕海が人にぶつかりそうになるとサッと手を引いてブロックしてくれる。初めて綿谷の事を頼もしいと感じる夕海であった。順調に会場内を進んで、場所取りを終える。綿谷がリュックから飲み物を取り出す。

「今日は暑いから、水分はこまめに摂って!まだまだあるから心配しないで!」

 会場内の喧騒の中、爽やかに笑いながらお茶のペットボトルを手渡して来る。

「ありがとうございます。なんかリュックがパンパンで重そうだなあと思っていたんですが、飲み物を入れてたんですね」

「そーそー、暑いとキンキンに冷えてるのを飲みたくなりがちだけど、身体には良くないんだよ。だから出発前に買っておいて敢えて温くしてるんだ」

 蘊蓄を垂れる綿谷。リュックをぐいっと開いて見せてくる。

「へーそうなんですね。って、これ!経口補水液まであるんですか?」

「脱水症状になったら大変でしょ!常識だよ!」

 そういうものなのかあ、そう思いながらお茶のキャップを開けて一口飲む夕海。ライブ開始は十九時からなので始まるまでの間は談笑する二人。そうこうしていると、大きな音が鳴り響くと共にライブがスタートした。

 

 ライブが終わり、会場を後にする二人。入場時を同じく手を繋いだ状態で歩みを進める。夕海ももう慣れてしまっていたのか抵抗なく従い歩く。漸く会場外に出ると夕海は繋いでいた手をパッと離す。綿谷は促すように歩き出す。ライブ会場近くにあるコインパーキングまで向かった。車内に入り、運転席には綿谷、助手席には夕海と納まる。シートベルトを締めたのを確認してから車を発進させる。時間はとうに二十一時を超えていた。普段なら夕海は夕食を摂り、食後の服薬をして入浴する時間だ。ライブの最中は気にならなかったが夕海はお腹が空いていた。ぐうとお腹が鳴る。夕海は恥ずかしくなってしまい誤魔化そうとする。

「ライブなんて初めてでしたけど、大音量で聴けるのは中々良かったです。普段はCDで聴いてたので全然違ってて良い経験になりました」

「そっか、楽しんでくれたんなら嬉しいよ。俺も大音量で聴くのが好きだし、腹まで響く感じが病みつきになってんだよね。それより、飯どうする?」

 夕海のお腹が鳴っていた事にはバッチリ気づいていた綿谷。夕海はもう開き直るしかなかった。

「そうですね、お腹が空いているので何か食べたいんですけど、ここら辺の飲食店について詳しくないので…」

「そうだなあ、俺も何回か来てるけど車じゃん?気分的には居酒屋で一杯やりたい所なんだけどそういう訳にも行かないからね」

 うーんと悩む二人。結局はイタリアンのファミリーレストランに行く事にした。どこにでもあるが、味も良く解っているしお財布にも優しいレストランだ。店内に入り、張り紙を見ると『店内禁煙』と書かれていた。

