世界はほしいモノにあふれているが、必要なモノはなかなか手に入らない

2020年7月18日、三浦春馬という俳優がこの世を去った。
首吊による自死とのことだ。

僕は彼と面識はないし、
彼の死で悲しみに打ちひしがれるほど親しくもないので、
こんな文章書くのは冒涜かもしれないが、
それでも少々思うことがあるので書くことにする。

基本的にテレビはNHKしか観ないので、
正直なところ俳優としての彼の姿はあまり知らない。
ただNHKには、
『世界はほしいモノにあふれてる』という、
彼の出演するレギュラー番組があって、
様々なジャンルのバイヤーが紹介する、
実に多様でこだわりのある品物を前に、
無邪気に笑う彼を見て、羨ましく思ったものである。

そんな彼でも、自死を選ぶほど辛い事があったのだと、
訃報に接して衝撃を受けたのである。

首吊と聞いて思い出すのは、5年前に亡くなった従兄の事だ。
僕には父方母方合わせて15人のいとこがいるが、
その中で最初に亡くなったのが父の姉の息子である、件の従兄だ。
離れて住む従兄だったので顔を合わせる機会も少なかったが、
気さくで、思い出せるのは笑顔の従兄だけだ。
そんな従兄でも、精神的に病み、結婚生活も破綻をきたし、
自死を選んだ。

『笑顔を作るのが巧かったのだな。』
そう思う。

僕の父にしても、従兄の母である伯母も、
従兄を惜しんでのことだが、
『馬鹿だ。』『何も死ななくても。』という。
しかしながら、僕は思う。

西行法師の残した歌に、
『身を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけれ』というのがあるが、
従兄は、おそらく父や伯母よりも生きたかったのだ。
生きたくて、それでもままならない事があったのだ。

従兄の訃報を聞いた後、自室に戻って枕元にあった本を何気なく開いたら、夏目漱石の『硝子戸の内』だった。


「もう十一時だから御帰りなさい」と私はしまいに女に云った。女は厭な顔もせずに立ち上った。私はまた「夜が更ふけたから送って行って上げましょう」と云って、女と共に沓脱に下りた。
 その時美くしい月が静かな夜を残る隈なく照らしていた。往来へ出ると、ひっそりした土の上にひびく下駄の音はまるで聞こえなかった。私は懐手でをしたまま帽子も被らずに、女の後に跟いて行った。曲り角の所で女はちょっと会釈して、「先生に送っていただいてはもったいのうございます」と云った。「もったいない訳がありません。同じ人間です」と私は答えた。
 次の曲り角へ来たとき女は「先生に送っていただくのは光栄でございます」とまた云った。私は「本当に光栄と思いますか」と真面目に尋ねた。女は簡単に「思います」とはっきり答えた。私は「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と云った。私は女がこの言葉をどう解釈したか知らない。私はそれから一丁ばかり行って、また宅の方へ引き返したのである。


そんな一節が目に止まった。
自死を選ぶ前に、
『そんなら死なずに生きていらっしゃい』と、
言ってくれる人がいたなら死なずに済んだのだろうか。
死ななければ救われているのか?
生きていさえすればそれで良いのか?
生きることは、概ね苦痛だ。
本当に必要なものは…
『硝子戸の内』はこう続く。


 不愉快に充ちた人生をとぼとぼ辿りつつある私は、自分のいつか一度到着しなければならない死という境地について常に考えている。そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。
「死は生よりも尊い」
 こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来するようになった。
 しかし現在の私は今まのあたりに生きている。私の父母、私の祖父母、私の曾祖父母、それから順次に溯ぼって、百年、二百年、乃至ないし千年万年の間に馴致された習慣を、私一代で解脱する事ができないので、私は依然としてこの生に執着しているのである。
 だから私の他に与える助言はどうしてもこの生の許す範囲内においてしなければすまないように思う。どういう風に生きて行くかという狭い区域のなかでばかり、私は人類の一人として他の人類の一人に向わなければならないと思う。すでに生の中に活動する自分を認め、またその生の中に呼吸する他人を認める以上は、互いの根本義はいかに苦しくてもいかに醜くてもこの生の上に置かれたものと解釈するのが当り前であるから。
「もし生きているのが苦痛なら死んだら好いでしょう」
 こうした言葉は、どんなに情なく世を観ずる人の口からも聞き得ないだろう。医者などは安らかな眠に赴こうとする病人に、わざと注射の針を立てて、患者の苦痛を一刻でも延ばす工夫を凝こらしている。こんな拷問に近い所作が、人間の徳義として許されているのを見ても、いかに根強く我々が生の一字に執着しているかが解る。私はついにその人に死をすすめる事ができなかった。

-中略-

 かくして常に生よりも死を尊いと信じている私の希望と助言は、ついにこの不愉快に充ちた生というものを超越する事ができなかった。しかも私にはそれが実行上における自分を、凡庸な自然主義者として証拠立てたように見えてならなかった。私は今でも半信半疑の眼でじっと自分の心を眺めている。


こう、夏目漱石の文章を引用する僕は、やはり『死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。』
人に推奨するつもりもないが、
せめて、自死を選んだ人たちは、その選択によって救われたのだと信じたい。

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