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さっきの雑記 1(オモイツキ備忘録)

【今回のテーマ】
「歌」に見る身体性と言葉(あるいは意味)との相補関係(前編)


なんか大袈裟なテーマを書いちゃいましたけども…僕が要約すると、どうも堅くなる…

まあ、とりあえずテーマのことはあまり気にせず、続きを読んでもらえればありがたいです、はい。

【⒈渚にまつわるエトセトラは、なぜ歌として成立するのか】

また大袈裟な、と思いましたね!?
すいません、そこは諦めてください(開き直った)。

いやね、昨日たまたま流れで「井上陽水の歌詞のぶっ飛び具合」の話になったんですよ。

その中でもPUFFYの「渚にまつわるエトセトラ」は、相当なものだよねとなったわけです。

ちなみに、歌詞はこちら。

いわく「あんなに歌詞に意味がないのに、すごい歌だなってなる」と。

僕も、そうだよねって思いながら、そのときふと頭に浮かんだことを、これから書くんですけど。

渚にまつわるエトセトラの歌詞は、ざっくりいうと「言葉としての意味のつながり」みたいなものは、ほぼ崩壊してます。
例えば歌詞中の「止まり木にあのハリソンフォード」なんて、ぱっと思い浮かべるのも困難な状況ですよ。

それでも歌詞を言葉として捉えて、そこに意味を見出そうとすれば、もちろん出来なくはないだろうけど、そもそもそんなことをすることにあまり「意味がない」。

ところが。

楽曲として「歌」として流れてくると、圧倒的にハッピーでキラキラした世界が、誰の頭の中にも浮かんでくる。

これ、実は結構すごいことだと思いません!?

まあ、僕は音楽の専門家でもなんでもないので、楽曲自体の素晴らしさなど、解説できる人はたくさんいるのだろうし、ツッコミどころは満載なのは承知の上で、無理やり話を続けさてせていだきますけども。

専門家でも何でもない僕は、単純に「なんでかなぁ」と思ったんですよね。

で、昨日の話の中では「歌っていう、ある種の身体性が言葉に意味を与えてるんだと思う」って、さらっと言ったんですけど。

そのあとで「あれ、これ結構おもしろそうな話じゃね?」って一人で考えてたわけです。

なので、自分が思いついたことをもう少し整理してみて、歌うことによって何が起きてるのかなと考えてみると、こんな感じになりました。


歌うことによって、言葉がいったん「音色」になり、その意味が解体される。
そして、その音色によって言葉の意味が「補完」されて聞こえることで、聞く人の中で新たな意味が生まれる。


なのかなと。

歌うという「身体性」が、その音…つまり解体されたあとの「言葉」に、さらに意味を与えてるんじゃないかなと。

まあ、難しく聞こえるかもしれないですけど、言葉そのものが独立して持つ意味の他にも、身体を持った人間が「発する」ことによって、さらに言葉の意味が豊かになったりもするんじゃないかなってことです。

う〜ん、これでもなんか難しそうだな。

例えば、電話越しに誰かに謝るとき、見えてもないのに頭を下げながら「ごめんなさい!」っていう方が、何か伝わる気がしませんか的なことです(笑)

(そのうち続く)