「えっ!いつからここ禁煙になったの!?嘘だろ!」

「あ、ほんとですね。禁煙になったんだ。今までは分煙してたから吸えたのに…」

「どうする?店変える?」

「いえ、別に良いですよ。ご飯食べるだけですし長居はしないでしょうから」

「そだな、腹も減ってるしなあ。とりあえず食いますか!」

 店員に案内されてテーブル席に着く。各々にメニューをみて料理を注文する。

「ねえねえ、サラダも頼んでいい?シェアしようよ!」

「そうですね、生野菜も食べたいですし、良いですね」

 うんうんと頷く綿谷。矢継ぎ早にメニューを夕海に向けて見せてくる。

「あと、このエスカルゴ!食べた事ある?俺無いんだよねー」

「ああ、エスカルゴ。人気ですもんね。残念ながら私も食べた事ないんですよ」

「じゃあこれも頼んでシェアしよう!」

 ルンルンと呼び鈴を鳴らし店員を呼ぶ。メインの料理とサラダ、エスカルゴを注文する。飲み物は二人ともドリンクバーにした。

「ここグラスワインとかあるから飲みたいなら頼んでも良いよ!運転手の俺なんかに気を遣わないで!」

「私、アルコール飲めないんです」

「あ、そうなの?じゃあ居酒屋とか行かないの?」

「飲み会とかなら行きますけど、ソフトドリンクオンリーです」

 アルコールが飲めないのは普段服薬しているからで、下戸だという訳ではない。でも面倒なのでそういう事にしておいた。綿谷がおもむろに席から立ちあがる。

「荒木さんは飲み物何が良い?」

 どうやらドリンクバーへ飲み物を取りに行ってくれるようだ。

「あ、いいです。自分で行きますから」

「いいのいいの、ついでだしね!で、何が良い?」

「じゃあアイスカフェオレお願いします」

「了解!」

 そう言うとドリンクバーのエリアに向かってドスドスと歩いて行った。その姿を見送り、ふと我に返る夕海。なんだかんだで、綿谷とライブへ行き一緒に食事をする事になっている。渡辺さんが言っていた言葉が頭を過ぎる。”貴女は彼に恋愛対象として見られてるのよ!”まずいなあ…そう思う夕海。今日の二人はまるでカップルのデートではないか!流石にこれは綿谷が勘違いしてしまうのも仕様がないと自省する夕海。今更だけど、その気はないと伝えた方が良いだろうか?でも、もし勘違いであったとしたら、それはそれで恥ずかしい事にもなる。夕海は思わず唸る。どうしよう?そうこう考えていると綿谷がドリンクを両手に席に戻ってきた。

「はい、カシオレ!」

「変な言い方しないでください!アルコールじゃないんですから!」

 ドリンクとストローを受け取る。そしてストローの包装を千切り取り出しグラスに差す。まずは考えを整理しなければ!と夕海はカフェオレを口に含みゆっくりと飲み干す。とはいえ、全く考えが纏まらない。どうすればいいか皆目見当が付かない。そうしていると、注文した品々が順番に運ばれて来た。まず、サラダを取り分けて食べ始める。メインの料理も食べつつ、どうにかしなければと夕海は思う。もう料理の味も感じられなくなっていた。

「ねえ、エスカルゴ食べないの?」

 はっと、我に返る夕海。

「ああ、エスカルゴ…。忘れてました」

 とエスカルゴを口に運ぶ。うっと呻く夕海。

「うわっ、これ、ちょっと私は苦手かもしれないです。においがちょっと…」

「え、マジで!?」

 綿谷もエスカルゴを食べ始める。もぐもぐと味わうように咀嚼する。

「あれ?これ、美味しいじゃん!俺は好きだな」

「本当ですか?私には独特の風味というかにおいが受け付けられません」

 ふうんと言いつつ綿谷は次から次へとエスカルゴをもぐもぐと食べる。

「荒木さんが苦手なんだったら、俺が食うよ。その代わりにサラダ食う?」

「そうですね、頂きます」

 

 相変わらず綿谷は食べるのが遅い。夕海もゆっくりと食べている筈なのだが、綿谷が食べ終わる前に完食してしまった。食後の煙草が吸いたい夕海であったが、ドリンクバーのホットコーヒーを飲みながら綿谷が食べ終わるのを待つ。漸く綿谷が食べ終わるのを確認すると、

「すみません、煙草が吸いたいんですが…」

「ああ、おっけおっけ、俺も食後は直ぐに煙草吸いたいし!出よっか!」

 伝票を持って綿谷は立ち上がり、レジへと向かう。その後を追うように夕海もそれに従う。

「お支払いは別々にしますか?ご一緒ですか?」

「一緒でお願いします」

 綿谷は言う。夕海はというと、財布を取り出していた所だった。

「ここは、私が払いますよ」

「いいよ、計算面倒くさいし。それに、そんなに高くないしね」

 夕海を制して綿谷は支払いを済ませて店外へと向かう。車内に戻ってようやっと煙草が吸える二人。煙草に火をつけ吸い始める。夕海はまた思案する。彼氏・彼女でもないのに、こう頻繁に奢られるのも良くない。だから、今日こそはせめて自分が食べた分の金額だけは綿谷に渡さねば、

「奢って貰ってから言うのもなんですけど、やはり自分の食べたもの位は自分で支払いたいです」

「えっ、気にしなくていいってさっきも言ったじゃん」

「すみません、それでも私、嫌なんです。ライブのチケット代だって払ってないし、お食事まで負担して頂くのは我慢できません」

 そう夕海が言うと栄は、先ほどの支払いのレシートを取り出し計算を始める。

「シェアしたサラダとエスカルゴは俺持ちってことで、メインの料理の料金だけで良いよ。それにエスカルゴはほとんど俺が食べたしね」

 にこっと笑いながら綿谷は夕海からお金を受け取る。夕海はとりあえずほっとした。これで良いのだ。

 

