ハンディキャップと笑い

僕が子供のころ、ドリフのテレビ番組に、身長のハンディキャップのある人が登場することがあった。彼は小さいけど大人なんだよと、親に教えられた。小さい人がふつうの大人にイタズラをしたりするのがおもしろく、独特の笑いという価値を持っていたと思う。

僕が大人になってから、特に好きな映画にオースチンパワーズがある。この映画にも身長のハンディキャップのある人が登場し、その身体的特徴が独特の雰囲気を出していた。

うろ覚えだが、松竹新喜劇の岡八郎だったか。知能にハンディキャップのある人を演じて、それが物語のキーになることも多かった。

そういえばよしもと新喜劇にも、アホの酒田という強烈なキャラがいた。近年では、世界のナベアツが、3の倍数と3のつく数字だけアホになる、というのをやっていた。これら「アホ」という言葉、なんの疑問もなく使ったり笑ったりしてきたのだけど、よくよく考えると、考え込んでしまう。

アホとは、ふざけている状態なのか。それとも精神や知能の発達に関連するものなのか。前者ならこころおきなく笑える。しかし、もしも芸人が、知能の発達が遅れている人の「真似」をしているのだとすれば、それを笑っていいものだろうか。

江戸時代のこっけい話を調べると、わりと障害者の特性を笑うというネタが多いことに気づく。障害者だけじゃなく、老人とか差別を受けていた人たちが笑いの対象となっていた。当時の人の感覚は興味深いが、現代に生きる僕は、そういうのを笑えない。

同様に、僕が生きている数十年間でも、笑いとモラルのバランス、つまり「何を笑ってよいか」は、刻々と変化していると思う。最近は、女芸人がデブとかブスとかで笑いを取ることが問題視されるなどの変化が起こっている。

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