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スケープゴート -03-

―二度目の面会―

   午前中はしとしとと雨が降り注いでいた。湿度が高く、昼前には病棟内も蒸しかえっていた。午後からは午前中と打って変わって太陽が照り始め、湿気に加え気温が上昇して過ごしにくくなっていた。夕海たちは詰め所のナースに除湿か冷房を病棟内に入れてくれるように頼んだり、ホールに備え付けの自販機でジュースを買って飲んだりしていた。

 昼食後、午睡をするものもいれば、テレビを観ている者、本を読んで過ごする者などがいた。夕海たちはいつも食事以外は煙草を吸っていなくてもいつも喫煙所に居る。

「あっついねー。土日祝は本当に暇だよねー。OTも病棟活動もないしさぁ…」

「あ、そういえば詰め所にボードゲームとかカードゲームがあるらしいよ」

田中ちゃんと斉藤ちゃんが話す。夕海は新聞紙を箱に折る作業を無言でしていた。作業をしつつ、話に混ざる。

「あ、でも、土曜日は昼からカラオケするんじゃなかったっけ?」

「あーそれね、今日はナースが忙しいから出来ないってー。マジないわー。あったら行ったのに」

田中ちゃんが言う。

「カラオケつっても、大人数で一曲ワンコーラスしか歌えないのに…しかも今時手動のレーザーディスクだし、曲も古いのばっかりじゃん?何が楽しいの?」

問う夕海。斉藤ちゃんは何時の間にか夕海の隣に来て、箱折りをしていた。

「いやさ、歌が好きってのもあるし、色んな人が色んな歌を歌うの聴くのって楽しいじゃん?毎回同じ選曲で、特に伊藤さんの”かえってこいよ”とか聴いてるとさぁ、マジウケんの。音程がズレて段々と早足になってテンポガタガタで、お前がかえってこいよ!!って突っ込みたくなるし」

「あー、それは私も最初はマジでウケたよ。でも、慣れてくると、いつもの事でつまんなくない?」

「まぁね。でも、刺激が少なくて、自由もない閉鎖病棟なんだから、暇つぶしにはなるよ」

夕海と田中ちゃんは話す。

 斉藤ちゃんはせっせと箱折りを続ける。なんだかんだいって、暇なのは変わりない。さて、今日はどうやって暇潰すかななどと話つつ、いつも通り喫煙所で駄弁る。代わり映えしない日だった。

  そんな日だったが、夕海には思いがけないハプニングが起こる。といっても、面会なのだが…前回の通りナースに促されて、面会室へ行く。そこのドアを開けた先には、義父だけでなく、母も居たのだ。

 夕海は母の姿が目に入った途端に眩暈がし、フラついた。動悸が激しくなる。立ちくらみがし、倒れそうになりそうだった。夕海は一旦気持ちを切り変える為に無言でブザーを鳴らす。ナースがやってくる。

「え、もう面会終了??」

 問うてくる。夕海はパニック発作を起こしているのか、声が出せない。ナースがそれを察する。手早く詰め所まで夕海を連れて行き、頓服の薬を飲ませる。少し息遣いもマシになってきた。ナースが声を掛ける。

「面会やめとく?でもね、今日はご家族の方あなたに用事があるみたいなの
よ」

「用事ってなんですか?」

「なんか書類関係の話らしいのだけど、出来れば、面会室で直接話したほうがいいかもしれない」

「そうですか…」

嘆息する夕海。

 どうやら、逃げも隠れも出来ないようだ。パニック発作が出たとは言え、夕海は逃げられない。あまりナースに立ち入られるのも後々面倒だし、パニック発作すら問題視されるのも嫌だったから、仕方なくまた面会室へ行く。