 そのまま二人は帰路についた。車で二時間程度、夕海の自宅前に着いたのは午前零時を過ぎるころだった。

「それじゃ、今日はありがとうございました。ライブ楽しかったです。それでは失礼します」

「お疲れー!今日は本当、楽しかったよね。また良かったらこうやってデートに誘っても良いかな?」

 夕海は少し考えて、ここは否とはっきり答えて良いのかがわからないでいた。夕海が何も言えないでいると、

「まあ、俺は神出鬼没だし、またこういう事になった時はよろしく!それじゃまたね!おやすみ!」

 微笑みながら綿谷は言う。こうして二人は別れた。漸く自宅へ戻ってきた夕海は、最低限その日分の服薬をするとそのままベッドに倒れ込んだ。刺激の強い一日だったなあと思いつつ、今日の出来事を反芻する。今日のライブはデートだったのか否か。綿谷の友人の変わりにただ着いて行っただけなのか?そこら辺を綿谷はどう思っているのか。別れ際、またデートに誘っても良いかと問われたのだから、やはり今日はデートだったのか…。そんな事を考えてはいた夕海だが、この日は色々な事が有り過ぎて疲弊していたのか、いつの間にか眠りについた。

 ライブから数日間、夕海の体調は芳しくなかった。アルバイトも欠勤し、ずっと家に引きこもって布団の中で丸まっていた。そんな夕海の異変を察知したのか、綿谷からのメッセージが何件も届いているようだが、現在の夕海には確認する余裕もなく放っておいていた。このままではいけない。そう思う夕海ではあるが、病院へ行こうにも外に出られるほどの気力もない。電話受診だけでもしようか?そう考えてはみるもののやはり、そんな元気は持ち合わせて居ない。まるで入院時に戻ったようだ。今回はソワソワするだとか、呂律が回らない訳でもないが布団から出られない。トイレ等最低限の事は出来るが、ここ数日夕海はまともに食事も摂れていない状況である。なんとかしないと!そう夕海は決心し、身支度を整え、タクシーに乗り病院へと急ぐ。

 

 病院に着くと、予約なしでの診察なので待ち時間が長くなるという事だった。夕海はひたすら待ち続けた。主治医の佐藤に呼ばれたのは到着後、一時間半経過した頃であった。

「こんにちは、今日はどうされましたか?」

「理由は分からないんですけど、体調が悪くて外に出るどころかアルバイトも休んでしまっています」

「ここ最近で何か環境の変化等、心辺りはありますか?」

「そういえば、数日前に職場の知人とライブに行きました」

「その他に何か変わったことはありますか?」

「職場の喫煙所に通うようになり、今までより職場の人と関わる機会が増えたと思います」

「そうですか」

 佐藤は一呼吸置く。

「荒木さんの場合、今までと環境が変わったことによりストレスが掛かっている状況です。一番の要因として考えられるのは、お仕事をなさっている事によるストレスです。加えて、ライブに行ったりと強い刺激を受けたこともあり、今現在、体調が悪いからといってお仕事を辞めてしまうという選択は性急すぎるのでやめましょう。まず職場の人達との関わり合いを控えてみて、様子を見てみてはどうでしょう?」

「あの、現状が家から外に出るどころじゃなく、布団の中で過ごすほかないんですが…」

「そうですね、ストレスからくるものだとしたらお薬で抑える事は可能です。ですが薬を増やすという事は身体に掛かる負担も増えるという事になるので、慎重に行いたい所ではあります。どうしてもお薬が必要という事でしたら、処方しますが?」

 夕海は考えた。新しい薬を試す。それはいい。だが、入院での経験で何気ない一錠が身体の自由と思考を奪う事も学んでいる。しかしながら、現在のっぴきならない状態ではある。夕海は悩み抜いた末、新しい薬は試さないでおこうと決めた。

「すみません、自分から言い出しておいてなんですが、お薬の処方は遠慮しておきます」

「どうしても必要と感じたら私も処方しますし、荒木さんもそう思われたらいつでもお出しします。何かあったら、また今日のようにご相談に来て下さい」

 

