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何となく自分でいたくない瞬間

おはようございます。堂ノ本です。今日は、なんとなく自分でいたくない瞬間の話を書きます。

日々の生活を送る中で、我々は常に何者かであることで、その空間に許容されます。例えば、職場で私は、卒業生で機材係の堂ノ本敬太です。その肩書きによって”部外者”にならずに済むわけです。同じように、行きつけの居酒屋では、いつも通ってくれている堂ノ本敬太です。場合によっては、「映画を作っている」とか、「奈良の大和高田市に住んでいる」とか、そういう情報が付帯されます。基本的に、どの空間にいても、何らかの堂ノ本敬太です。

当然、人は何か得体の知れないものに「恐怖」などの類の感情を持つわけで、情報を得ることで許容できるようになるのだから、仕方のないことです。けれど、そういうのがしんどい時ってありませんか。しんどいという言葉は適切ではないかも知れません。なんとなくそんな感情になることがありませんか。

なんらかの肩書きの上で人と関わるのだから、例えば、私は職場では奇声を発しません。けれど自宅ではルームメイトとバカみたいに大声で叫んだりします。いつもの居酒屋では、常連とはいえ自分からマスターに話しかけることは殆どありません。けれど、彼女といたらずっと話しかけたくなります。例えば、大学の友人と会う時と、高校の友人と会う時、中学の友人、地元の友人、先輩、後輩、誰と会っても、違う自分な訳で、それは相手との距離感や親密さの差異もあるのでしょうが、とにかく全員違うわけです。100人と会えば、その100人にとっての堂ノ本敬太がいるわけで、その堂ノ本から逸脱するとおかしなことになります。先輩と喋っているのに中学の友人のように話すのは、許されないわけです。AさんとBさん、丸っきり対応を逆にすると、相手は困惑するでしょう。結局、それぞれが信じるであろう「堂ノ本」を堂ノ本が演じるわけです。

別に普段は、どなたも無意識にやっていることで、疲れなんて感じません。私も同じくそうです。けれど、そういう「堂ノ本」を演じる時間が長くなるうちに、次第に、自分の感情や自分の思考を、内へ内へと追いやっている自分に気づきます。そのうちに、自分がどうしたいのか、自分でもよくわからなくなっていたりします。

さて、本題です。私は一体、誰といる時に何でもない堂ノ本敬太になれるのでしょうか。別に日々に疲れたとか、病んでいるとかそういうわけでもないけれど、どうにもただの自分でいたい、〇〇な自分でいたくない瞬間、私はどこに行けばいいのでしょうか。

結局、そういう時は一人で静かに自室で過ごすとか、例えば誰も知らない居酒屋で一人飲みをするとか、カフェや図書館で本を読むとか、そういうことが解決法としてはよくあるんでしょう。私もそれらは試しました。でも、どうにも黙っていたくないと思うのです。何者にもならずに、誰かと話せる場所。そういうものはないのでしょうか。「ただの自分」として、何かを話せる場所。

そう考えると、カトリックの懺悔室、告解というのは、それに近いもののように感じています。そもそも告白する、懺悔をするというのは、ただの自分に戻らないとできないわけで、それを神父がただ聞いて、それでは悔い改めるために祈りましょう、というのは、かなり理想に近い空間と言えそうです。

けれど近いと感じ、興味を持ちながら、それでも教会へ足を運ぶのに尻込みするのは、「教会にいる堂ノ本敬太」になるのではないか、と思うからでしょう。今度、とにかく行ってみようと思いますが、何となく、私の予感は合っているように感じます。

そういえば、こういう話を彼女にした時に、「私でよかったら話を聞くよ」と言ってくれました。けれど、彼女といる時の私は、紛れもなく「彼女といる堂ノ本敬太」な訳で、無意識に、そういうキャラクターになっているはずです。勿論、人にはいえない話も、人には見せられない姿も、彼女には見せられますが、それは必ずしも全部ではないし、それはきっと、どの人もそうでしょう。

なんて青臭いことを言ってるんだ、とも自分で思いますが、この「何らかの仮面を持つようになる瞬間」とは、すなわち大人になっていっている瞬間だと言えます。日々我々は、多様な自分を持ち合わせ、TPOを弁えながら、適切な人格を世界に表現しなくてはならないわけです。

じゃあ何者でもないただの堂ノ本敬太が許容されるところはないのか。やっぱりそこが気になります。何者ではない自分、それがどんな人間なのかさえ、もしかすると我々は忘れていってしまうのかもしれません。

ふと、思っただけですが、書けば書くほど、ドツボにハマりますね。

もしかすると、私はハロウィンに渋谷に集まる馬鹿者なのかもしれません。何者でもない自分を許容されないから、何者でもない、自分でさえない存在として「仮装」という行為でもって街へ飛び出す、というのは、結論として正しい気さえします。

いや、ほんとに切実な問題です。

とにかく、今度日曜礼拝に行ってみます。敬虔な信者さんには、大変無礼な話かもしれませんが、ある意味で救いを求める人間なのですから、キリストも受け入れてくれるはずです。

今日はこの辺で。


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