吉永小百合さんへ

小百合さんとお呼びするのをお許しください。私は幼年期よりあなたの数々の名作に触れ、映画人としての小百合さんを心から敬愛し、原爆詩の朗読を続けてきたあなたの揺るぎない人道性に心打たれるものであります。
2018 年の9月のことになりますが、私も、昔から親しくしている ピースボートの「折り鶴プロジェクト」の一環で、被爆者の方々と共に同船に乗ってきました。寄港地シンガポールで地元の小学校の児童と被爆者の方の交流は感動の連続でした。気持ちを引き締めてこれを書いています。
被爆者の方々をはじめ日本を代表するピースボートの尽力があって「核兵器禁止条約」が成立し、ICAN がノーベル平和賞を受賞したのは、本当に心踊る思いです。小百合さんも「核兵器禁止条約を知らない人が日本には多い気がする」と指摘し(毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20180925/k00/00m/040/051000c )、 日 本が同条約を批准することを願っておられることを知りました。僕もはげしく同意するものであります。
一方で、今一度、この条文の中身を読んでいただきたく思います。 「国際人道法」という単語が再三再四にわたって謳われ確認されていることに気づくはずです。
国際人道法とは、いわゆる「戦争犯罪」を定義するものです。そうです。核兵器禁止条約の目的は、核兵器の使用を同法によって明確な戦争犯罪に認定しようとするものです。

終戦前は戦時国際法と呼ばれていた国際人道法のような、いわゆる国際慣習法は、歴史的に人類が綿々と積み上げてきた貴重な、 何ものにも代えがたい合意事項です。
人類はまだ合意事項の違反者を強制的に裁く地球政府のようなものは持ち合わせていませんので、その合意の違反者を裁くのは、 その合意事項を批准した各々の国家にその責任が委ねられます。 国内法の整備という形で。
ここで 1 つ重大な問題が発生します。日本です。日本には、この 国際人道法が定義する戦争犯罪を厳罰化する国内の法体系が存在しないのです。
おわかりになりますね。日本は、戦争をしないという憲法を持つのはいいのですが、なぜか、それが戦争犯罪を想定すべきではな いというふうに解釈されてきたのです。本来であれば、世界のどの国よりも国際人道法の違反を厳罰化する国内法を誇ることで、 平和国家の面目躍如とするべきだったのですが。
これもお分かりのとおり、もし世界の国々が、「戦争しない」とい う自己申告だけで、自らが戦争犯罪を犯すという想定をしなくて済むとなったら、国際人道法も、核兵器禁止条約も、その存在意義を失います。
日本に戦争犯罪を想定させない原因は何か。

はい。9 条 2 項です。
戦争犯罪はおろか、それを犯すであろう「戦力」を、同項は日本に認識させないのです。自衛隊という、国際法では明確な「戦力」、 それも世界で 5 指のものを保持しておきながら。
もちろん、「“ いつか ” 戦力を無くすから」という自己申告で、戦争犯罪の想定をしないで済ませるという理屈は、成り立ちません。
小百合さん、「核兵器禁止条約を知らない人が日本には多い気がす る」という前に、「国際人道法を知らない人が日本には多すぎる」 のです。「核兵器禁止条約」の日本の批准と、9 条 2 項の「護憲」 は、残念ながら、両立しません。
どうか、これが、あなたの耳に届くことを。

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