 診察が終わり、特に処方もないまま夕海は家路につく。幸い明日・明後日と土日なので、とりあえず様子をみることにした。来た時と同様、タクシーで家まで戻ると、なんとか部屋着に着替えて床につく。本当になんとかなるんだろうか?不安な気持ちのまま眠りについた。

 

 土日は相変わらず布団の中で過ごすことが多かった。その間、綿谷からのメッセージが何通か届いていたが、夕海は放っておいた。この状態を脱する方が先なのだ。なるべく受ける刺激は少ない方が良い。そう思い、何もかもを放棄し、体調が良くなるように祈りながら眠り続けた。

 月曜日を迎えても夕海の体調は一向に良くならない。この日は出勤日だったが、休むことにした。職場へ電話で欠勤の旨伝えると夕海はまた布団へと潜り込んでいった。一体いつまでのこの状態が続くのだろうと夕海はもう耐えきれないでいた。


 

 あれから数日が経ち、夕海の体調は徐々にではあるが回復していった。どうやら家に引きこもり、布団に潜ってなんとか体調の波を乗り切る事ができたのであろう。アルバイトにも復帰した。長い間休んでしまっていたので、身体が鈍っていたが一生懸命に仕事はこなしていく。医師からの勧めもあり、夕海は当分の間喫煙所へ行く事は控えた。お昼も一人で静かに過ごす。仕事が終わったら、速やかに家路につく。そんな中でも綿谷からのメッセージは届いて溜まっていく一方ではあったがそれも無視した。そうしていると、夕海は以前のような穏やかな日々が戻って来たような気がした。やはり、アルバイトをしている事もストレスだし、綿谷と関わり合いになった事が原因で体調を崩してしまったという事実を夕海は感じていた。もう二度と関わらない方が良いと思い、メッセージの遣り取りもやめてしまおうか?そう考えたが、もう少し落ち着いたら今までのメッセージに対しての返事をしてからフェードアウトする方が良いかもしれないと考えた。ブロックする事は憚られた。何故なら職場で何時何処で綿谷と遭遇するかが分からないからだ。その上、綿谷には夕海の家の住所が知られている。何時襲撃されるかと夕海はビクビクしていた。

 

 その日夕海は、家でゴロゴロと過ごしていた。シフト休なのでゆっくりと過ごしていたのだ。ほぼ以前のように体調が戻ったとはいえ、休息は大切だ。コーヒーを淹れて読書でもしようかと思っていた矢先、インターフォンが鳴った。誰だろう?と不審に思った夕海は音を立てずにひっそりと聞き耳たてた。するともう一度インターフォンの音がなる。新聞の勧誘か何かだろうか?宅配物が届く予定はないし…などと考えていると、

「郵便でーす」

 一言聞こえた。書留か何かだろうか?勿論夕海には覚えがない。だが、郵便と言うからには郵便局の職員が配達にやって来ているのだと思うし、出ても問題ないだろうと考えたので、夕海は玄関までのろのろと身体を向かわせる。鍵を開けてからチェーンロックは掛けたまま扉を開けると、そこには綿谷が立って居た。思わず扉を閉めてしまう夕海。今一番会いたくない人が玄関先に居る。この事実に夕海は正直パニックになってしまった。すると扉越しに声が聞こえてきた。

「あの、ごめんなさい。郵便を騙ったのもだけど、なんか荒木さんを怒らせるような事してたみたいで…」

 シオシオな声で話し出す。

「俺、知らず知らずのうちに荒木さんが不快になるような事言ったりしたかもしれない。でも、許してほしい。出来れば教えて欲しい。ちゃんと謝りたいから」

 いつもと違い神妙な声音で言う綿谷。夕海は少し後ろめたいような気持になった。こちらの勝手な都合で、喫煙所にも行かなくなったし、メッセージも無視してしまっていたからだ。だがしかし、ストレッサーである綿谷との交流は控えねばいけない。夕海はどうしたら良いのか分からないでいた。

