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コミュニケーションについて

コミュニケーションってなんだ?

こんな陳腐な問いに解を求めるほど人間関係に困っているわけではないが、今日は嫌なことがあったので持論でもつらつらと書いて頭を冷やそうと思った。

この先は駄文である。私は恥を晒すことを恐れない。むしろそんな自分が好きだ。誰かに向けたメッセージではない。ただ毒を吐くだけだ。

さて、捻くれた導入だ。この時点で察するかもしれないが、私は基本的に偉そうに大きな声でもっともらしい正しさを語る人が嫌いだ。

声がでかく、それっぽい理屈で語る奴というのは、一見正しそうに見える。しかし、物事とは常に繊細かつ柔軟なもので、ある理屈が通ったからといってそれは情報を制限した結果の正しさに過ぎず、前提条件が変われば正解なんてものは容易に目移りしてしまうものだ。

そもそも正解を求めることがナンセンスな場合もある。コミュニケーションなんてその最たるものだろう。コミュニケーション能力のように、最後に「能力」なんてつけると、数値化できる一元的な指標のように見えてしまうが、これは学校教育で共通テストの結果を競うような、一元的な優劣の基準に脳が侵されているに過ぎない。プライドと劣等感の狭間で自己表現に溺れているクソガキだ。「コミュニケーション能力」という言葉は嫌いだ。

さて、先ほど使った「ナンセンス」という言葉。これは好きだ。使いやすい。私は少し造語のように使うがこれは良い。

センスがない。たわごと。思慮深さが足りず意味がない。方向性が間違っている。うんうん、いい言葉じゃないか。当人は頑張って考えているのに前提が偏っていて、はたから見ると無意味に見える議論や主張はまさしくナンセンスだ。

一元的な優劣の否定に重きを置いたとして、じゃあ無能を晒すことを許せるだろうか。そんなことはない。ナンセンスだなんだといっても、劣等感というものはいつも顔をのぞかせるものだ。人にできて自分にできないこと。自分がやりたいと思うのに出来ていないこと。これらはいつも心をざわつかせる。

生きていれば当たり前の話だが、人は皆、理想の自分を頭の中に飼っている。意識無意識はあるだろう。おそらくほとんどは普段気にもしないはずだ。ただ、自分の中のあるべき姿というのがぼんやりとあり、ふとした時に~~が出来たらなぁ、とか、~~をするべきだったなぁ、とか、理想とかけ離れた自分を自覚した時に漠然とした後悔や不安が生まれる。

理想の自分を自覚して、どこまで具体化できているか。コイツとどれだけ向き合えるか。自分を変えようとすることは、言葉にするとこのように一般化できるだろう。これが精神的な向上だ。

精神的な向上心がない奴はバカだ。そういうやつは、そりゃあもう自分の中ではご立派なんだろう。井戸の中で、でかい声で偉そうなことをゲコゲコ言ってくれ。すぐ嫌いになれるから私も楽だ。実るほど頭を垂れていく稲穂を見習うべきだ。もっとも向上心ある者とは、繊細な精神であらゆる出来事から糧を得て、理想の自分を広げ、磨き、それに向き合おうと努力できる人だ。

理想の自分ってのは人によって違うわけだから、自分の理想を他人に押し付けるのも、理想の自分を他人に侵されるのもナンセンスだ。軸のある人間は理想の自分が鮮明で固い。そういうのは好きだ。

さて、せっかくだからコミュニケーションの話に戻ろう。

コミュニケーションに解がないのはコミュニケーションに求める理想が人によって違うからだ。結局自分はどう人と接することのできる人間になりたいんだろう?そんなもの個人の人間的成熟度と経験によって見てきた累積が違うのだから、千差万別だろう。

私の場合をちょっと書いてみようか。そうだな。

私は人を動かせるだけの信頼をつかめる人間になりたい。人の力を借りて大事を成し遂げたい。ただ、他人を利用するのではなく周囲を巻き込んで良い方向に向かえる強さと誠実さがほしい。

ま~た自己中心的な理想だ。ただ、自分の夢から逆算したらこれが前提条件になった。少なくともこれくらいはできないといけないということだろう。

さて、では現状は?残念、私はコミュニケーションが下手だ。話すのは好きだ。ただ、見ての通り好き嫌いが激しすぎる。嫌いってことは、無関心、もしくは敵対だ。これに陥りやすいのは良くない。

ここは言葉が上滑りしないよう、ちょっと掘り下げるべき点のように思う。

好き、嫌い。なんだこれは。

私はこれを、相手はきっとこういう人間なんだ、という解釈に即したうえでの相手と向き合う優先順位と考えている。

ああ~~、まーた複雑になってきた。いやだな、あまり深堀すると本質を見失う。

ええい、ここでは省略しよう。私は今、頭を冷やしているんだ。

好きの優先順位は高い。嫌いの場合、敵対も優先順位は高い。同じ嫌いでも無関心は優先順位が低かったりする。

相手にどれだけ感情、関心、思考、時間を捧げることを良しとできるか。もしくは、そうせざるを得ない環境の中でもがくか。有限な人生の中で見たときの、一般化のできない優先順位。これが好き、並びに嫌いだ。本当はもっと書きたいが、いったんここまで。

さて、人を嫌いにならない人というのは強い。私は憧れる。私の知り合いにもいる。私が思わず引いてしまうような相手でも険悪にならないすごい人だ。

人と人の距離感というのは難しい。相手の見えた一面がどうしても自分の中の理想に相反するあまり怒りを覚えることがある。これは理想の押し付けだ。だが、人を嫌うとき、私はよくこのパターンに陥る。バカである。

嫉妬で人を嫌うことはない。私は理想の自分に誇りを持っているので、安易にそれを他人に重ねて羨むような、自分の理想を低次元のものにする無様はしない。そんな自分は好きだ。

人を好きになる。これは難しい。まずはその導入からいこう。

良好な関係の導入とは「相手に関心を向ける」と「相手から関心を向けられる」の相互関係だ。これは優先順位がお互いに高いところに位置する関係を示している。

一人称で考えよう。関心があれば近づきたくなる。相手に近づくという行動が自分の中で他の行動より優先順位が高いかどうか?これが行動を起こすボーダーになる。

あ~!話したい!でも今日は良いや......これはその相手に近づくことの優先順位が低いか、もしくはコミュニケーション行為自体の優先順位が低い時に見られる。

失敗や不安が優先順位を下げているのだ。当たり前だが人は自分の優先順位を低く見積もっている相手には関心が持てない。前述した好きの相互関係、その導入すら築けないのである。

さて、好きを増やし嫌いを減らすには。まずは相手に関心を向けることから始めよう。コミュニケーション自体の優先順位を上げて、まず近づくための行動をする。そうして色々な人と接して経験の累積を重ねる。理想の自分を拡張し磨くことで、嫌いの拒絶反応もおさまるだろう。そんな風なことをきっと私は考えているのだろう。

ん?考えているのだろう?なんでここで推量なんだ?

そりゃそうだ。こんなん今即興で考えたからだ笑

こういうくだらないことを考えると頭が落ち着いてくる。すっきりしたから酒を飲もう。なんだか少し気が晴れた。