「入る前に深呼吸しようか?」

ナースに促されるまま、深呼吸をする。少しは落ち着いたので、今度こそと面会室に入る。

「おう、パニック発作がでたそうだな。手短に済ませるぞ」

「この書類に署名してください」

続けて母が書類を差し出し、事務的に言う。

 夕海はと言えば、何の事か分からなかった。ただ促されるままにサインするのも嫌だったので、質問した。

「これは何の書類ですか?」

「生命保険の入院給付金申請の書類だ。お前のサインがないとおりない。これがないと入院費が払えない」

義父が答える。

 夕海は一瞬考えた。入院費が払えなければ退院出来るのではないか?と。しかし、今すぐ退院しても、又暴力と精神的圧力の嵐なのは変わらない。さっさとサインして終わらせようと夕海はペンをとり、サインをする。サインし終えると両親は満足そうに、差し入れのお菓子を袋一杯に夕海に渡す。機嫌がいいのか、面会室の外の喫煙所で煙草を貰い、自動販売機でジュースを買ってもらった。

 なんてことはない、たいしたことはなかったのだ。とりとめのない話をして、十分で面会は終了した。戦利品(差し入れのお菓子)を片手に詰め所に戻り、チェックしてもらう。とりあえず、自分持ちにしてもらう事にした。夕海は大仕事を終えた後のように、なんだか気分が良かった。なので、お菓子を田中ちゃんと斉藤ちゃんとで分けて食べようと思ったのだ。

 いつものように時間が過ぎていく。大した事件でもなかった。ただ、家族を目の前にするとパニック発作が起こったことは、ナースにより主治医・藤崎に報告はされるとの事だった。後々それが影響する事はなかった。

 問題ない。なにも騒ぎを起こさずただ静かに、平穏に過ごしていた。

 

 

 

―変調―

 

 

 梅雨も明け、夏も間近い七月中旬。この頃から夕海は明らかに自分の身体がおかしくなっている事に気付く。情緒不安定になり、病室で一人さめざめ泣いてしまったり、全身が重く、上手く身体が動かせない。その割に手の振るえや、イライラ・ソワソワが酷くなっていく。後で知るのだが、これらの症状は向精神薬・抗不安薬特有の副作用。アカシジアというものらしかった。

 読書が好きな夕海は入院してからも病棟内図書の本を何冊か読んでいた。しかし現在、読書も集中して出来ない。ジッと座っている事も出来ず、喫煙所に行ってもみんなと同じようにベンチに座っていられない。グルグルと狭い喫煙所内を徘徊する始末。仕方ないので、病棟内を歩いていた。グルグルと何週も回っていた。

 最初、ナースたちからは、ウォーキングをしているのね、偉いわね。と言われていたが、当の夕海はそれどころじゃない。とにかく歩いていないと落ち着かないのだから。本当はこんな事をしたいわけじゃない。ゆっくり座って休みたい。本を読みたい。テレビ観賞がしたい。そう思っていた。

 どうもこうも上手く行かない自分の心身に耐えかねて、夕海は詰め所に通うようになる。泣き喚きながら、今自分に起きている異常をナースに伝えようとするが、呂律も回らなくなってきていた夕海の訴えはナースには伝わらない。どころか、主治医にそれを報告され、また薬が増えた。この頃の夕海の処方は毎食後十五錠を越えるようになっていた。薬を此処まで大量に飲むようになると、口も喉も渇き、脳の働きも抑制されるのか、喋っても何を言っているか分からない状態に拍車が掛かる。

 何かあるごとに、ナースから主治医に報告され、薬は増えるばかり。田中ちゃんと斉藤ちゃんは心配そうに夕海に話しかけるが、夕海はふさぎこむ。一日中病室の自分のベッドの上でのたうちまわっている。食事もままならない。一口食べて、残りは全て残飯行き。その様子を見て、ナースからはきつく叱られるも、今の夕海には何も考えられない、動けない、食べれなくなっていたのが理解されなかったようだ。

 田中ちゃん、斉藤ちゃんにOTや売店に行こうなどと、声を掛けられても、全く応えられない。布団に包まり、大きな波をやり過ごすのにも精一杯だ。でも、そんな中、付き合いが悪いと後々面倒なことになると思い、夕海は差し入れのお菓子などを田中ちゃんと斉藤ちゃんに上げたりはして、なんとか友好関係は保っていた。実のところ、夕海にとってはお菓子を食べる余裕がなかったのだが…。