「ちょっとだけで良いんだ。話をさせてくれないかな?」

 そう言う綿谷に対して夕海は不承不承玄関の扉をまた開く。

「別に怒っているわけじゃないです。メッセージに関しても気が向いた時にという約束でしたよね?」

「じゃあどういう訳なのさ!怒ってなかったら俺の顔をみていきなり閉めたりしないんじゃない?」

「いえ、だから怒ってはいませんってば!どうもこうもないです!」

「そうやってチェーンロック掛けたまま開けて言われても納得出来ない。それに、最近荒木さんは俺の事を避けてるでしょ!」

「ちょっ、近所迷惑になるので大声を出さないで下さい」

 静かに夕海は伝えるが綿谷はヒートアップしているのか止まらない。

「君だって大声だしてるだろ!なんでそんな急に俺に対しての態度が変わったのか知りたいだけなんだよ!」

「…わかりました。とりあえず、そこで大声を出されると私としても迷惑なので中に入って下さい」

 チェーンロックを外すため、夕海は一旦扉を閉めチェーンロックを外す。漸く天岩戸は開かれた。夕海は綿谷を玄関まで招き入れる。黙って入って来る綿谷。

「とりあえず大声を出すのはやめてください。近所迷惑ですし、私もそういうの苦手なんで」

「ごめん、取り乱したりして」

「いえ、良いんです。それで何を知りたいんですか?」

 

「君が俺を避けてる理由。怒っている訳じゃないんならなんで?俺なんかした?」

「ご自分で解りませんか?今現在も含めて貴方のこういう言動に疲れてしまうんですよ」

「俺のせいで君が疲れてしまうってこと?…考えてもみなかった」

「いえ、綿谷さんが悪い訳ではなく、私の問題なんです。私はなんていうか、こう、刺激が強すぎるとストレスになるので…そのせいで体調を崩したりするんです」

「ごめん、ライブに誘ったのもストレスだったんだね」

 珍しく真剣な表情の綿谷。

「後はすみません、批判ではないんですけど、貴方の突拍子もない言動にも付いて行けないです。私は私なりのペースがあるのでそれを乱されるのもしんどいんです」

「………」

 何も答えない綿谷。

「なので、敢えて私は貴方と交流を持つ機会を減らそうとしていたんです。解って頂けましたか?」

 暫く何も言わない綿谷は、みるみるうちに拗ねた表情になり、

「じゃあ、俺は荒木さんにとって害でしかないから、もう関わるなって事?」

「そうじゃなくて…」

「じゃあどうすりゃ良いんだよ!」

 まるで駄々っ子のように叫ぶ綿谷。はっと大声を出したことに気付き、

「ごめん。こういうのがダメなんだよな、俺って…」

 そう言い落ち込む。

「あの、その、そういう事じゃないんですよ。私の問題ってさっき言いましたよね?避けてるんではなくて、距離を置いているんです」

「距離を取って、その後はどうなるの?」

「私が落ち着くか対応出来るようになるならまた喫煙所にも行くと思います」

「それって何時まで待てばいいの?」

「何時までって…。そんなの私にも解りません」

「距離を置きたいって言うのは解った!でも一つだけ答えてくれるかな?荒木さんは俺の事好きなの?嫌いなの?」

「ええっ…」

 唐突に問われて夕海は即答出来ずにいる。

「ねえ、どっちなの?」

「嫌いだったらこうやって話したりもしませんし、家の中にまで入れません」

「じゃあ俺の事好きってこと?」

「………」

「俺の好きは、君と付き合いたいって意味なんだけど」

 追い打ちを掛けるかのように綿谷は言った。夕海はしばらく沈黙し、どう答えれば良いか分からないでいた。そんな中意を決して口を開く。

「好きか嫌いかで答えるなら、好きです。でも、私の好きは綿谷さんの好きと同じではないかもしれないです」

 

「そっか、好きなんだ」

 噛み締めるように呟く綿谷。

「その言葉が聞きたかった!じゃあ、俺にもチャンスがあるって事だよね?」

「チャンスって、どういう意味ですか?」

 思わず質問に質問で返してしまう夕海。

「だから、君が落ち着いて俺と話せるようになったら、俺と付き合ってくれる可能性があるかってこと!」

「すみません、そこまでは良く解りません。正直、綿谷さんの事をそういう風に考えた事がないので」

「じゃあこれからはさ、少しは意識して貰えないかな?」

「無理です。そんな風に考えた事もないのに、何をどう意識すれば良いんですか?」

「せめて俺の事を荒木さんを好きな一人の男として考えて欲しい」

「何故かは分かりませんが、貴方が私の事を好きなのは理解したつもりです。でも、一方的に気持ちを押し付けられるのは正直しんどいです」

「押し付けたりはしない。ただ知って欲しかっただけだから。俺は、今までもこれからも君に対してそういう気持ちでいるだけだから」

「それは貴方のご自由なので、勝手にどうぞ。でも、応えられないですからね」

「今はそれで良いよ。所でさあ、今日は化粧してないの?」

「だったらなんなんですか!」

「いや、素顔も可愛いなって思って」

 真面目に話をしていたのに、いきなり話の腰を折られたようで夕海はがくりと肩を落とす。なんだかばかばかしくなって来た。しかし、とりあえずではあるが綿谷は落ち着いたようだ。普段ならこのままお引き取り願う所であるが…、

