研究者の私がもし小学生なら、この夏やりたい自由研究「田んぼの生きもの調べてみたい」 RE:CONNECT×Nue inc note企画第2弾

森・里・海のつながりを総合的に研究する「RE:CONNECT(リコネクト)」。日本財団と京都大学が共同で行うプロジェクトです。本プロジェクトのクリエイティブ部門を担当するコンサルティングファーム、Nue incからお題をいただき、研究者が記事を執筆する企画がはじまりました。第2弾は「研究者の私がもし小学生なら、この夏やりたい自由研究」。小学生のこころで考えてみました。

小学生のときの夏休みの記憶。いまとなってはあいまいである。長い長い夏の時間を、僕はどうやって過ごしていたんだろうか。断片化していく思い出のなかでいまも覚えているのは、ラジオ体操の帰りのあぜ道で、朝露をたっぷりとまとったツユクサの群落に足元をしっかりと濡らされたこと。そしてそのときのツユクサが美しかったことである。

僕が生まれ育った徳島県那賀郡那賀川町(現在は阿南市に吸収合併されている)は、一級河川那賀川の河口デルタに位置する田園地帯。那賀川が運んでくる土砂が徐々に堆積してできた場所。「古津」「今津」などの地名が散見される。古津はずっとむかし、港だったところ。その後堆積する土砂で港としてしての機能が失われ放棄され、やがて田んぼとして利用されるにいたった。そして新たな港がつくられた場所が今津である。こんなことを町の古老から聞いた気がする。川が海を徐々に埋め立て地形が変わり、人のくらしが変わるのである。

うちは代々続く農家だった。これといってやることのなかった田舎の小学生の僕は、いつも田んぼの近くで遊んでいたような気がする。夏真っ盛りの暑い日に、じいちゃんが田んぼに生えるアワやヒエなどの雑草を抜いている。僕はその近くで遊んでいて、田んぼのあぜ道をくずすなとじいちゃんに始終おこられているのである。

水陸両用の安物の捕虫網で、ひたすら田んぼの生きものをつかまえていた。うちの田んぼには、オタマジャクシ・メダカ・タイコウチなどがたくさん住んでいた。その脇の用水路には、フナやゲンゴロウが生きている。そして彼らをねらうアメリカザリガニも。水の量や流れ、水温によって、その場所に適した生物が違うことを感覚でわかっていた。水深の浅い夏の田んぼは、晴れた日にはあっという間に水温が上がる。手をつけるとお風呂みたいだ。しかし用水路の水は夏でもけっこう冷たくて、生きものにとっての生育環境はかなり違ったことだろう。

当時は自転車でウロウロして友だちの家などに行ってたのだが、道中の田んぼが気になることがあった。場所によっては砂っぽい土壌の田んぼもあった。粘土質のうちの田んぼとはあきらかに見た目が違う。そしてそこには、ドジョウやカブトエビなどが生息しているのだった。ちなみにカブトエビの実物をはじめて発見したのは、生きもの図鑑で「生きた化石」として紹介されているカブトガニについて読んだあと。これはカブトガニの赤ちゃんちゃうんか、こんな貴重な生きものがうちの町におってええんか、みたいに興奮したことを覚えている。

いま思うと、とても自由研究に適した環境だったなあ。生物の種類と個体数や密度、そしてそれぞれの季節ごとの時系列変化、土壌や水温、水流などとの関係などなど、小学生でも生態学者のタマゴとして調べるべきことはたくさんあっただろう。しかし当時の僕は、素朴な好奇心で彼らをながめ、そして残酷な捕虫網で捕らえて観察するだけだったのである。

そんな実家も、いまはもうない。田んぼの跡地には、閑散とした図書館とだだっ広い駐車場、そして田舎によくある2階建てのこじんまりとしたアパートが何棟もたちならんでいる。それでもこの場所が気になって、5年にいっぺんくらい行ってみることがある。行くたびに、思い出とのギャップを思い知らされる。当時のままの位置に残されている用水路はコンクリートで護岸され、そこにはジャンボタニシという新参の外来種のショッキングピンクの卵塊がならんでいるのである。

世の中が変わっていくことを否定したくない。すべての場所を保全するなんてかなわぬ望みだ。そもそも僕が子どものころを過ごした田園地帯も、大むかしは芦原が続く原野だったはずで、そこを先人たちが環境破壊してつくりだしたものである。人と自然は、せめぎ合いながら変化し続けているものである(読者はこのあと方丈記でも読んでみてほしい)。ただ、ここに建ったアパートにくらす小学生たちは、どんな自然をながめてるのかな、とは思う。

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