  ある日の診察。もう、七月も末で、八月に差し掛かる頃だった。主治医・藤崎から質問された。

「ああ、そうだ、お盆の外泊について、ご家族に連絡して外泊されるかどうか確かめてください」

 夕海としては、この病院内にずっといるからおかしいのかもしれない。などと思い違いも甚だしいのだが、そう思っていた。もう薬で頭がヤラれているのもあったのだと思う。一度実家へ戻って外泊でもしたら、この不調がどうにかなるかもしれない。そう思って、夕海は家に電話を掛けることにした。

「もしもし、夕海です」

「なんだ、お前か」

義父が電話先でこたえる。

「一体何のつもりだ?」

と訊かれ、

「お盆の外泊の件です。先生から両親に確認するようにと言われました」

呂律が回っては居ないが、意味は通じたようだ。

 「盆のことか、外泊については考えてもいい。それよりお前はどうしたんだ?気色の悪い喋り方をして、わざとか??」

「わかりません。普通に喋ってます。おかしいんだとしても理由が私には分かりません」

流石に、夕海の異常を察した義父も、電話でこういう。

「とりあえず、盆は三日くらい外泊させてやってもいい。それより、お前が異常なのでが少し問題だが…」

「はい、それで構いません。一応、三日間の外泊と言う方向で先生に報告しておいて良いですか?」

「ああ、とりあえずはな」

 用件だけで電話は終了した。五分と話していないのに、夕海の精神は磨耗している。義父と話すだけでもかなりのストレスが感じられた。夕海は病室に戻って休むことにした。

 それから夕海は半ば廃人の様な日々を送ることになる。外泊すれば何かが変わるかもしれないと言う一縷の望みを胸に、大きな波を耐え忍んでいた。

 

 

―外泊から退院まで―

 八月の十三日から三泊四日での外泊が許可された。当日、両親が迎えにやってきて、医師から夕海の現状を聞いたらしい。それが終わってから、夕海はナースに呼ばれ、準備を整えて久しぶりに外に出る。

  閉鎖病棟に入院するという事は、外に出る事すら自由に出来ず、唯一売店と体操や運動、OTの時間に柵のある広場に出る事は許されていた。しかし、不調から夕海はずっと、そういう意味でも外に出る事が出来なかったので、本当に久しぶりであったのだ。入院時に穿いていたジーンズに何ヶ月ぶりかで足を通す。閉鎖病棟内では、ほぼ寝巻きのような格好で過ごしていたので、ちゃんとした洋服を着ることがなかった。

 ナースに連れられ、病院の外来待合に行くと両親が外泊届の書類になにやら記入していた。外泊中は薬をその期間の量だけキッチリ渡され、帰院日時は厳守。という約束事が書かれていたらしい。モタモタしている両親を尻目に、夕海は一足先に病院の玄関先に出る。深呼吸をしてみるも、動悸の激しさ、身体の浮遊感、しっかり立っている筈なのに、フワフワしてどうも落ち着かない。これも、家に帰れば収まるかもしれない。そう考えて居た。その間に、外泊届を書き終えた両親に促され、自家用車へ乗り込む。車の座席の上にはパチンコ屋の団扇が置いてあった。多分、義父と母が一緒に行ったのであろう。二人とも、ギャンブルが好きだから。狂っていると言っても良いかもしれない。

 

 病院を出て、高速道路を約一時間走った先の町に夕海は住んでいた。久しぶりに見る故郷の光景に懐かしさを感じながら、夕海は車窓から眺める。家に着くと、飼っている犬・猫が出迎えてくれた。兄は自立したので家に居なかったが、夕海にとってはどうでも良いことだった。とりあえず、三日間。今まで通りの生活をして、調子を取り戻そうと、夕海は思っていた。

 家に帰ってから二時間。夕海は落ち着かず、家の中をグルグルと歩き回っている。いつもならキーキーがなり立てる母も気を使っているのか、飲み物を差し出したり、テレビのリモコンを夕海に渡したりと、色々してくれるのだが、夕海にはどうも落ち着くことが出来ない。静かに座って居られない。テレビを観ていても集中できない。理解が出来ない。本を読むにしても全くだめだ。ついには、義父に叱られる。