「ねえ、初めて君の部屋の中みたんだけど、綺麗にしてあるね。でも、ちょっと殺風景かなあ。女の子の部屋ってもっとカラフルかと思ってた」

 部屋の中の批評を始める。綿谷はそう言うと靴を脱ぎ玄関から部屋への中へ入ろうとする。

「お邪魔しまーす」

「ちょっ、お邪魔しまーすじゃないですよ。なんでいきなり上がって来るんですか?」

「だって、折角会えたし、このまま帰るのも淋しいし、もう少しゆっくり話そうよ。それとも何?この家はお客さんにお茶も出さないの?」

 と含み笑いしながら言う。ここまで言われたら仕方なく夕海も中に招き入れる他なかった。ワンルームの部屋の真ん中に小さいテーブルが置いてある。テーブルの前にちょこんと座る綿谷。

「ねえ、なんか音楽掛けてよ。あと、俺、お茶よりコーヒーね。ミルクと砂糖入りで!」

 夕海は諦めて音楽を掛けつつコーヒーを淹れ始める。本当に、この人ときたら…。いつも夕海のペースをかき乱す。そういう所が苦手なのになあと思いつつもコーヒーを作り綿谷の前に置く。自分のコーヒーもついでに作ったたのでテーブルに置き腰を下ろす。丁度、綿谷の対面に座る形になった。

「あれ、この音楽…、こないだのライブのアーティストの曲じゃん!なあんだ、荒木さん本当に好きだったんだね」

「ええ、一応。聴いてはいます。あと、何を掛ければ良いか分からなかったので…」

「そっかそっか」

 ニコニコと笑いながらコーヒーを飲み始める綿谷。

「言っときますけど、そのコーヒーを飲んだらお引き取り願います。あんまり長居されても迷惑なんで」

「分かってるって!それより、体調は今はどうなの?」

 

「お陰様でなんとかなってますよ」

「そっか、良かった」

「いえいえ、ご心配なさらないで下さい。私の問題なので」

「えー、心配くらいさせてくれたって良いじゃない。所で俺、これからどうすればその、荒木さんの負担が減らせるかな?」

 今即刻この場から居なくなってくれたらいい。そう思う夕海だが、

「そうですね、今日を含め強引に物事を進めないで頂きたいですね。私には私のペースがあるんで」

「俺って強引だったのか…」

 まるで今気づいたかの様な反応だ。先ほどまでの玄関先での遣り取りを彼はもう忘れてしまったのか?夕海は不愉快な気分になる。

「もっと、落ち着いた方が良いんじゃないですか?老婆心で言わせて頂きますけど、そんなんじゃいつか仕事でもやらかしますよ」

「あ、なんかお姉さんぽい!良いね!俺、そういうのに弱いのよ!」

「あと!そういう軽口を叩くのも控えて欲しいですね。返す言葉にも困りますし」

「軽口じゃないよ!本気で言ってるよ!」

「そういうチャラチャラしたノリは私、いらないんで」

「んー、荒木さんて堅物だって言われない?俺からしたら荒木さんの方が四角四面で堅苦しそうに見えるよ。だから変にストレスも掛かっちゃうんじゃない?もっと肩の力抜きなって、前も言ったでしょ?」

「貴方には関係のない事です。私は別に困っていませんし」

「でも、体調崩す程ストレスに弱いんでしょ?なら少しは楽観的にならないと俺とは関係なく、また同じことの繰り返しになるんじゃない?」

 痛い所を突いてくる綿谷。確かにそうなのだ。仕事にしても、私生活にしてもそう。折角退院して、紆余曲折はあったが帰る家が出来た夕海だが入院時と同じように刺激を避け、感情の起伏を抑える事によって正気を保っている。入院前は、家族からの暴力があってもケロリとしていたものだ。アルバイトも休まず通い、特に体調を崩すこともなかった。それ程精神科への入院及び服薬というものは身体的にも精神的にも負担が掛かってしまうという事を現在進行形で実感している。

