投資はわるいことなのか

封建時代の身分制度といえば士農工商。商人の地位は、他の職業よりも下位に置かれていた。自分の手で農作物をつくる農民や家や家財道具などをつくる職人と異なり、仕入れてきた商品を右から左に流すだけでお金を儲けるという行為は、「ちょっとずるいな」なんて印象を与えていたのかもしれない。西洋でも、ベニスの商人の寓話に見られるように、商人は職業としてずるい印象、さらには商業で儲ける特定の民族はずるい、みたいな印象があったように思う。
そんななか、封建時代に活躍した近江商人は、「三方良し」という考え方で、商業は世の中の役に立つ立派な職業であることを理論づけた。三方良しとは、いい商品を適切な価格で仕入れて売ることで、売り手は正当な対価を得られる、買い手はいい商品を納得のいく価格で手に入れられる、いい商品を発見し流通させることで、世の中が豊かになる、ということだ。
現代においては、商業の重要性はそれなりに評価されているだろう。夜中にコンビニが開いてるとありがたいし、コンビニで働くことのたいへんさはわかるし、楽して金を儲けてずるいな、なんて悪印象を持たれることはそんなにないのではないだろうか。
しかし、経済活動のなかでも「投資」という活動には批判がつきまとう。投資家は文字通り不労所得を得ているから、コンビニで働く人から見たら「ずるい」なんて感覚になるのかもしれない。さらに、投資家が不労所得を得ることで搾取される人が生じる、みたいな誤ったゼロサム理論を信じている人もいたりする。
ここで、投資とはどういうものか、僕オリジナルの寓話を考えてみたい。Aさんは農家で、おいしいかぼちゃをつくるのが得意だ。しかしAさんの村はとても田舎で、かぼちゃを買ってくれる人はあまりいない。みんな自宅でかぼちゃをつくってるし。となりに住むBさんは、最近仕事をやめて家にいる。どうも体調をくずしたらしい。仕事をしてたときに使っていた車は、いつも車庫に止まったままだ。それを見たAさんは、あるときBさんにオファーを出した。
「僕に車を貸してくれませんか、町までかぼちゃを売りに行きたいのです。そしたら一日3000円払います」
Bさんはこう言った。
「それでもいいけど、かぼちゃが売れない日もあるだろう、そしたら3000円を払えないのでは?いいことを思いついた。その日の儲けの1割を僕に払ってはどう?1万円しか売れなかった日は、1000円だけ払えばよい。3万円売れたら3000円、10万円売れたら1万円を払うのだ」
Aさんはこの案に賛同し、さっそく町までBさんの車で出かけ、かぼちゃを売った。Aさんのおいしいかぼちゃは町で人気になった。町の人はそのかぼちゃを買うことで幸福度が増した。Aさんは需要と供給の釣り合う市場価格でかぼちゃを売ることができ、経済的に豊かになった。Bさんは、それまで駐車場に止めっぱなしだった車が利益を生んでくれるようになった。
この寓話は、投資のアナロジーである。そう、Bさんは家でぶらぶらしているだけで利益を得ている。Aさんは、車を借りたことで商売がうまくいくようになった。町の人は、おいしいかぼちゃが手に入って喜んでいる。このように、投資とは本来、「三方良し」なのだ。この寓話に出てくる「車」を「お金」に置き換えるだけで、現代的な投資の話になる。車を買うのはハードルは高いが、車があったら商売がうまくいくのにな、と空想するAさん。同様に、元手があったら商売を大きくできるのにな、願う経営者は多くいることだろう。彼らにお金を出して、商売がうまくいったら取り分をもらうというのが投資である。
この寓話には続きがある。この村のCさんは、やはりかぼちゃをつくっている。しかし残念ながら、Cさんのつくるかぼちゃはあまりおいしくない。しかしAさんの成功を観察していたCさんは、おなじ条件で車を貸してくれとBさんに頼み、Bさんはそれを了承した。Cさんは町でかぼちゃを売るが、ぜんぜん売れない。売り上げがゼロだから、Bさんの取り分もゼロだ。オイル交換とかタイヤ交換とか、車のメンテナンス代だけかさみ、Bさんは損をしてしまう。このように、誰に投資するかは、投資家にとってきわめて重要だ。有望な人に投資することで、自分もハッピー、投資してもらった人もハッピー、世の中もハッピー、三方良しが実現するのである。

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