「子供じゃないんだから、落ち着いて座っていなさい。家の中をグルグル回るな」

 夕海は仕方なく、自室へ戻りベッドの上に寝転がり、布団に包まる。病院でやっていたように、家に戻ってからもその方法で、どうにもならない焦燥感というか、ジッとしていられない自分を抑え込む。しばらくしたら、眠ってしまった。どの位経ったか分からないが、母の声で目を覚ます。

「ご飯よー。降りてきなさい」

 不思議なものだと、夕海は思った。入院前には母からご飯が出来たからと降りて来いなんて催促は一度もなかったのに、入院してから母は上機嫌だ。逆に義父は口数が少なくなってはいたものの、元々そんなに喋る人でもないし、話をする訳でもないので気にも留めなかった。母の声を受けて、夕海は階下へ向う。そして、家族と共に食事を摂る。案の定、お茶碗一杯分のご飯も食べきれずに終了した。

 夜中、夕海は急に動けなくなり、居間で寝転がって縮こまっていた。そんな中、義父に声を掛けられた。

「おまえのな、その症状。全部薬の所為らしい。先生が言っていた。頭の回転を悪くさせる薬が入ってて、その副作用で手が震えたり、呂律が回らないんだそうだ。病院に居る間は我慢しろ。早いうちに退院できるように取り計らってやるから」

 

と、小声で。母には聞こえないように義父は夕海に言った。

 それを聞いてから夕海は外泊の間、薬を一切飲まなかった。三日間断薬した所で何の意味もないのだが、夕海にはその知識がないので仕方ないことであった。なんだかんだで、三日間の外泊は終り、病院に戻る日がやってくる。

 病院に戻ると、家から持ってきた所持品などボディチェックも含め一旦詰め所に入れられた。その日は割りと体調が良かった。きっと、外泊して、今までの生活を思い出せたからだと夕海は感じていた。全てのチェックが終り、病室へ戻り、荷物を置くとすぐさま喫煙所へ向う。

 喫煙所には渡辺さんが居た。

「どうもー。外泊から戻りましたー。何されてるんですか?」

と挨拶する夕海に対し笑顔で応えてくれる渡辺さん。

「昨日ね、子供たちが面会に来てくれて、娘に頼まれたのよ。ショールを編んで欲しいって。だから、編んでるの。中々思うように進まなくってね。ほら、すぐ糸が絡まって、こんな風に…」

と、編み掛けの糸を見せてくれた。

「へー器用ですね。私には無理です。あ、そうそう、家から沢山お菓子を持って帰ったので今夜お菓子パーティしましょう」

「あら、良いわねー。夕食後から消灯までって本当にする事なくて暇だもんね」

「あ、でもほら、今はショール編んでるから忙しいんじゃないですか?」

「実はね、編み物は午後五時までって決まりがあるらしいの。編み棒も危険だから、日中ナースから見える場所じゃないとダメだとかで…」

「あー、もう本当うざいですよね。爪切りを借りるにしても詰め所。ドライヤー借りるのに詰め所。洗濯するのも、干すのも詰め所。全部許可制ですからねぇ」

「それはそうと、夕海ちゃん今日体調よさそうだね。外泊で良い事あった?」

「いやねぇ、そんなに良くなくて、むしろ最悪でしたよ。なんだか病院に戻ってからの方が調子よくて。それにしてもウチの両親、私の生命保険の入院給付金で何してると思います?」

「ははあ、もしや、ギャンブル??前に夕海ちゃん言ってなかったっけ??」

「そうなんですよー。私の一日の給付金五千円かける、三十日分の十五万円。その内入院費は高額医療で五万ちょっと、残りの十万で遊び回られてる訳ですよ。要は病院に入れている方が、金が儲かるってシステムですからね」

