チョコレートと氷砂糖

10年前の3月11日を、私が知っているあの日を、これ以上忘れないように、書いてみようと思う。ただただ長い、備忘録になると思うけれど。


終わったとか、忘れるとか、思い出すとか、何もできなかった後悔とか、恐怖感とか。あの時の、あの頃の私は、自分の中に生まれた初めての感情を上手に処理できなかった。あの時ほど、財力が必要だって、それがないと何もできないって痛感したことはなかった。コンビニの募金箱にお釣りを入れるのが関の山だった。

10年は、長い。時は流れていくから、あの時の気持ちのままでいることは、ない。だから、この10年で完全に記憶から消えたこともあるだろうし、現実とは違う記憶として残ってしまっているものもあると思う。今の私はあの時の私ではないから、覚えていると思っていることが本当にその時のことなのかは、確かめようがないけれど。それでも今日は思い出すべき日だと思う。


あの時私は東京の練馬区に友人とルームシェアをして暮らしていた。収入は、飲食店で夕方から朝までのバイトで得ていて、あの日は休みだった。前日も休みだったか、夜で終わりだったか覚えていないけど、あの日のあの時間は起きていたから、夜勤明けではなかったはず。私は自分の部屋で録画したドラマだかバラエティだかを観ていて、隣のリビングでは、同居人が何かしている気配がしていた。若手劇団員だった彼女は、その時期、新宿で所属劇団が行う公演の手伝いをしていたから、「今日はソワレだけなんだな。今日は何時に出ていくんだろうな」なんて考えていて、そのうちかかるはずの「行ってきます」の声を待つでもなく、なんとなく惰性でテレビに向かっていたのだと思う。

なんでもない日だった。そこに突然、揺れが襲ってきた。その瞬間は、知ってる、と思った。部屋にあった、私の身長より高いスチールラックを反射的に抑えた。阪神淡路大震災の時は四国にいて、やっぱり震度4くらいは揺れた記憶があったから。その時と明らかに違っていたのは、揺れの長さだった。いつ止まるんだって、思った。怖かったはずだけど、確実に上がっていく心拍数より、スチールラックが倒れてきたら本が全部落ちてしまうなぁ、それは嫌だなぁって思っている自分が、頭の片隅にいたように思う。
阪神淡路の時は眠っていたし、子供だったし、両親と妹と4人で寝ている寝室だったけど、あの時は起きていて、私はもう十分に大人だった。自分しか自分を守る人間はいなかった。隣のリビングから同居人の声がしたけど、お互いそこから動けなかったのを覚えている。木造のアパートの、ガラスの入った部屋の仕切りは、聞いたことのない音を立てて鳴っていた。

生まれて初めての、経験したことのない長い揺れが収まって、私と同居人はリビングのテレビや携帯で現状を認識しようとした。心臓の音が、自分の感じていた恐怖を実感させた。その恐怖が比較にならないくらいの恐ろしい映像が、テレビから流れてきて、私たちは声を失った。そんな状態だったが、とりあえず周りには大きな被害がなさそうで、とても申し訳ないことだけれど、安心したのを覚えている。

その後私たちは、ほぼすべての交通網が麻痺したことを知る。そんな中、彼女は自転車で新宿に行くと言った。所属劇団の誰とも連絡がつかず、講演の時間は迫り、電車はすべて止まっていたから、ほかの手段は確かになかったのだけど、今となってはなんと恐ろしいことをしたのだろうと思う。余震がこんなに来るものだなんて私も彼女も知らなかったし、帰宅難民なんて言葉も知らなかった。休みだった私とは違って、彼女が目の前のタスクを何とか行う必要があると考えたのは、若かったこともあるし、こういった類の不測の事態に対する正しい判断など、知らなかったしできなかった。あの日、彼女があの後、もし家に帰ってこなかったらと思うと、今でも震える。私は、親友をなくす可能性があったのだ。今思えばあの時、私は行かせないという判断をするべきだったし、ある部分で当事者ではなかったのだから、冷静さを持てていてもおかしくない年齢だったし、それが出来て然るべきだったのに、と今も時々思い出す。

