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「ボクの穴、彼の穴」 観られた幸運に感謝して

宮沢氷魚さんと大鶴佐助さんの二人芝居、「ボクの穴、彼の穴」が23日千秋楽を迎えた。
7日間全11公演、予定されていた全ての公演が予定通り幕を上げ上演された。それが当たり前ではなくなってしまった今、無事に千秋楽の日を迎えられたことが心から嬉しい。以前だったら、幕が上がることへの感謝とその与えられた時間の愛おしさ、今程感じることはなかっただろう。


あの広くて高さも奥行きもある空間を、様々な演出はあれどたったふたりで満たすって並大抵じゃない。
たったふたり、ひとりとひとり。

ひとりゆえ、言葉となり表情となり歌となる心の内の全部。嘘のない心の内。
恐怖、混乱、理不尽、無力さ、虚しさ、叶う訳ないと遠い目をしながらも捨てきれない希望、命を脅かす銃声も挨拶と受け止めてしまうほどの孤独。
ひとりとひとりはそれぞれの穴で一つの嘘もない心の内をさらけ出す。それが全部まっすぐに届く。


空腹がもたらす惨め、満腹がもたらす緩慢と惑い。
お腹も思考も。情報過多がもたらすもの。今生きている世界にそのまま置き換えることができる。
そして、自分にとって都合が悪い時に紛れてしまうことも逆に線を引くことも自在にできる「君」と「君ら」。

食べ物も尽き、一人でずっと忠実に守ってきた指示を出した「集団」に見捨てられて、違う穴に潜んだ「彼」と相対する決断をした時、ふたりは「ボク」「彼」ではなく名前のある個人だった。
誰にも自慢できないことをする、名前を持った自分として決意する。
その最後の正義をお互いが持っていたからこそその先の、小さな紙切れひとつに託す「希望」を共有することが出来たのだろうな、と、2人の強くまっすぐな決意に奥歯に力が入った後、じんわりとあたたかいものが満ちてくる。


「ボクらだけでも」。
ずっとずっと孤独だった、自分は狂っているのか答えが欲しかったボクと、思考することをやめない脳みそを憂いていたボクと、そのひとりとひとりを「ボクら」にしたもの。
ずっとずっと心に響いている。



舞台が上演されることに対して「本当に幕が上がるかな」「『あんまり楽しみにし過ぎて中止になってしまったらツライから』と気持ちにブレーキをかける」、そんな気持ちで公演の知らせがあった7月から9月17日までの2ヶ月を過ごしてきた。
もちろん創り側も観る側も誰も望んでいることではないけど、思いが叶わない事態への覚悟をどこかでずっと持っていた。
実際に9月17日を迎え、布が掛けられた舞台とその世界をほんのり感じさせる流れる音、そして開演前の光がゼロになる瞬間を目の当たりにし、作品と観ている側が「ボク」と「彼」ではなく「ボクら」になれた気がしている。
沢山の人が磨いて壊して積み上げてそうやって創り上げた時間をただ共有させてもらうだけ、ケーキの上のイチゴだけ食べるような、舞台を観に行くってそんな贅沢な感覚なのだけど、劇場で共有できることが当たり前ではない経験を経た今、この作品で作品と「ボクら」になれた、思いの温度を共有できた、そんなおこがましいことを思った半年ぶりの観劇だった。


余韻をさます時間稼ぎ、フワフワしたまま劇場の周りを1周してから駅に向かう。作品のあたたかさと音楽の素晴らしさと大好きな二人を目の当たりにした興奮と、沢山の贅沢にとっぷり浸かって、にやけてるようなちょっと気を緩めたら涙が出てきてしまいそうなそんな変な顔をしていたはず。マスクで隠せて良かったな、と思いながら。







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