「夕海ちゃんの場合は、旨味が大きいものね。でも、生活保護になってる人も病院からしたら美味しすぎて、ずっと入院させられてる人もいるわよ」

「うへー。所詮は銭ゲバなんですよねぇ。私としては、入院してから体調が大いに悪くなるし、読書はおろか、静かに座ってられませんもん」

狭い喫煙所の端から端へと行ったり来たりしながら喋り続ける夕海。

「自分でも異常だと思っているのに止められないからどうしようもないんですよ。あ、毎晩歩くの付き合って頂いててすみません」

「いいのよ。私もすることなくて暇だし、ジッとしてると足先がムズムズして気持ちが悪いから歩いてるのもあるし…あ、でもこの三日あんまり歩かなかったわ。ひとりだとどうも…ね」

微笑を浮かべる渡辺さん。

 そうこうしている内に、午後三時を告げるチャイムが鳴る。

夕海のようにお菓子を自分で持てない患者はこの時間におやつと称して、お菓子を食べる。もちろん、水分管理も踏まえているのだろうが、この時間になると、ホールがざわつく。OT組もぞろぞろと帰ってくる。その中に田中ちゃんと斉藤ちゃんの姿があった。二人は喫煙所に居る夕海に気付いて走って駆けつけてくれた。

 

「おっかえりー!!外泊はどうだった??」

「なんか体調よさそうだねぇ、何かあった??」

二人に質問される。

「いやさー、渡辺さんにも話したんだけど、ソワソワして落ち着かないから、家では最悪だったのよ。なんか薬の所為でこうなってるだけだから我慢しろって怒られるしさぁ…病院戻ってからなんか知らないけど調子良いんだよね」

すると田中ちゃん

「あっわかるわかるー。あたしも外泊じゃないけど、良く外出するじゃん?外出中ってイライラ・ソワソワ半端なくてすぐ頓服飲むんだけど、病院戻って来たら一気に落ち着くんだよね」

笑いながら、言う。それを聞いて苦笑しつつ斉藤ちゃんが

「なんかそういう話聞いてると、病院こそが本当の家!みたいに聞こえて可笑しいよー」

田中ちゃんと目を合わせ笑い出す。もう何ヶ月になるだろうか、五月の頭に入院したから、四ヶ月は経過している。四ヶ月間代わり映えしない日々を過ごしている。薬の所為で、頭の回転は遅くなり、呂律も回らなくなった者同士で集い、憩う。そんな無為な日々を何の疑問も抱かずにルーティンワークのように強制され、彼女たちは存在する。夕海もたまたまこの日は調子が良いだけで、他の者たちも日々波があるようだと知る。ふさぎこむ日もあれば、バカ騒ぎする日もある。そんな日々。

 

 

 九月の頭、まだ少し蝉の鳴き声が聞こえる初秋のある日、夕海は詰め所の中の主任ナースに呼ばれた。行ってみるとナースに突然

「荒木さんは、そろそろ退院が近そうなので、先生の許可を得て、薬を自己管理してもらうことになったんだけど、大丈夫かしら?」

と、言われた。

 夕海にとって、薬なんてどうでも良かった。自己管理するとかしないとかどうでもよくて、退院という言葉に反応した。流石に五ヶ月も鉄格子の中で生活していると、退院したいという思いも強くなる。なので、ナースの提案に対して賛同した。

 

 こうして晴れて薬が自己管理になって、夕海は薬をトイレに流すようになった。朝・昼・晩の薬。毎食後十何錠も飲まさせられて、体調が悪くなり精神状態もおかしくなったので、ためしに飲むのを止めてみた。夜寝る前の薬だけは飲むことにしていたが、薬を止めて、数週間くらいだろうか、変化が見られた。当然、断薬開始後には離脱症状があり地獄のような日々を送る。しかし、しばらく経ってくると以前の様に落ち着いて座っていられるようになり、読書も出来るようになった。外泊時に義父が言っていた、”薬の所為”説は濃厚だなと思った。