「徐々にですけど、これでも良くなっている方なんです。急激な変化はしてませんが私なりのペースがあるんです」

「そうなんだ、なら良かった。俺も割と気が長い方だからさ、君のペースに合わせてゆっくりと事を進めようかな…。と言いたいんだけど、やっぱり焦っちゃうよね。他の男に取られたりしないかって」

 飲んでいるコーヒーを吹き出しそうになる夕海。

「なっ、なにをいきなり!そんな事ある訳ないじゃないですか!」

「荒木さんて自分を客観視出来ないのかな?君、かなり可愛いし、男ウケ良い女の子だよ」

「は、はあ…」

 もう返す言葉が見つからない。

「もっと君は自分が可愛いって事を認識した方が良いよ。これから先、俺以外の男に言い寄られる事もあるかもしれないしさ」

「そういうもんなんですかねえ」

 判然としないまま答える。

「そだよお!男は狼だぞー!ガオー!」

 ふざけた口調で綿谷は続ける。

「と、まあ、冗談は置いておいて、てかなんで君そんなにストレスに弱いの?なんかの病気?」

 問われた夕海はギクリとした。自分の事はなるべく話したくない。

「いえ、特に病気という訳ではないんです」

「ふーん、そういう人も居るんだ。荒木さんは繊細なんだね」

「ええ、まあ、一応、そのようですね」

「ねえ!いつか落ち着いて俺と話せるようになったらさあ…」

「なったら、なんですか?」

「試しに俺と付き合ってみない?」

「はっ!?何言ってんですか急に」

「だって、さっきも言ったけど不安なんだもん」

「貴方の不安と付き合う事って関係なくないです?」

「えー、ケチー」

「ケチとかじゃなくて、私は今までも誰かと付き合ったりした事もないですし、そういう関係を望んで居ないんです」

「え、その年齢で彼氏いた事ないの!?意外!!」

 なんだか夕海は馬鹿にされているようでムカついて来た。

「彼氏が居たとか居なかったとか、そんなに自慢出来るような事でもないでしょう?何人もとっかえひっかえしてる人達の方が私には非常識に感じられますけどね」

 皮肉を込めて綿谷に言い放つ。

「あっ、不快にさせたなら謝るよ。ごめん。だってさ、君ほど可愛い人に今まで誰も粉掛けなかった事が意外だっただけ」

「貴方は相当女性とお付き合いして来たように思われますが?」

「え、俺?俺なんか大学時代のサークルでも盛り上げ役で、好きな子居たんだけど告白したらその子、荒木さんと同じように俺とはそうなるのは考えた事ないって言われて振られたなあ」

 ははは、と頭を掻きながら綿谷は言う。

「随分軽いようなので、女性経験豊富なのかと思っていました」

「そう!そうなのよ!皆そう思うみたいで、俺は本当の事を言うのが恥ずかしいんだ」

「じゃあ、貴方も今まで誰ともお付き合いした事がないという?」

「いやー、まあ、大人になってからは居ないね。中学時代とか彼女は居たけど、それこそ子供の恋愛ごっこというか…。てか、俺がまだガキ過ぎてそういうのより男友達と遊ぶのを優先してたら振られたけどね」

「あーそういうのはわかります。中学生くらいから周りが色めき立ちますからね」

「そうそう、そういうの!周りが彼女作るから俺も!ってノリでね」

「まあ、私はそういうのなかったですけど」

「荒木さんてば昔からそんなに堅物だったんだ」

 くっくっくっと笑いながら綿谷は言う。

「ねえ、お互いさ経験少ない訳だし、物は試しに付き合っちゃわない?」

「だから、なんでそうなるんです!私はそういうの良いんですって」

「ちょっと荒木さん繊細過ぎだからさ、俺みたいなのと付き合ってもっとストレスに対する抵抗力をつけるのも良い手だと思うんだけれど」

 確かに綿谷の言は一理ある。一理ある事もあるが、そんなに性急な関係はどう考えても良い事とは思えない。

「遠慮しておきます。先ほども申し上げた通り、私は私のペースで生活したいので」

「だったら俺が荒木さんに合わせるからさあ。付き合うって言っても、今まで通り喫煙所で話したり、気が向いたらメッセージくれたりで良いし。たまに飯とか行けたら俺は嬉しいけど、それも嫌なら俺、我慢するから!」