その時働いていたバイト先は、壁にひびが入ったり、バーのグラスやお酒が落ちてしまったり、冷蔵庫が止まったりしたと聞いた。夕方に届いた社員・アルバイトへの一斉メールに「出勤の人は気を付けて来てください」と書かれていたのを今でも覚えている。この状況で、会社に来いという上司(同じ年齢で同性の社員だったので、余計に憤ったのだけれど)がいる、そして、それをおかしいと思えるその上がいないことは、そこを辞めるきっかけのひとつになった。

日付が変わるくらいの時間に、仲良くしていた当時1年目の社員の子(朝から働いていて、電車が止まっているから家に帰れなかった)から電話が来て、彼氏の家まで歩いている間、防犯もかねて話をした。歩いてきた人がいること、店長は車で帰ったことなどを聞かされたのも、そこを辞める一因になった。バイト先には東北出身者も多かったので、家族と数日連絡がつかない子もいて、かけるべき言葉を見つけ出せない、そんなものはないのだという圧倒的な無力感は、この時ほど感じたことはないかもしれない。

その後、流通も滞って、コンビニやスーパーから、特に日持ちのする食べ物が無くなった。こんな体験は、後にも先にもしたことがない。同居人と二人で駅前のスーパーまで、途中にあるコンビニ3件、全部に寄りながら行って、買ったものは大袋のアーモンドチョコレートと氷砂糖だけ。今でも強烈に覚えている。それだけ買うべきものがなかったのを、これを書きながら思い出したけれど、私にはあの時、チョコレートと氷砂糖が必要だったのかは、思い出せない。食べ物をいつ買えるのかは、全くわからなかったけれど、家に食べ物がなかったわけではなかった。何もないから、せめてこれくらいと思って買ったのかもしれない。人間って、そういうものなのだ。買占めようなんて思っていなくても、その時必要がなくても、状況で左右されて、買ってしまう。そういうもの。それを理性で抑えられるほど、若かった私は強くはなかった。そんなことを書きながら、コロナでマスクやトイレットペーパーがなくなった1年前が、頭をよぎった。


もう、10年なのか、と正直思う。あの後、1か月もしないうちに、仕事は確かになくしたけれど、一時的なものだったし、震災を経験はしたけれど、私は被害を受けてはいない。だから、10年たって、あの日のことを思い出そうとしても、何も出てこないのかもしれないとさえ思っていた。東北あれだけの被害があって、たくさんの人が亡くなって、あの時見た津波の映像は、一生忘れることはないと思う。地元に帰ってきたことで、あの日の揺れすら知らない人達ばかりなので、あの日、東京にいたことは、少し当事者のような気になることがある。でも当事者ではないと思っているから、どういうふうに居たらいいのか、話せばいいのか、今もよくわからない。

南海トラフが来ると言われている地方で私は生まれ育った。大学から関西に出て、そのあと関東に行って、長い間離れていたけど、4年前に戻ってきた。そんな私にとって、3月11日は、突き付けられる日なのだ。映像で見たあの光景が、自分自身に起こりうる。日々の生活や時間の流れに身を任せて、忘れそうになる自分自身に突き付ける日でもある。自分自身で考えろ、あの時の恐怖や、無力感や、そういうものを忘れるな。被害にあった方々と、同じ気持ちにはなれないから、そんなのはわかったうえで、どうしていくか。あの時の自分の気持ち、あの後、実際に落ち込んだこと。テレビから流れてくる津波の映像が見られなくなったこと。ずっと考えていられるわけはないけれど、忘れることは悪いことではないけれど。それでも、想像しろ、思い出せ。そういう風に、突き付けられる日。年に1日くらいは、そういう日を過ごそうと思える日。


思った通り、思い出したことをただただ吐き出すような文章になってしまった。でも、10年の歳月って、そういうことなのかもしれないと思う。誰かに読んでほしいわけでもないから、これでいいんだと思う。10年たっても、これだけのことを覚えていた。3650日の中の、何でもない1日とは明らかに違う日。あの日は私にとってそういう日だった。忘れられないうちは、覚えておくことにする。

誰かにとって終わったことが、誰かにとっては終わっていないなら、終わっていない誰かが悲しかったり辛かったりするときに、ただ寄り添うくらいはできる人でいたい。

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