 喫煙所にも再び入り浸るようになり、周りのみんなからは、調子が良いね、なんて言われたりする。そんな中、渡辺さんは流石、年の功と言うか、耳打ちをされた。

「ねえ夕海ちゃん、薬、飲んでないんでしょ?自己管理になってから」

 正直、ギクリとした。これがナースにバレたら大事になる。また保護室かどこかに入れられ飼い直されて従順になるまで更にきつい薬でがんじがらめにされると思ったからだ。

「渡辺さん、それは内緒にしておいてください」

そっと伝える。

「あらぁ、あたしは別にナースにチクったりしないわよぉ。あまりに以前と違うからカマ掛けただけなのに、やぁね、当たってたの?」

大分出来上がったショール片手にコロコロと笑う渡辺さん。

 

 日に日に皆、今後の身の振り方について考え出す。田中ちゃんは家族の意向でグループホームに入居するらしい。斉藤ちゃんは悲しい事に家族も何処も受け入れ先がないので当分入院を続行するようだ。渡辺さんはといえば、娘さんが受験生なのもあって、それまでには退院のメドが立っているようだった。夕海はといえば、退院しても家族の居る家に戻ってしまう。ただそれだけだった。バイト先のコンビニだってもう受け入れてはくれないだろうし、だからと言って、次どこかで働くにしても、ここ数ヶ月の自分自身の変化からして、到底再びバイトするなんていう自信は持てなかった。

 

 渡辺さんが色々教えてくれるように、取りあえずは自立支援と障害者手帳の申請。できれば親と離れた方が良いからと、生活保護などを提案される。病院のケースワーカーに色々と相談してみるが、何も進まないまま、現在九月中旬。先週は、また両親が揃って保険の書類にサインさせようとやってきた。最近頭がクリアになってきた夕海は、サインしないことにより、両親に退院を迫った。それにより、入院は十月一日に決定した。

 

 もうあとわずかな期間で此処を出られる。そう思うと、嬉しい反面、外の世界で生活する不安も頭をもたげてくる。そもそも、何の病気でもない夕海をないことをあったようにでっち上げて入院させられたわけで、何故こんなにも卑屈にならなければならないのか…。少しのことを大げさに捉えすぎだし、病院や精神科医も、家族の言い分を鵜呑みにして、碌な診察もせず閉鎖病棟に放り込む。(誤解のないように解説しますが、家族受診の全てが事実と異なる申告ではありません)まぁ、それが彼らの手口なのだが、そんなことは入院させられてからではどうにもならない。ただただ、石の様に動かず、何があっても耐えて、退院の日を待つしかない。退院の日が訪れない者も数多く居る。斉藤ちゃんのように、家族もどこも受け入れてくれないとなると、悲しい結末を辿る。

 

 夕海たちの病棟は、八割は老人。入院歴五年をゆうに超える人たちばかりだ。その人たちは、家族の面会も殆どなく、年金で入院費を払っているのか、着ている服も質素だったりする。そう言う現状を眺めていると、精神医療って怖いなぁと夕海は感じるようになってきていた。現代の姥捨て山は精神科の病棟なんじゃないかとすら思えた。夕海が入院している間、何人かの老人の死を目の当たりにした。生と死の狭間にたって、見聞きしていると、夕海はどうしようもなく、生きることに意義が見出せなくなる。

 

 そんなこんなで、夕海の入院生活は終りを告げる。約半年の入院となった。退院前の診察時に、自立支援と手帳の申請書を書いて貰った。その後、両親に連れられ、ダンボール三個分の荷物を車に積み込み、帰路に着く。

 

 

 二週間後、退院してから初めての外来診察を受ける。とりあえず、遠方からなので、通院は月一にしましょうと藤崎に促され、一ヶ月分の大量の薬を処方され、その帰りに、役所へ自立支援と手帳の申請書を役所へ提出した。

 

 

 もう風も冷たくなって、冬のにおいが漂う時期だった。

エッセイ中心でノンフィクションの創作を中心に書いていきたいと思います。 昭和58年生まれなので、時代的に古いかもしれませんがご興味あれば! 機能不全家庭・暴力被害・LGBT・恋愛・インターネット・いじめなどなどetc もしよろしければ、拙文ご一読頂ければ嬉しいです。