見出し画像

チェンソーマンで描かれる「性と死」の彼岸(「性」編)

チェーンソーマンがすごい。

昔ほど漫画を読まなくなり、新刊の発売日を毎週チェックすることもなくなった僕が、久しぶりにハマっている。

それなのに、誰かにチェーンソーマンという漫画は「面白いのか?」と聞かれたら、僕はうまく答えることができない。ただ、そこにはまだ僕たちが「見たことのない何か」が描かれているような気がしている…そんな曖昧な返事しか返せない。

そしてその「何か」が、最新刊の第9巻には、ある意味で分かりやすく描かれていて、今回さらに衝撃を受けた。できる限りネタバレにはならないように、その衝撃について書いてみたい。




まず一つ目は「お色気シーン」についてだ。

少年漫画にお色気シーンは欠かせない。多くの少年たちは、少年漫画で最初の「色気(≒エロ)」を知ると言ってもいいだろう。

この漫画の主人公「デンジ」もまた、エロへの欲求は分かりやすいほど真っ直ぐだ。彼は、上司である「マキマさん」の「胸を揉む」という目的のために戦い、いつか「そういう行為(つまりはセックス)がしたい」と願っている。その点で彼は、とても少年漫画の主人公らしいと言える。

しかし、この漫画ではその主人公を通して読者が感じるはずの「エロ」が、ほとんど描かれない。いや、正確にはこれまでの少年漫画であれば「お色気シーン」になり得る描写がないわけではない。

けれどむしろ、そこに描かれたものから読者が感じるのは、主人公のエロへの欲求が真っ直ぐだからこその「エロの虚空」であり、大袈裟に言うならば「エロとは何か?」という問いなのだ。

そして現段階で、その集大成ともいえるシーンが今回の第9巻の冒頭で描かれる。

主人公のデンジは、物語の中でバディとなった少女(の姿をした悪魔)「パワー」に、一緒にお風呂に入ってとせがまれ、そのまま一緒にお風呂に入り、寂しい怖いと言われてベッドの中で何度も抱きしめられる。そしてその抱きしめられるときのシーンの体勢は(おそらく意図的に)まさにセックスのときのそれだ。

これが、恐ろしいくらいに「エロくない」のだ。

いや、より正確に言うならば、初めに読んだときには、物語が大きな節目を越えた後によく挿し込まれる、少年漫画お決まりのお色気シーンを含む日常が描かれるのだなと思った。
そして確かに実際、他の漫画でなら間違いなくバディである少女と主人公(つまりは主に「男性読者自身」だ)の擬似恋愛とセックスシーンとして、大満足できるであろう展開ではあるのだ。

けれど、その1話を読み終わったときに、全くと言っていいほどその(擬似的な)行為を終えたという、ある種の充実感がなかったと言った方がいいかもしれない。

もちろんこれは、僕が歳を取ったからそう感じているだけなのかもしれないし、そもそも作者の絵もいわゆる「萌え絵」ではないからだという見方もできるだろう。
ただ、そういった要素を差し引いても、たぶんそのシーンの本質は変わらないようにも思う。なぜならそれこそが作者の狙いだと、僕は思っているからだ。

これまでの少年漫画では(幾つかの例外はあるにせよ)基本的に、エロくないものを「エロを匂わせる」ように描くか、いわゆる「ラッキースケベ」によって、作品の中にエロを「仕込んで」きた。そういったシーンは読者を惹きつけるし、そういったシーンをどれだけ18禁のエロに近づけるかにしのぎを削ってきた部分もあるだろう。

けれど、チェーンソーマンで描かれているのは、その真逆だ。絵面だけなら完全なセックスシーンと受け止められるシチュエーションや構図が何度も出てくるにも関わらず、その絵面だけで「エロは成立しない」ことを示そうとしているかのようだ。

そしてそれは、漫画という表現、しかもこのチェーンソーマンという作品でしかなし得なかったのではないかとすら思う。

これは読んだことのある人にしか伝わらないところではあるのだけれど、主人公のデンジとそのバディのパワーというキャラクターは、これまでの物語の中で、読者の常識を揺さぶりに揺さぶり続ける。
だからこそ、他の漫画でならエロとして十分に成立するはずの様々なシーンを、これまで読みつづけてきた読者は「(男女問わず)エロとして受け止められない」ような下地が、丹念に用意されていたのだ。

その試みは少なくとも、僕に向けては成功している。そしてそこに僕は驚きとともに、さらに深い「お前が求めているものはエロか、それとも『性』か?」という問いがあるように感じたというわけだ。

「性」とは「心」と「生」という二つの文字が一つになった文字だ。「心が生きる」ことを実感するのが「性」なのだ。

だとするならば、この作品以外であれば容易に「エロ」として成り立つ場面ですら、そこに「性」はないということを、作者はこの作品の中で描こうとしているのではないかとも思う。

現代には様々な「エロ」が溢れている。それは安易に僕たちを刺激し、より強い刺激への渇望を再生産しているかのようにすら思うことがある。
しかし、その一方で僕たちは「性」を、つまりは「心が生きている」実感を、どこか見失ってはいないだろうか。

もしそうだとするならば、この作品は「その先」にある誰もまだ「見たことのない何か」を、現在進行形で描き出そうと試行錯誤しているのかもしれない。

そしてそれはまた、その対極にある「死」の描き方へと続いていく。

【チェーンソーマンで描かれる「性と死」の彼岸(「死」編)に続く】