「今までと同じなら尚更、付き合う必要はなくないですか?」

「あるよ。何かあったらまず俺を頼って欲しい。今回みたいに体調崩したりした時、一人だと不安だし淋しいでしょ?俺で良かったら協力させてよ!」

「それはまあ、確かに体調を崩した時は不便ではありますが…」

「俺さあ、一応これでも社員だから、荒木さんが仕事休む時とかフォロー出来るかもしれないし」

 体調を崩して仕事を休む。その所為で突然クビにはならないだろうが職場での立場が悪くなるのは困る。だが付き合うというのはそういうものなのだろうか?

「そりゃあ、私も職場での立場が悪いより良い方が助かりますけど、付き合うのってそんな打算的なものなんですか?」

「じゃあ逆に聞くけど、付き合う事によってメリットがあるのとないのはどっちが良い?」

「メリットって…。人間関係ってそれだけで片付けられるような単純なものではないでしょう?」

「いーや、至って単純だよ。君は困った時は俺に頼れるし、俺は頼られて嬉しい。きっかけはどうあれ、打算的で何がいけないの?」

 なんだか妙な説得力があるようなないような。夕海はどう答えて良いか分からない。

「荒木さん、人間関係ってさ、そんなに急に構築は出来ないよ。少しずつ、お互いを知っていって育んで行くものだよ」

「確かにそうではありますが。それと私が綿谷さんと付き合うのというのは、話が飛躍し過ぎていませんか?」

「そうだとしても、俺はそうなりたい。確約じゃあなくていい。君が付き合う事になる相手が出来る時、その時をリザーブしておいていいかな?」

「リザーブって、スナックではないんですよ、私は」

「お願い!彼氏候補生にして!」

 綿谷は既にコーヒーを飲み干しているが、一向に帰ろうとしない所か、しつこく夕海に食い下がる。

「はあ、じゃあ、まあ、形だけで良いなら。私が付き合うとしたらまず綿谷さん。これで良いですか?」

「わあ!ありがとう!俺、頑張るよ!」

 ようやっと納得したのか、綿谷はコーヒーが入っていないカップを一啜りして、立ち上がる。どうやら帰ってくれるようだ。玄関に向かいドスドスと歩いて行き靴を履く。夕海も戸締りの為玄関までついて行く。

「なんか新婚さんみたいだね。今から出かける俺、見送る荒木さん」

「早く出て行って下さいよ。話は終わったんですから」

 綿谷を追い出し鍵を掛け、チェーンロックをする。するとみるみるうちに夕海の身体から力が抜けて行きへたりと座り込む。本当、疲れる人。そう一人ごち、これからの事を考えると夕海は憂鬱で仕方なかった。

 

 気を取り直す為、夕海の分の冷めたコーヒーを一気に飲み干し、もう一杯淹れることにした。もう深くは考えまい。そう思いながらコーヒーを作り、テーブルにつく。読みかけの本にも手を伸ばしてみるが、全然集中できない。夕海はもう諦めてベッドに行き、布団をかぶり丸まる。考えるな!と自分に言い聞かせても綿谷との会話が脳裏をよぎる。付き合うとしたら綿谷でないと駄目なようだ。勝手過ぎる綿谷に対して激しい憤りを感じつつも、意外と普通に対応出来た自分に驚いてもいた。だが、いつか綿谷と付き合わなければならないという約束が重たく感じられ夕海はどうしようもなく嫌になって来てしまっている。早く出て行って欲しかったとはいえ、こんな悪手を選んでしまうとは。夕海らしからぬ失敗であった。はっと気づく、今まで業者の人間以外部屋にあげた事もなかったのに、奇しくも綿谷は夕海の部屋に入ってきた。勝手にではあり、早く出て行っては欲しかったけど、それほど嫌悪感を感じなかった事に気づいた。

エッセイ中心でノンフィクションの創作を中心に書いていきたいと思います。 昭和58年生まれなので、時代的に古いかもしれませんがご興味あれば! 機能不全家庭・暴力被害・LGBT・恋愛・インターネット・いじめなどなどetc もしよろしければ、拙文ご一読頂ければ嬉しいです。